第16話 好機到来
薩摩と岩倉卿が主導する新政府の劣勢は明らかとなり、王政復古の大号令以前の体制に戻るのも、時間の問題と思われた。薩摩と岩倉卿がこれを挽回するには、もう戦しかないところまで追い込まれている。
もともと、大政奉還の段階で、戦になることを前提に準備していた薩摩の西郷と大久保としては、望むところでもあった。彼らは岩倉卿を説得して、五分五分の勝算に賭けることを選択して遂に動き出す。
一方の旧幕府側も大政奉還以来、防御と守備の一辺倒から、ここに来てようやく、攻めに転ずる機会が回って来たという思いがある。
そんな時に起きたのが、江戸の薩摩藩邸焼き討ち事件だった。焼き討ちに至ったのには大政奉還以降のいきさつがある。
大政奉還を慶喜が受け入れないことを前提に動いていた、倒幕の密勅の存在は、江戸にいる薩摩藩士も知るところとなっている。西郷隆盛の指令を受けた江戸在勤の益満休之助らは、全国から倒幕・尊攘の浪士を密かに招き入れ、以降、三田の藩邸を本拠として、不法な行動を繰り返していた。
それは、幕府方の役人や商人の屋敷を襲撃して、放火・略奪・暴行といった、卑劣な乱暴狼藉に及ぶというものである。西郷の意図は、この挑発行為の怒りを自藩に向けさせて、関東から騒動を起こさせることにあった。
旧幕府としては当然のことながら、浪士たちの不逞な行為を看過するわけにはいかない。その取締の中心を命じられたのが、新徴組の力も借りた庄内藩だった。これらの狼藉を働く浪士たちが、薩摩藩邸を根城としていることを掴んだ庄内藩は、黒幕が薩摩藩であると確信する。
浪士たちはそれでも挑発行為を止めない。十二月二十二日には、赤羽橋の新徴組の屯所を襲撃し、翌二十三日には庄内藩の屯所を襲撃してきた。更に同日、二の丸御殿が何者かの手によって放火され、炎上するという事件が発生した。二の丸御殿は、第十三代将軍家定の正室だった天璋院の住まいである。
ここまで傍若無人の卑劣極まりない行為に及ぶ薩摩藩を、これ以上野放しにすることは、江戸の民を巻き込んで危険に晒すことになってしまう。危機感を募らせた老中である淀藩主の稲葉正邦は、遂に庄内藩ら五藩に命じて、薩摩藩に対し浪士引き渡しを強力に要求することにした。無論、それは相手の出方次第では、強硬手段に訴えてでも成し遂げようとする不退転の決意で臨むものであった。
十二月二十五日、庄内藩士ら千人近い兵は、大砲まで用意したうえで薩摩藩邸を囲み、浪士の引き渡しを求めた。しかし、案の定、薩摩藩はこれを断固拒否したため、遂に武力行使に及び、藩邸を焼き討ちにしたのである。これが世にいう薩摩藩邸焼き討ち事件の顛末だった。
敢えて、ここで一点、主観を申し述べたい。西郷隆盛のことである。
先ず、維新の英雄と称えられ、各所に銅像まで建立され、人気を博する西郷隆盛が、倒幕のためなら手段を選ばず、薄汚い犯罪行為に手を染めていたことを、現代に生きる我々のどれだけの人が知っていることであろう。少なくとも筆者は「敬天愛人」などという、まやかしの言葉には、絶対に騙されるつもりはない。
些か先走るが、以前観たテレビ番組の中で、西郷隆盛が今でも山形県・庄内地方の人々に感謝され、愛されているらしいことを知り、大変驚いた記憶がある。西郷は庄内の人々に対して、些か後ろめたい気持ちから、戊辰戦争が終わり落ち着きつつある中で、せめてもの罪滅ぼしを行ったに過ぎない。それにも関わらず、何と庄内の方々は人が良いのであろうか。
薩摩藩邸を焼き討ちするよう仕向けて、會津藩と同様に朝敵に仕立て上げた庄内藩に対して、西郷には心のどこかで、「済まなかった」という人間らしい気持ちがあったことだけが、せめてもの救いというべきか。
さて、薩摩藩邸焼き討ち事件の顛末が、京都町奉行から転身した大目付の滝川具挙によって、大坂にもたらされたのは、十二月二十八日のことだった。
すると、これまでに大坂城内に燻っていた「奸賊・薩摩を討つべし」の声が、會津・桑名の藩兵だけでなく、旗本の多くからも上がるようになり、老中・板倉勝静すら制止することが出来ないまでに、凄まじい盛り上がりをみせるようになっていく。
そんな大坂城にいる慶喜のもとに、京から使者が表れた。越前藩士の参与・中根雪江ら尾張藩士数名である。使者の目的は、慶喜に対して再度入京するよう、朝命を伝達するためであった。
朝命の出所を訊けば、薩摩や岩倉卿の意向に基づくものではなく、いわゆる議定である諸侯の意向らしい。
慶喜は遂に好機到来と思った。
