第19話 予想外の展開

「何故だ、何故負ける」

 相次ぐ敗戦の報に、慶喜は信じられず半ば呆然としていた。一月四日の朝のことである。

「上様、未だ緒戦でございます。我が軍は必ず挽回するはずです」

 慶喜に第一報をもたらしたのは、老中の板倉勝静だった。

「当たり前だ。我らはフランス式の最新鋭の武器を備えた軍隊を派遣している。負けるわけがなかろう」

 そう言う慶喜の言葉ひとつにも覇気が感じられない。いかにも自信がなさそうに見える。緒戦とは言え、慶喜にとっては敗退が余程の衝撃だったのだろう。

「中根殿はまだ城内にいるか」

「はい、しかし本日昼前には、帰京なさる予定です」

 慶喜に入京するようとの朝命を伝えに来た越前藩士であり、参与の中根雪江は幸い未だ大坂城内に留まっていた。

「議定宛に文を書く。それを持ち帰るよう、待って貰うように」

 尾張の慶勝や越前の春嶽、それに土佐の容堂宛の文である。

『此度の交戦は自分が固く禁止していたにも関わらず、かかる仕儀となったことは遺憾の極みであり、どうか帝に害が及ぶことのなきよう、くれぐれも頼む』

慶喜は書簡に以上の内容を認めた。

 得意の自己保身作戦が発動された瞬間である。

「それから、予は風邪じゃ。年始から高熱のために予は寝込んでいた。これからも布団で休む。予が声をかけるまでは、他に誰も来ることがないように。何かあれば全て、伊賀守(勝静)から持って参れ。よいな」

「承知仕りました」

 半ば呆れながらも、勝静は慶喜の意図を察知し、指示通りの差配を行った。

 翌朝、薩長軍に錦旗が掲げられたことを知った慶喜は、いよいよ塞ぎ込んでしまう。更に六日になると、藤堂の裏切りのために、橋本における戦で大敗した兵が、続々と帰城する様子を眺めながら、いよいよ落胆の度合いを深めていた。

 小心者の慶喜としては、もう一刻の猶予も許されない。いずれにせよ、朝廷に対し奉り反逆の意思なきことを報せる方策を考え、すぐにでもそれを行動に移す必要があった。

 慶喜は老中筆頭である板倉を呼び寄せた。

「すぐに永井と肥後守、越中守を呼べ」

「その前に一言宜しいでしょうか」

 勝静から進んで発言することは珍しい。

「何だ」

「上様は會津藩家老の神保修理殿はご存知でしょうか」

「知らぬが、その者が如何したというのだ」

「実は先ほど、その神保修理殿と、事後の方策について話す機会がございました」

 その「事後の方策」という言葉に、慶喜の関心が注がれた。

「ほう、してその方策とは」

「此度は、一敗地に塗れたというわけではなく、あくまで局地戦における敗戦です。大坂城が如何に天下の名城とは申せ、ここは西国の拠点であり、我らの本拠地ではありません。西国では薩長に味方する藩が多く、淀藩や津藩の如くこれからも、反旗を翻す藩がないとも限りません。先ずは江戸への東帰を図り、東国の諸藩を従えて再起を期するが賢明かと存じます、との献策でした」

「なるほど。その手もあったか。考えておこう」

「有難き幸せ。それでは直ちに御三方を呼んで参ります」

「うむ」

 慶喜はこの時既に、この案で行こうと密かに決めていた。但し、それは東帰の後の再起ではない。東帰の後の蟄居恭順であった。

 慶喜の下に四人が顔を揃えたのは、それから四半時の後のことである。

「先ずは、此度の敗戦をどう収めるかである。予があれほど薩長の挑発に乗ってはならない、と厳命したにも関わらず、両藩兵を中心に暴発してしまったというではないか」

 この事実とは相反する慶喜の言葉に驚き、真っ先に反応したのは容保だった。

「お待ちくだされ。確かに我らの藩士が、薩摩討つべしと叫んだのは、紛れもない事実でございます。しかしながら、討薩表を掲げて進発しろと命じたのは、他ならぬ上様ではございませんか」

「予は知らぬ。予は風邪で寝ていた。のう、伊賀守」

 白々しい慶喜の虚言に、戸惑いながら板倉勝静は容保に向かって語りかけた。

「肥後守様、ここは上様をお守りするためにも、そういうことにして頂かないと」

 しかし、容保は一歩も引かぬ覚悟である。

「それは最終的な局面に至れば分らぬ話でもありません。しかし、此度の錦旗は、薩長が幼帝や周りの皇族公家衆をたぶらかして掲げたものであり、文久の政変以前の偽勅と何ら変わりありません。局地戦で負けたとは言え、まだまだ兵も武器も、そして幕府の海軍も温存されており、この大坂城を根城として戦えば必ず勝てます」

