第17話 朝敵への転落

 慶応四年(1868年)元日、慶喜の名で作成した「討薩表」を手に、総勢一万五千の大軍が大坂城を発ち、京を目指して進軍した。

 旧幕軍の総督は大河内正質、副総督は塚原昌義である。本営を淀と定め、更に北上し納所の近くまで進んだところから、軍は二手に分かれた。

 主力である幕府陸軍歩兵隊と佐々木只三郎が指揮する京都見廻組、それに桑名藩兵の一部は鳥羽街道を進む。指揮官は大目付の滝川具挙ともたかである。一方、會津藩兵と前年旗本として認められた新選組、桑名藩の残りの兵士は、宇治川を右に見ながら山崎街道、そして伏見街道を北上し、一路伏見を目指すこととなった。指揮官は陸軍奉行の竹中重固しげかたである。

 この慶喜挙兵の報せを受けて、大喜びしたのはもちろん西郷隆盛だった。直ちに薩摩・長州、それに山内容堂の命に逆らい倒幕を志す土佐藩の一部諸隊が、各所に迎撃態勢を敷き旧幕府軍を待ち構えた。

 鳥羽街道を北上する旧幕軍主力が、上鳥羽村で薩摩軍の斥候と接触したのは、一月三日の午前中のことである。先頭は滝川具挙を護衛するための京都見廻組であった。見廻組は刀槍の和装で、銃の所持はない。

 見廻組の佐々木只三郎は斥候に通行許可を求めた。只三郎は旗本家の養子として迎い入れられた、會津藩公用方である手代木直右衛門の実弟である。

「我らは徳川慶喜公上洛に先立っての供回りの者である。直ちに道を通して頂きたい」

 薩摩軍の斥候はいつ攻撃されるか分からないから、内心穏やかではないが、予め準備していた通り応えた。

「それがしの一存では決めかねる。只今より京に問い合わせるが故に、その間、暫し控えるように」

 その斥候の言葉を、そのまま滝川具挙に伝えると、真に受けた具挙は後退を命じ、小枝橋を渡り赤池付近まで引き返してしまう。もしも、問答無用とそのまま押し切っていたら、この緒戦の展開は全く違ったものになったに違いない。

 ここにおいても、勝つためには手段を選ばない薩摩軍が一枚上手だった。旧幕軍が呑気に軍を後退させている間に、薩摩軍は軍勢と砲四門を前進させ、小枝橋を渡って左右の藪に兵を潜ませて戦闘準備の態勢を整えた。

 この状態が夕方まで続けば、さすがにおかしいと思うはずだが、「薩賊何するものぞ」という気概とは裏腹に、太平の世に浸りきっていたとしか思えない滝川具挙は、戦闘準備の態勢も取らせずに、薩摩の椎原小弥太と山口仲吾に向かって最後通告した。これが午後五時頃のことである。

「もはや日の入りも間近に迫っている。これ以上は待てぬ故、このまま強行進軍いたす」

 これに対し、椎原は返答した。

「我らは朝命を奉りこの地を守備する者故に、相応の対応を仕る所存。しかと心得たし」

 こう述べるや、二人は全力で背を向けて走り出し、自軍に向けて大声で叫んだ。

「手切れじゃ、手切れじゃ」

 この言葉を受けて、薩摩側から突然、喇叭ラッパが鳴り響いた。それが鳴り止むと同時に、強行突破しようと縦列進軍してきた旧幕軍に向けて、一斉射撃と砲撃が始まったのである。

 鳥羽伏見の合戦の幕が切って落とされた瞬間だった。

 結果は推して知るべし、である。

 先ず、旧幕軍の砲車一門が、薩軍の砲撃を受けて大爆発を起こすと、滝川具挙が乗った馬がその爆発に驚いて、後方に駆け出してしまい、早くも戦場を離脱するという大失態を演じてしまう。戦前に、容保の危惧したことが、まさに現実になった瞬間だった。

 先頭を行く京都見廻組も止むことのない銃砲に、手にした刀槍では手の打ちようがない。ようやく、体勢を立て直した旧幕軍の洋式戦闘歩兵と桑名の砲兵が反撃を試みるが、半円を描くような薩軍の布陣により、包み込まれるような銃撃を浴びて、下鳥羽村方面への後退を余儀なくされてしまった。

 一方、伏見方面でも夕刻まで同じような睨み合いが続いていた。

 薩長軍は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖し、旧幕軍が本営とする伏見奉行所を包囲する形で布陣していた。

