第14話 両主君の急逝

 条約勅許の問題がひと段落し、残された課題はいよいよ長州征討をどうするかに絞られた。長州藩主父子の引き渡しは、依然として宙に浮いたままで何ら進展する気配すらない。

 幕府はあらためて西国三十一藩に出兵を命じ、軍を広島に集結させたうえで、長州藩に対して数々の疑惑に対する質問状をぶつけた。しかし、その疑惑に対する回答は、予想通り全て否定だった。

 慶応元年十二月二十二日、容保は広島視察から帰った新選組局長の近藤勇より報告を受けたが、その内容は容保が恐れていた通りのものだった。

近藤は幾度も長州に入ろうと、藩士との面会接触を試みたが、悉く拒否されたという。

 長州は、表向き謹慎恭順の顔を取り繕いながら、裏では戦闘準備を着々と進めていることは確実だった。しかも、広島に駐屯している幕府側である西国諸藩の兵の士気は、極めて低いという為体らしい。

「これではいくら大軍で戦っても勝てそうもない」

 近藤が去り、一人になった容保は、思わず呟き嘆息した。

 実はこの時、長州では容保が懸念し想像した以上のことが着々と進んでいた。土佐の脱藩浪士である坂本竜馬の仲介で、薩摩から英国の最新兵器を着々と買い揃え、軍の編成も急速に洋式化を進めていたのだ。そして、慶応二年(1866年)一月二十一日、紆余曲折を経ながらも、薩長同盟が結ばれるに至っていた。

 ここからの約半年間は、全て長州藩が主導権を握っていた、と言っても決して言い過ぎではない。幕府側はただ長州が用意した舞台上で踊らされていたに過ぎなかった。

 慶応二年一月、長州の最終処分を十万石減封と奏上し、勅許が下されたが、これに長州が応じるはずもなかった。あとはひたすら長州側の時間稼ぎに、幕府方が付き合わされた格好だが、この間、更なる試練が襲うことになる。

 当然、参戦すると思われていた薩摩が、長州への出兵を拒否してきたのだ。第一次長州征伐で全て終えているので、これ以上の処罰は不要との言い訳だが、当然、裏で薩長が繋がっているからに他ならない。

 この段階で、容保は薩摩藩の翻意に薄々感づいている。しかし、他にも、広島藩や佐賀藩などの諸藩も、開戦当初から出兵の命令を拒むなど、既に幕府側では不協和音が生じ始めており、容保一人では抗いようもなくなっていた。

 それでも十万を超える人数で、しかも最新鋭の軍艦や、仏国式の歩兵隊を有する幕府の征長軍が負けるなどと、当初は幕閣の誰もが想像してはいない。

 慶応二年六月、遂に戦端は開かれた。征長軍は長州を安芸・石見・瀬戸内・小倉など五方向から攻め懸かった。当初は征長軍が優位に進めたが、戦意の違いは明らかだった。

 大村益次郎が石見口で勝利を収め、浜田城を陥落させるなど、各方面で次々と長州が攻め寄せる幕府軍を撤退に追い込んでいく。全軍で四千にも満たない長州軍に対し、敗戦の報が相次ぎ、幕閣は一様に愕然として、声を失うしかなかった。

 更なる不幸が幕府側を襲う。七月二十日、病を患っていた将軍家茂が、大坂城において死去してしまったのである。わずか二十一歳という若さである。公武一和の象徴として担ぎ上げられ、攘夷と開国に揺れる幕末の荒波に翻弄され続けた生涯だった。

 この将軍家茂の死を境にして、薩摩藩は長州藩寄りの姿勢を、あからさまに取るようになっていく。勝手に長州藩の救済を上奏し始めるなど、その裏切りは明らかだった。

 容保に家茂の死を悼むいとまは許されなかった。これ以上、長州を放任することは幕府の破滅を招くことになると危機感を募らせた容保は、慶喜と老中・板倉勝静らに詰め寄った。