「その通りです。こうなった以上は、徹底的に戦い、どちらが正しいかを世に知らしめるべきと考えます」

 桑名藩主であり、容保の弟・定敬も賛同する。

「予には勝てるとは思えぬ」

 慶喜は完全に弱気だった。

「畏れながら申し上げますが、此度の敗戦の原因は指揮官にあります。滝川殿などは爆音に馬が驚いたとは言え、一度は淀まで引き下がったというではありませんか。伏見へと進んだ竹中重固殿も途中離脱では、勝てる戦も勝てませぬ。過ぎたこと故に今更申し上げても詮無き事とは申せ、こうなっては拙いので、軍勢を発する以上、交戦回避は不可能につき、我ら二人を軍勢に加えて欲しい、とあれほどお願したのです」

 確かにそうだった、あの時容保の話を聞いていればよかった、と遅まきながらにつくづく悔やむ慶喜だった。

「肥後守殿、それは言わないで下され。我ら側近も、御口添えしなかったことを、今頃になり後悔しているのです」

 若年寄の永井尚志が慶喜をかばうように言った。

「無論、いくら悔いても過去は変えられません。だからこそ、今度は我ら二人を、前線の指揮に当たらせて頂きたいのです」

「分かった。前向きに考えよう」

 ようやく分かってくれたか。容保は少しだけ安堵し、巻き返しはここからだ、と気持ちを新たに、自らを叱咤しながら慶喜に願い出た。

「先ずは上様、退却してきた将兵が大広間に集まっております。どうか皆の声を聞いて差し上げて下さい。そのうえで今のお気持ちをお話し頂ければ、皆の心は奮い立ち、必ずやご期待に沿うべく尽力してくれるものと心得ます」

「うむ。では参ろうか」

 大広間では、旗本、會津・桑名藩兵、それに新選組や見廻組が加わり、思い思いに車座となり、口角泡を飛ばしながら、血気に逸る様子が見てとれた。

 慶喜や容保らが入室したのを目にすると、どっと歓声が上がり、永井尚志の制止する声でようやく静まり返る、といった盛り上がり様だった。

 慶喜は一同をゆっくりと見渡して後に口を開いた。

「此度は負けたとは言え、よくぞ我がために戦ってくれた。礼を言う」

 すると、どこからともなく、声が上がった。

「上様、一日も早くご出馬遊ばされますようお願い奉ります」

「上様が陣頭指揮に立たれれば、我らは百人力、いや万人力でございます」

「ご出陣を」

「今度こそ勝ちましょう」

 など、上げればきりがない程の声が、大広間中に響き渡った。

 再び、それらの声を制した永井の後を受けて、慶喜は大声で告げた。

「よし、分かった。今度は儂が指揮を取る。皆は持ち場に戻り、進発に向けて準備せよ」

 この一声で大広間に大歓声が上がったことは言うまでもない。やがて、元気を取り戻して闘気を再燃させた皆が、それぞれの持ち場へと戻っていった。

 永井は総督の大河内らとの作戦会議があり、容保や定敬も藩士のもとに行くらしく、一礼をして退出した。いつの間にか大広間には、慶喜と老中・板倉勝静だけがその場に残されている。

 慶喜は板倉一人だけに、今後の方針を打ち明けた。

「予は江戸に帰るぞ」

「しかし、先ほどの御言葉を皆が信じております」

 突然の言葉に板倉勝静は狼狽ろうばいが隠せない様子だ。

「もう決めたことだ。誰が何と言おうとも江戸に戻る」

「しかし、どうやって戻ると言われるのです」

「開陽丸が寄港しているではないか」

 開陽丸は幕府がオランダから買い求めた軍艦である。

「東帰して再起を期するのですね。それでいつご出立なさいますか」

「これからすぐだ。肥後守と越中守も連れて参る」

「しかし、お二人はこの地で戦うつもりですぞ」

 板倉勝静は、慶喜の考えに翻弄されっぱなしで、困惑の色を隠しきれない。

「城内では拙いので、開陽丸船内で極秘の作戦会議を行うとでも伝えよ。予は一足先に城の後門近くに参る。そこで落ち合おうぞ」

 こういう時の慶喜の機転と(悪)知恵には、右に出る者は誰もいないであろう。

 板倉が容保を訪ねると、そこには顔見知りの重臣と思しき何人かが顔を揃えており、作戦を練り始めている様子だった。容保の他は家老の萱野権兵衛をはじめとして、公用方の手代木直右衛門に広沢富次郎、それに神保修理ら他数人が、近隣の地形を記した図面に目を落としながら、何やら話し込んでいる。

『自分は、この方々をたぶらかして、肥後守殿を連れ去らねばならないのか』

 板倉は慶喜の命とはいえ、自らがこれからやろうとしていることの罪深さをあらためて思い知りながらも、全ての感情を押し殺したうえで、容保だけに聞こえるように耳打ちした。

「上様が今後の戦にあたって、城外に繰り出し開陽丸船上にて、極秘の会議を催すとのこと。ついては、肥後守様と越前守様にも御同席をお願いせよ、とのことでございます」

 かくして、その言葉を信じた容保と定敬も、板倉に従い大坂城の後門へと歩を進め、慶喜らに合流して城を抜け出し、開陽丸へと乗り込むことになった。


(第二十話『不本意な東帰』に続く)

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