第15話 巧妙な逆転劇

 容保が孝明帝の崩御から立ち直れずに、悲嘆に暮れる日々を過ごすなかにあっても、時流は決して止まっていてはくれない。

 徳川慶喜は幕府軍の軍制改革を強力に進める一方、懸案となっていた兵庫開港問題について、朝廷を執拗しつように口説いて勅許を得ることに成功した。慶応三年(1867年)五月二十四日のことである。

 この結果は、兵庫開港を巡って、勅許を得ずに開港しようとしていた慶喜の糾弾を目論んでいた薩摩や土佐藩などは、完全に肩透かしを食らった格好になった。

 特に薩摩藩の西郷や大久保らは、何事も強硬姿勢で推進する慶喜への反発を強め、長州ら西国雄藩を糾合した倒幕勢力の結集にむけて、大きく舵を切ることになっていく。

 むろん、この倒幕を目論む雄藩連合の形成が、急速に進行している情勢を、慶喜が看過するはずはない。

 土佐藩の後藤象二郎が主張した大政奉還論を是とした山内容堂が、老中・板倉勝静を通して、徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出したのは、慶応三年十月三日である。

 大政奉還の建白書を受理した慶喜は容保を二条城に呼び寄せ、秘かに胸の内を明かした。

「會津中将、予はその土佐の建白書を受け入れて、大政を朝廷に対し返上し奉ろうと思う」

 建白書を手にした容保は驚きを隠せない。

「なんと、大政を返上でございますか。それは大英断でございますね」

「予が進めている改革に不満な連中を、平和裏に抑え込むにはこれしかなさそうだ」

「これを受諾しなければ戦でしょうか」

「間違いないだろう。土佐は分らぬが薩摩、そして長州は、この建白を予が蹴ると踏んでいる。そして、大政を奉還しない予に対し、武力で幕府を倒そうという腹積もりに違いない」

「なるほど、その裏を掻き、討幕派の気勢を削ぐというわけですね。ただ、返上後の上様は如何なさるおつもりですか」

「心配ない。大政を返上し奉ったとしても、朝廷内で関白・二条様と中川宮様が実権を握っていれば、従来とそうは変わりあるまい。予が諸侯の中の一人となっても、多くの支持が得られれば、我らの有利に何ら影響はないであろう」

「なるほど。名を捨て、実を取るということですね」

「そうだ。しかし、このままでは薩摩の影響力が増すばかりだ。それを牽制するために幕兵の軍制改革を進め、今、続々と入京を急がせている。會津中将にも、益々頼る所が大きい。よしなに頼む」

「承知仕りました」

 こうして、慶喜の手によって、大政は朝廷に奉還され、二百六十四年続いた徳川の治政は終わりを告げることになった。慶応三年十月十四日のことである。

 この大政奉還に最も驚いたのが、西郷隆盛と大久保利通である。まさか慶喜が奉還するなどと夢にも思っていない。岩倉具視が予め用意した天皇の署名もない偽勅である「倒幕の密勅」も無駄となり、準備していた軍事行動も、中止せざるを得なくなっていた。

 大政が奉還されたと言っても、朝廷では従来と何ら変わらぬ朝議が進められ、その中の中心はやはり慶喜だった。公卿衆には何ら政治処理能力があるわけではなく、特に外交については、慶喜以下旧幕閣に委任する他にやりようがなかった。