「このままでは長州征討は必ず失敗します。そうなれば、早晩、長州があらためて藩を挙げて京に攻め入ろうとするのは、火を見るよりも明らか。これに必ず薩摩は呼応します。但し、今なら未だ挽回の余地があります」

「その挽回とは如何なる方法かな」

 一橋慶喜が容保に問い質す。

「大軍を擁しながらの敗因は、士気の低下しかありません。京都守護職は所司代の定敬に譲り、この容保が在京の兵を引き連れて石見口に参りましょう。中納言殿(慶喜)は山陽道を進み安芸口から攻め入ってください。二人が、それぞれ軍を督励し、一挙に防長に攻め入るのです。これで必ず挽回出来ます」

 これに異を唱えたのは、老中の板倉勝静だった。

「それはなりませぬ。上様亡き今、肥後守殿には京にいて、しっかりと帝をお支え頂かねばなりませぬ」

「左様。貴殿が京を離れてしまえば、朝議が薩摩の言いなりにならぬとも限らぬ」

 勝静の考えを慶喜が後押しした。事実、このところ、薩摩の大久保一蔵(利通)が京で暗躍しており、朝議の公卿にも一部入り込んでいることは耳にしていた。

「確かにその懸念はないとは言えませぬ。しかし、もし朝議が一変しようとも、我らが勝利して帰京すれば、何とでもなりましょう。それに畏れ多くも、帝が信用しているのは我らであり、薩摩ではございません。今は何より長州を成敗し、二度と立ち上がれぬよう、叩きのめすことこそが肝要と心得ます」

「肥後守殿の御覚悟は、しかと承った。さればこの慶喜が一軍を率いて、長州攻めに出陣しよう。肥後守殿は、京で主上を守護奉りくだされ」

「しかし、この作戦は二方面からの同時攻撃こそが有効と存ずる。どうか、この肥後守の出陣をお認め下され」

 それでも、慶喜と勝静は首を縦に振らなかった。勝静は懇願するように容保を説得した。

「肥後守殿、中納言殿(慶喜)に加えて貴殿まで不在となれば、京の情勢がどうなることやら、心配でならぬ。京の事情に詳しい貴殿には、何としてもこのまま留まって頂きたいのだ」

 ここまで言われてしまっては、さすがの容保も折れざるを得なかった。ただ、容保には一つの懸念があった。それは慶喜の変心だった。

 一橋慶喜は参内し、長州征討に向けて自らが出陣することを告げ、節刀まで下賜された。しかし、容保が危惧した通り、慶喜の出陣が実現することはなかった。

 八月になり小倉城が陥落したことの報せを受けた慶喜が、怖じ気づいて変心し、出陣を急きょ中止したのだ。慶喜はこの時、将軍への就任は固辞しつつも、徳川宗家は継承し、徳川慶喜となっている。

 当然、容保はその慶喜に対して詰め寄った。

「今更、何を怖じ気づいておられるのか」

「怖じ気づいてはおらぬ。ただ、負けると分かっている戦に出ても仕方なかろう」

「それを怖じ気づいた、というのです」

 さすがにこの一言には、慶喜も憤慨した。

「何を無礼な」

 そうは言い返したものの、容保の言う通りであり、これ以上の言葉は出そうもない。

「これからどうしょうというのですか」

 こうなれば、容保は慶喜の本音を探るしかない。

「長州とは休戦するしかあるまい。その後に、幕府軍の軍制を根本から改革し、薩摩・長州以上の軍をつくる」

「軍制改革は結構。しかし、休戦はなりませぬ。長州征討は亡き上様の御決定であり、畏れ多くも勅命ですぞ。このままでは、上意と勅命に従い奮戦した藩や兵士に対する信義は立ちませぬ」

「仕方あるまい」

「仕方ない、の一言では決して済まされませぬ。それは命を賭けて戦った諸藩や兵士を、見殺しにすると同じことですぞ。そもそも、賊軍である長州と和議を結ぶなど、天下に示しがつきませぬ。もし、長州が和議に応じない場合は、如何するとお考えか。お味方の諸藩に攻撃を続けた場合は、如何するとお考えか」

