第18話 裏切り、そして敗走

 朝廷内の動きなど、戦地ではまるで知る由もない。翌一月四日も、払暁から戦いが始まった。前日、下鳥羽村まで後退した旧幕軍は、米俵を使って胸壁として陣地を構築したため、危険と判断した薩長軍は、深追いせずに朝を迎えている。

 しかし、ここでも旧幕軍は過ちを犯してしまう。砲四門と無傷の連隊を前面に出したまでは良い。しかし、敵が昨日と同様に半円を描いた布陣と分かっていながら、無謀にも中央突破を試みるのである。

 敵の包囲に身を晒して、どうやって勝てるというのだろうか。前日の引継ぎと作戦会議が、しっかりと行われたのかどうか、ついつい疑いたくなってしまう。

 案の定、旧幕軍は前方と左右からの攻撃に損害を増やすばかりで、馬上で指揮を取っていた陸軍歩兵奉行並の佐久間信政が狙撃戦死したのを境に、再び下鳥羽の陣地まで後退する羽目になってしまった。

 余勢を買った薩長軍は攻勢に転じる。午前八時頃から、旧幕軍が構築した米俵の胸壁めがけて、散兵しながら激しい攻撃を加えた。旧幕軍もここでは粘り強く抵抗したが、それを破ったのが、近距離からの榴弾だった。薩長軍は砲四門を繰り出し、二門を破壊されながらも、胸壁を吹き飛ばし破口をつくることに成功する。そこに伏見から一隊が転進してきたために、旧幕軍は前方と右翼からの攻撃に晒され、富の森への後退を余儀なくされていた。

 これが四日の午後二時頃のことであり、この下鳥羽の戦闘では、旧幕軍連隊長の窪田鎮章しげあきと副連隊長の秋山鉄太郎が戦死している。

 旧幕軍の後退を受けて薩長軍は追撃に移り、富の森から更に淀方面へと進軍した。富の森では旧幕軍が空の酒樽に土砂を詰めたうえに、畳や戸板で胸壁をつくった陣地を構築していたが、兵は少人数しか割いていない。勢いづいた薩長軍は、富の森の陣地をいとも簡単に突破していた。

 しかし、ここから翌五日までが鳥羽伏見の戦いにおける旧幕軍最大の見せ場となった。旧幕軍にとって、実は富の森が時間稼ぎの場でしかなく、納所に追い込むための策略だった。

 富の森から納所までの鳥羽街道は、桂川と湿地帯や田畑に挟まれ狭い進路となっている。その狭い進路に薩長軍を追い込んだ旧幕軍が、前方と側面からの十字砲火を浴びせることになったのだ。更に会津藩の斬り込み隊が、少人数に分かれて湿地帯に潜み、刀槍攻撃を仕掛けるから、薩長軍は堪らない。遂には後退する薩長軍を追撃し、富の森を奪還するに至ったのである。この時、既に薩長軍に錦旗が翻ってはいたが、戦地に於いては動揺よりも戦意が勝っていた証拠でもあった。

 翌五日、薩長軍は再度、旧幕軍が陣取る富の森に向けて攻撃を開始した。しかし、前日とは打って変わり、旧幕軍の抵抗は凄まじいものがあった。昨夕から酒樽や畳、戸板などの胸壁を強化し、簡単には突破できない陣地を構築していたのだ。この胸壁から猛攻撃を加えるのだから、薩長軍はなす術もない。

 この戦闘で薩長軍は三日の開戦時に滝川具挙とやりあった、椎原小弥太や市来勘兵衛といった隊長級を失うことになった。

 何とか戦況の打開を図ろうと、薩摩の大山弥助(巌)率いる砲隊が六門を率いて援軍に駆けつけたが、潜伏していた旧幕軍の猛攻によって、更なる苦戦を強いられることになる。それは、會津藩兵が得意とする斬り込み攻撃が功を奏したためだった。   

 この會津の斬り込みに対しては、薩摩の示現流の使い手を集めた掩護隊が対抗し、なんとか切り抜けはしたものの、砲兵の損傷と砲弾の不足から、戦闘継続が危うくなりかけてしまう。