 旧幕軍の指揮官は竹中重固であるが、その主力は會津藩兵一千五百名である。陣将の田中土佐隊や内藤介右衛門隊、佐川官兵衛率いる別選隊、それに前年幕臣に取り立てられた新選組が従っていた。

 北西に当たる鳥羽の方角から砲声と銃声を合図に、薩摩軍の銃口が火を噴き、ここ伏見の地においても遂に戦闘が開始された。

 この合図を待ち構えていたように、御香宮の高台に布陣していた薩摩の大砲から、旧幕兵・會津兵と新選組隊士に容赦ない攻撃を浴びせてきた。会津藩と旧幕軍は、畳を胸壁にしながらも、なかなか突破口を見いだせずに膠着を余儀なくされてしまう。

そのような中で、會津藩・軍事奉行の林権助安定は、伏見奉行所から大砲三門を発射して懸命に味方を叱咤鼓舞した。しかし、大砲自体が旧式であり、イギリスから入手した薩摩の新式大砲には、到底敵うはずがない。砲車が狙い撃ちされ破壊されてしまい、刀槍を掲げ突進を強行したが、この攻撃も薩摩軍の銃口の餌食になってしまう。組頭の中沢常左衛門が斃れ、権助自身も全身重傷を被り、退却するほかなかった。

 新選組の指揮は土方歳三である。局長の近藤勇は前月、新選組を脱退した元御陵衛士に馬上を銃撃されて負傷し、結核の沖田総司と共に大坂城で療養中だった。

「土方さん、我々も討って出ましょう」

 逸る気持ちを抑えきれずに声を上げたのは、三番隊の隊長である斎藤一だった。

「いや、まだ早い。今出て行けば敵の思う壷だ。銃弾を浴びて死ぬだけさ。突撃は辺りが完全に暗くなるまで待て」

日没後、辺りに暗闇が訪れるのを待って、土方歳三率いる新選組と佐川官兵衛率いる會津藩の別選隊が抜刀し、遂に薩長土の連合軍に対して斬り込み攻撃をしかけた。

しかし、この攻撃すらも分かっていたかのような薩長軍の銃撃を受け、劣勢を挽回することはおろか、敵陣への到達すら出来ず終いであった。この斬り込みで別選隊の組頭である依田源治が戦死し、佐川官兵衛も目を負傷した。

 そこに、この戦いに決定的な一撃が加えられる。午後八時頃、薩軍の砲弾が伏見奉行所内の弾薬庫を直撃し、奉行所が炎上したのだ。更に薩軍が周囲の民家に放火して、炎を照明代わりに銃弾で猛攻を仕掛けたために、旧幕軍は中書島まで撤退せざるを得なかった。

 このように初日の戦闘は薩長土の連合軍が二方面で勝利を収めた。しかしながら、それは未だ局地戦でしかない。朝廷ではこの戦闘開始を受けて、緊急の会議が開かれた。

 先ず議定である松平春嶽が主張する。

「この戦いは薩長と桑会の私闘である。我ら朝廷はあくまで、この戦いには関わりを持たず中立を維持すべきである」

 更に山内容堂がその言葉を援護するように続けた。

「左様、政府として関わりを持つことは、この際適切ではない。戦いの仲裁をすることはあったとしても、いずれかに加担するようなことだけは絶対に避けなければならない」

 この意見に真っ向から反対したのは、大久保利通である。

「しかし、もしも旧幕軍が勝利し、入京してきた場合、京は荒らされ、この新政府は崩壊してしまい、かつての体制に逆戻りいたします。今こそ、徳川征討の布告と錦旗を掲げるべき時です」

「これまで京の治安維持に携わって来た桑会の藩兵が、そのような乱暴狼藉を働く訳があるまい」

 珍しく、容保と定敬の兄でもある尾張の徳川慶勝が憤って発言した。

「お待ちくだされ」

 岩倉具視がいよいよ口を開いた。

「確かに京の街が荒らされる可能性は少ないでしょう。しかし、戦闘が京の街で行われ、長引くとなると話は違います。皆さまは数年前の戦い(禁門の変)をお忘れではあるまい。このままではまたもや京の街を焼き尽くすことになりかねませぬぞ。この御所すら安全とは言えません。ここは錦旗を繰り出して、徳川軍を京の街に一歩たりとも入れぬ覚悟が肝要と考えますが、如何でしょうか」

 この発言に、当初は中立の意見に賛成だった皇族や公家衆が、挙って岩倉卿の意見支持に回ってしまう。旧幕軍が朝敵へと転落した瞬間だった。


(第十八話『裏切り、そして敗走』に続く)

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