 徳川宗家を継ごうが、ここは優柔不断極まりない慶喜に対して、命を賭けてでも諌止すべきと判断した、容保の心底からの訴えだった。

「長州とて、戦に勝利したとは言え、これが限界であろう。今の長州に外に討って出る余力はない」

「であればこそ、今が攻め時ではござらぬか。畏れ多くも、天前で節刀まで賜りながら、恥ずかしくはないのですか」

 ここに老中の板倉勝静が割って入った。後に、奥羽越列藩同盟の参謀として活躍し、旧幕軍として函館戦争まで従軍するこの人は、長州征討については消極的であった。

「肥後守殿、お気持ちは察するが、これ以上、お味方の犠牲を増やしたくはないのです」

「今、犠牲を惜しめば、いずれこの何倍、いや何十倍の犠牲を強いることになるから、敢えて諫言申し上げている。そのことがお分かりではないのですか」

 容保の怒りは収まりそうもない。しかし、慶喜も勝静も容保の意見に、耳を傾けることはなかった。

 容保はあらためて書簡に認め、幕閣に意見具申を行うも、何ら聞き入られることはなく、ひとり悲憤慷慨する他なかった。

 結局、慶喜は将軍家茂の逝去を理由に、孝明帝の不満をかわしながら、容保の反対を押し切り、勝海舟に命じて長州藩との停戦合意を成立させた。九月二日のことである。

 こうして、長州征討が失敗に終わり、幕府の威信は大きく傷つけられたうえに、将軍後継が未だ決まらぬ事態が続いていることは、まさに異常事態だった。

 将軍職不在の原因は、亡き家茂の正室である和宮にある。慶喜嫌いの家茂が、後継として指名していた田安家の亀之助は、この時わずか四歳にして、この難局を乗り切るためには、時期尚早と判断したのだ。

 その和宮の意向を汲んだ老中の板倉勝静と小笠原長行が、次期将軍として強力に推したのが、慶喜だった。

 慶喜が徳川宗家を継承しながら、暫く将軍への就任を拒んだのは、彼なりの政治的な思惑があったからに他ならない。慶喜は将軍に就く前に、自らの政権基盤を盤石にすることが不可欠と考えていた。

 そこで、自らは常時京にあって、孝明帝より絶大な信頼を得ている會津・桑名藩の協力を取り付けたうえで、孝明帝の懐に飛び込み、その権威を後ろ盾に、覇を唱えようと画策していたのだ。

 容保個人としては、これまでの数々の経緯から、決して慶喜を信用しているわけではない。しかし、将軍職空席のままでいる幕府の体制を、一日も早く立て直したいという一心から、慶喜への協力は一切惜しむことはなかった。更に、慶喜政権に一定の目途が立った段階では、今後の政局運営に自分は邪魔であろう、との配慮から守護職辞意を表明していた。

 こんなところにも、容保の忠義心と誠実さが伺えてくるが、慶喜が容保の配慮など気にするはずがない。むしろ、そのまま守護職として自分を支え、孝明帝への橋渡し役を継続してくれることを望んでいる。当然、容保の辞職申請は直ちに却下されていた。

 こうして、慶喜の計略はみごとに成功を収め、朝廷内では慶喜の意見が大きく反映することになっていく。

 しかし、慶喜にはもう一つの不安材料が残っていた。それは、薩摩藩の息がかかった公卿衆が、朝議でも幅を利かせるようになっていたことだ。薩摩の大久保は、いまだ蟄居中の公卿・岩倉具視と共に、朝廷改革を企てていた。その改革とは、朝廷が有力諸大名二十四名を招集して、幕府を事実上除外し、長州藩と政変で排斥した公卿らの赦免を図ろうとしたことだった。