『いよいよ、薩摩を潰す時が来たぞ。薩摩の思惑は分かっている。打つ手がなくなった以上、江戸での騒ぎで我ら大坂方を焚きつけて、戦に持ち込もうとしているのであろう。それならば、敵の思惑通り、敢えて乗ってやろうではないか。幸い、江戸から招集した洋式軍兵も間に合った。士気の高い會津・桑名の藩兵を始め、諸藩の兵も続々と集まってきている。敵の三倍の兵力で向かうことになる。絶対に負けることはない。しかし、待てよ。万が一のこともある。ここは大勢の義憤に押され、戦を前提にではなく、やむなく兵を向かわせた呈を取り繕うのがよかろう』
自己保身の強い性格が災いし、この時の中途半端な決定と指令が、結局、大敗に繋がることになるとは、この時夢にも思わない慶喜であった。
慶喜は、中根ら使者との面会を終わり次第、老中の板倉勝静と若年寄の永井尚志、それに容保と定敬兄弟を直ちに呼び寄せた。
「皆の様子はどうだ。少しは落ち着きを取り戻し、冷静になったか」
それどころの騒ぎではないことを知っていながら、慶喜は板倉に問い質した。
「落ち着くどころか、江戸の藩邸焼き討ちの報以来、討薩の声は益々強まるばかりでございます。我らの声を聴く耳を持つ者は、誰一人としておりません」
「會津は如何じゃ」
慶喜は聞くまでもないが、話の矛先を容保に向けた。
「もとより、我が藩は、畏れ多くも幼帝を担ぎ上げ奉り、汚い手口を使って我らを追い落とした薩摩を討つべし、という気持ちで当初から固まっております。それに何ら変わるところはございません」
「桑名も同じか」
「はい」
定敬も一言だけ応えた。
「上様、一言宜しいでしょうか」
その声の主は永井尚志だった。慶喜は大政奉還以降も、自らを上様と呼ぶよう皆に徹底させている。
「何だ」
「城内の至る所で、上様の命は未だか、といきり立つ者ばかりでございます。このまま許可が下りなければ、畏れながら脱走してでも薩摩を討つと息巻いております。ご決断をなさる時かと存じ上げ奉ります」
「止むを得まい。ただ、先ほど、朝命によって再度入京するようとの仰せを頂戴した。予はあくまで軽装で参内するつもりじゃ。その前に討薩表を掲げて、軍を進発させようと思う」
「お待ちくださいませ」
その話に驚いたのは容保だった。
「上様、御自らが陣頭指揮を取ってこその上洛と心得ます。それでこそお味方の士気は高揚し、勝利疑いなしというものでございます」
「それはならぬ。予の上洛はあくまで参内を目的とするものであり、戦ではない」
「しかし、軍を先発させる以上、薩長との交戦は避けられません。誰が総指揮を取るというのですか」
「大河内正質が適任と思う。それに塚原昌義、滝川具挙と竹中重固をつける」
大河内は上総国大多喜藩主にて老中格で、塚原は若年寄であった。竹中は若年寄の陸軍奉行であり、洋式歩兵を率いる将校である。滝川は江戸から藩邸焼き討ちの報せをもたらした主戦派の筆頭格である。
もちろん容保には、この名前に忘れがたいものがある。禁門の変で京が大火に見舞われた際に、京都町奉行であった自己保身のために、裁きの済んでいない囚人全員を斬首し、容保の怒りを買った張本人である。この男に任せては、良からぬことが起こるに違いない。
容保は即断して願い出た。
「この肥後守と越中守にお任せください。上様ご出陣せずとあれば、我ら兄弟が力を合わせて必ずや薩賊を誅し奉る所存にて、どうか出陣のご下命を願い申し上げます」
容保の提案に対する慶喜の答えは否であった。
「そなたたち兄弟には、我が傍にて戦況を見守って貰わねばならぬ」
尤もらしい理屈のようにみえて、これも万が一負けた時のことを考えた、慶喜の姑息な自己保身でしかない。容保・定敬兄弟が陣頭指揮を取るということは、確実に慶喜の意思で戦をしたと判断されるに違いない。それだけは避けたいが故の方便だった。
「しかし、必勝を期するためにも、我らに出陣をお命じください。戦では何が起きるか分かりません。その時に、最善の命令を下す者が必要となります」
「大河内たちでは、それが能わずと申すか」
「そうは申してはおりませぬ。確実に勝利を収めるためにも、我ら兄弟も出陣すべきと申しております」
慶喜の保身に気づくはずもない容保は、執拗に食い下がった。
「船頭多くして船山に上る、という例えもあろう。そなた二人は我が傍で戦況を見守って貰わねば困る」
「その例えは、此度当てはまりませぬ。大坂から京までの土地勘があるのは、我ら二人が一番でございます。何より、この城には板倉殿と永井殿が控えおられるではございませんか。我ら二人が城に留まる意味がありません」
「黙れ。とにかく、二人に出陣することは許さぬ。大人しく城で待つのだ。これは我が命令だ」
ここまで慶喜に言われては、さすがに出陣を断念するしかない容保であった。
(第十七話『朝敵への転落』に続く)
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