 しかし、こうした慶喜の動きを、薩摩の西郷と大久保が黙って見過ごすはずがない。密議の相手はもちろん岩倉卿である。

「まさか、大政を奉還してくるとは思いもしませんでしたね。それを聞いた時は麿も驚きましたよ」

「徳川慶喜という御仁、なかなかの大狸ですな。東照神君(家康)以来の傑物と言われるのも納得せざるを得ません」

 まるで他人事のように、西郷が感心して言った。

「そのように敵を褒めたとしても、何も解決はしません。岩倉卿、何か良い方策はありませんか」

 悔しくて仕方がない大久保は、岩倉に助言を求める。

「大政が返上されたとすれば、もちろん、方策はありますとも」

 岩倉卿は意味深に含み笑いを浮かべて応えた。

「その方策とは如何なる」

 大久保は言葉の途中で、思わず息を呑み込んだ。西郷と大久保二人の顔に緊張が走る。

「確かに今のままでは従来と何ら変わらないでしょう。であれば、朝議に参加する顔を、そっくりとすり替えてしまえばいい」

「なるほど、文久の政変と同じことを、もう一度我らが行い、慶喜公らを締め出すということですな」

 文久の政変とは、八月十八日の政変のことである。頭の回転が早い大久保が、岩倉卿の言葉から方策を読み取っていた。

「左様」

「しかし、それには各藩の協力が必要です。我が薩摩藩はよいとして、他藩が慶喜公を排除することには、相当難色を示すと思われますが」

 西郷の懸念は尤もなことだった。土佐や尾張・越前といった親藩が狙っているのは、慶喜を含めた合議体制であり、慶喜の完全な除外には反対するはずである。

「そのことは隠して集まって貰いましょう。あとは何とでもなります。その前に今の朝議体制で、どうしても決議して貰わなければならないことがあります」

「長州藩の名誉回復と赦免、それと福岡に渡った五卿や、先帝に蟄居を命じられた公卿衆の赦免ですね」

「そう、この麿も含めて貰わねば困りますぞ」

 こう言うと、岩倉卿は高笑いをした。

「反対するのは慶喜公と會津中将に公卿数名でしょう。そこは何とか押し切るしかありません」

 大久保が言った通り、この日から薩摩藩によって、朝議を構成する人々に対する根回し活動が、水面下で活発化していく。長州藩の赦免と名誉回復、そして福岡に謹慎している三条実美ら五卿、そして岩倉他蟄居中の公卿の赦免が朝議で決定されたのは、慶応三年十二月八日から翌朝にかけてのことである。朝議席上では、慶喜や容保の反対の声も虚しく響くだけで、ことごとく退けられることになってしまった。

 そして、その日、関白・二条斉敬と中川宮らの公卿が、御所を退出した後、遂に賽は投げられた。薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の五藩が御所九門を固め、親慶喜派の全員が入れぬように、締め出しを謀ったのだ。

 その後、蟄居から解放されたばかりの岩倉具視は、薩摩の西郷・大久保らに導かれて参内し、明治帝の名の下で「王政復古の大号令」を発した。

 それは幕府及び京都守護職、京都所司代に加えて摂政・関白の廃止を定め、その代わりに新たに総裁・議定・参与を置き、その三職会議で政権を担うというものである。つまり、天皇親政の名の下で、五藩に長州を加えた藩の有力者と公家が主導する、新政権の樹立を内外に宣言するものであった。

 この大号令(詔勅)を受けて、最初の三職会議が開かれたのは、慶応三年十二月九日午後六時頃である。これが小御所会議こごしょかいぎと呼ばれるものであり、明治天皇隣席のもとで開始された。

 先ず、薩摩藩の息のかかった公家から、次のような発言が出された。

「前の将軍である徳川慶喜殿は、政権を返上したというが、果たして本心か疑わしいと考えます。それが忠誠心からのものとすれば、証を示して頂く必要がありましょう」

「その証とは何でございましょう」

 そう質したのは、議定の一人である越前の松平春嶽だった。

「徳川宗家の領地を返納頂くことですよ」

 その言葉を聞いた土佐の山内容堂は、早速、本題を切り出した。容堂も議定の一人として名を連ねている。

「そもそも、このように大事な会議から、慶喜公を締め出して開催するというのは如何なものでしょうか。我々は、大政を返上した以上、慶喜公の専横は宜しからず、との考えには同意しておりますが、このように不在のまま会議を進めるは、如何なものかと断ぜざるを得ません。確かに、慶喜公の進め方は多少強引であり、一部の方々に不満があることも承知しておりますが、このような会議の手口は陰険そのものであり、およそ正道を歩む者の仕業とは申せません。あらためて慶喜公をも加えた会議とすべきであり、領地返納の問題も、その場で正々堂々と話し合うべきと心得ますが如何でしょうか」

 容堂の考えはまさに正論である。しかし、岩倉卿も黙ってはいない。

「果たして、そのご意見は如何なものでしょうか。畏れ多くも先帝のご威光を利用し奉り、攘夷実行を遅らせただけでなく、条約や開港の勅許を無理やり取得するなど、朝議を私した罪は決して許されず、この会議に出席するなど、決して許してはならないと存じますが」

 この岩倉卿の一言には、さすがに春嶽も疑問を呈した。

「それは些か、穿うがった物の見方と存じます。今や世界の情勢から察するに、開国開港は急務にて、鎖国などは更に我が日本国を、世界の後進国におとしめる悪行に他なりません。多少の強引さは否めませんが、信念と英断をもって進めた慶喜公の功績は賞賛に値すると考えます。更に徳川二百六十年余の治政に自ら終止符を打ち、大政の奉還に応ずるなど、並みの御仁では出来ぬ仕業であり、この会議の一員として、なくてはならぬ御方と心得ます」