 この危機を救ったのが、後方で休息と補給を受けていた一隊である。この一隊は、前日も下鳥羽の米俵で築いた胸壁を、危険な攻撃を顧みずに破壊した精強軍である。前線の危機を聞きつけ、旧幕軍の猛攻を掻い潜り、至近距離から榴弾や散弾を打ち込んだから、さすがの旧幕軍も堪らない。遂には、富の森や納所を捨てて淀城に向けて後退するしかなかった。

 一方、伏見方面でも會津別選隊と新選組が善戦していた。

 宇治川沿いの山崎街道を南下してくる薩長軍を、千両松の堤防下で待ち伏せし、斬り込みを敢行したのだ。一本道で周りは湿地に覆われているので、薩長軍が横に展開して、得意の銃砲攻撃を加えることが出来ない。

 このままでは薩長軍の壊滅もそう遅くはないと思われたその時、薩長軍から「退け」という掛け声と合図の喇叭が辺りに鳴り響いた。

 會津別選隊と新選組が、その後退が何を意味するかに気づいた時は既に遅かった。薩長軍は味方の兵を退かせて、敵軍との距離をつくり、何段にもわたる銃攻撃を仕掛けたのである。

 この銃攻撃の餌食となって落命したのが、新選組の最古参でもある井上源三郎ら隊士七人である。こうなっては勝ち目がないと即断した會津兵士と新選組も、退却せざるを得ず淀城へと後退していくことになった。

 淀城は老中・稲葉正邦の居城である。稲葉正邦と言えば、つい先日、江戸において老中として薩摩藩邸焼き討ちを指示した張本人である。更に遡れば、「八月十八日の政変」の時も、長州の追い出しに協力した譜代の藩である。

 この淀藩が取った行動が、鳥羽伏見の戦いにおいて、旧幕軍の敗戦を決定づけたと言っても過言ではない。淀城の留守を預かっていた田辺治之助が取った行動は、城門を閉じたうえに、なんと旧幕軍に対して城の狭間から銃口を向けたまま、入城を拒絶したことだった。

 先見の明がある判断、と言えばそれまでだが、藩主の意向も聞かずに、錦旗が翻ったことに動揺して裏切った、卑怯者とそしられても仕方のない行動である。

 この「淀の裏切り」として、あまりにも有名な反逆によって、旧幕軍は更なる後退を余儀なくされてしまう。淀城への入城を拒否され失意のまま向かった先は、石清水八幡宮が鎮座する男山の麓である。

 旧幕軍は裏切りに遭ったとはいえ、未だ戦意を失ったわけではない。男山の東西に分かれて陣を敷いた。主力を西側の橋本に配置し、更に南には小浜藩が守備する楠葉砲台、更には山崎に陣取る津藩が高浜砲台から攻撃することになっている。その背後には、禁門の変の折に真木和泉らが立て籠り、自爆した天目山が控えている。鉄壁の布陣といってもよいものだった。

 しかし、翌六日、ここでも予想外の裏切りによって、旧幕軍は大敗を喫することになってしまった。今度は味方であるはずの津藩家老・藤堂采女うねめが、横合いから旧幕軍に向けて砲撃を仕掛けてきたのだ。これは藩主藤堂高猷たかゆきの指示と言われている。藤堂と言えば、藩祖の藤堂高虎も大恩ある豊臣家を裏切り、関ヶ原では東軍として大谷刑部と戦ったことで有名だが、今度はその徳川を裏切り、薩長に付いたことになる。皮肉なことに、高虎以来の「裏切りの血脈」は、二百六十年余を経て尚も、脈々と受け継がれていたのだろう。

 この津藩の寝返りで、旧幕軍はこの橋本の戦いにおいても総崩れとなった。この時の戦いで、京都見廻組の佐々木只三郎が重傷を負っている。(後に江戸に戻る船中で死亡)

 ここまで追い詰められると、もう残された途は唯一つしかない。大坂城に戻り、態勢を立て直すことだった。旧幕軍は再戦を期して、大坂への道をひたすら急いだ。


(第十九話『予想外の展開』に続く)

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