 この意見には尾張の徳川慶勝も賛同を示したことから、このままの流れでは拙いと判断した大久保が口を開いた。それまでは、一参与でしかない立場であり、極力口を挟むことは遠慮しようと思っていたが、既にそれどころではなくなっていた。

「憂国勤王の公卿や志士を排斥した罪は、如何ご説明なさいますか。いずれにせよ、慶喜殿を会議参加の一員として認めるにしても、先ずは領地返納に応じてからと心得ます」

「勤王の志士と呼ばれる方々を排斥したのは、慶喜公だけではないはず。それに加担したのは貴藩も同じでござろう。畏れ多くも、帝にご臨席を賜っている以上、この会議は公明正大であるべきと存ずる。かかる会議の進行は極めて陰険であり、実に不愉快不本意と申し上げざるを得ない」

 大久保の意見に対して、敢然と立ち向かったのは、土佐藩の後藤象二郎だった。

 この後も、大久保と後藤を中心に、慶喜の処遇を巡って激論が交わされたが、双方が主張を譲らずに、長時間に及んだために会議は一旦休憩となる。

ところが、この休憩時間に西郷が発した僅かな一言によって、一挙に決着に向かっていくことになった。

「西郷さん、このままでは大久保さんや岩倉卿も、言い負けてしまいます。西郷さんからも一言助勢してください」

 会議の行方を心配した薩摩藩の岩下方平が、西郷に助言を求めた時の返答である。

「何も心配する必要はない。いざとなれば、短刀一振りで済むことだ」

 御所を血で汚してでも、結論は変えない、という西郷の覚悟の表れだった。

 この言葉は、傍で聴いていた安芸の辻将曹しょうそうが驚いて、後藤象二郎に伝えたことから、忽ちのうちに会議参加者全員の耳に入ることになった。残念ながら、西郷ほどの覚悟が、後藤や容堂そして春嶽には欠けている。

 これ以上議論を続けても無駄な抵抗であると悟った後藤は、それでも争おうとした容堂を説得し、一旦ここは決議に従おうということになった。

 こうして、夜半まで続いた小御所会議は決着し、松平春嶽と徳川慶勝が慶喜に対して、領地返納を伝えることになった。

 翌日、十二月十日になると、赦免された長州藩兵が続々と入京してきた。因縁の禁門の変から既に三年余りが経過している。

 前日の王政復古の詔勅により、京都守護職を解かれ、禁門の警護も土佐藩に任せた以上、本来は待望の帰国となるはずなのだが、未だ京に藩兵を駐屯させている容保は、気が気ではない。

 長州藩兵の入京によって、京の街中に緊張感が走るなか、會津藩兵の全員が「これ以上の辱めを受けるならば覚悟がある」と一触即発の気構えのため、容保はそれをなだめ諭すのに必死であった。

 その話を仄聞にした二条城の慶喜は、會津と桑名両藩兵を引き連れて、直ちに大坂城に移ることにした。慶喜の脳裏にはまだ形勢逆転の秘策があった。

 大坂城に移った慶喜は、早速、春嶽や慶勝、容堂といった反薩摩諸侯を加えて、巻き返し策に打って出る。

 春嶽や容堂は、先ず小御所会議に不満を持つ議定の仁和寺宮嘉彰親王を動かし、身分の低い岩倉や大久保らの言動に対し、疑問を呈する意見書を提出してもらうことに成功する。

 この意見書によって、その後の岩倉は弱気となる一方であり、領地返納に応じれば、慶喜を議定に任ずるまでの妥協案まで言い出すほどであった。

 また慶喜は、大坂城において敢えて華々しい外交戦略を展開する。イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・イタリア・プロイセンの六か国公使を招き入れ、内政不干渉を約束させるとともに、国家元首は依然として自分であることを各国に承認させたのである。

 こうなると、慶喜ら旧幕府と反薩摩諸侯の勢いは止まらない。慶喜は大目付の田安伊豆守に命じて、薩長の非を訴える上表文を持たせて上京させるとともに、譜代諸藩の軍に大坂への下向を促した。明らかな京の薩長軍への対抗と牽制措置だった。

 更に岩倉欠席の下で開催された十二月二十三日の三職会議では、徳川宗家の領地返納は、あくまで諸侯会議での議論を経たうえで、政府の必要とする範囲で行うものとするということが正式に決定した。ここに至り、十二月九日の小御所会議における決定事項は、完全に有名無実化することになったのである。


(第十六話『好機到来』に続く)

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