 しかし、この薩摩の企ては失敗に終わる。当時、有力諸大名は京の政局どころではないのが大半であった。長州征討や世情不安により、米の流通が滞ったために、物価高騰による不満から、一揆が各地で頻発していたからである。

 更に、このような薩摩や岩倉の勝手を、長州嫌いの孝明帝が許すはずがない。孝明帝の逆鱗に触れた公卿らは処罰の対象となり、自ずと朝議から外されることになった。

 こうして、孝明帝の信任と會津・桑名両藩の協力、そして反対公卿勢力の駆逐を果たし、京における政権基盤を確立した慶喜は、二条城において将軍宣下を受け、第十五代将軍に就任した。慶応二年(1866年)十二月五日のことである。

 しかし、その一方で薩摩藩と岩倉卿を中心とする公卿一派は、孝明帝こそが自らが推進する朝廷改革を妨げている、と断ずるまでに至ったことは間違いない。

 この将軍宣下からわずか二十日後、孝明帝が突如として崩御されたことを、後世の我々はどう理解したらよいか。孝明帝は疱瘡を患いながらも、快方に向かっているとの報から急変しての、突然の死なのである。

 その跡を践祚せんそしたのは、第二皇子である明治天皇である。この時、明治帝は立太子前のわずか十五歳にして、畏れながら未だ政治的な判断は難しく、側近の言うことに従うしかない状況に違いない。

 帝の死因は病死として、一般的な解釈がなされているが、果たしてそれを単純に信じてよいものか。無論、現代医学と当時の医学レベル(医術)では、比較にならないことは百も承知の上だ。英国外交官のアーネスト・サトウが「しかるべき筋の方」から聞いた「毒殺説」を否定して、病死と断定する理由は何なのであろうか。 

 しかも、最近の研究では、死に至るまでの孝明帝の症状からは病死とは言い難い、とまで発表がなされている。むろん、これは幕末・維新における、一番の禁忌タブーかもしれない。もしも、明治の元勲と称される方々の中に、孝明帝の死の謎を知る、または関わっている「黒幕」がいたとしたら、果たしてどうなることか。

 筆者は学者でもないし、研究者でもない。ただ、幕末の血生臭い争いが繰り返される中で、孝明帝の死因を病死と単純に信じるほど素直で「お目出度い」人間ではない。むしろ疑い深い方の質に属するだろう。この謎の解明は、坂本竜馬の真の暗殺犯と併せて、「迷宮入り」になることなく、今後の研究で解明されることを切に望むところである。

 ともあれ、容保は将軍家茂に次いで、わずか半年足らずの間に、絶大なる信頼を寄せる孝明帝まで失うということになってしまった。

 家茂が去り孝明帝もこの世に亡き今、容保にはもう京に未練の一欠片も残っていなかった。残っているのは未練ではなく、むしろ幕閣に対する憤りだった。

 亡き孝明帝の叡慮をないがしろにし続けて、正義のための戦も放棄した。国の行く末を憂いての献策にも目をくれず、参与に命じておきながら、何の相談もなしに大事を決定する。

 このような疎略な扱いをされても我慢してきたのは、徳川宗家に尽くすべしという藩祖の遺訓があったからに他ならない。しかし、ここまで誠心誠意尽くしてきた自分と藩士は、その遺訓を十分に果たしたはずである。

 慶応三年(1867年)二月十二日、容保は京都守護職の辞表を提出し、重臣に帰国を宣言した。むろん、藩重臣の間に反対が起こるはずもない。

 しかし、この辞意に対して猛烈に反対したのが、実弟である京都所司代の松平定敬と老中の板倉勝静である。二人は、今もし容保が京を離れ帰国してしまえば、どうなるか分からないので、とにかく辞めないで欲しい、と入れ代わり立ち代わりで懇願し続けたのだ。これには、さすがの容保も閉口したが、相手も諦める様子がないので、押し問答が続くうちに、月日だけが徒に経過していくだけだった。

 歴史に「もしもこうであったら」はない。それでも、この時にもしも、容保と会津藩が慰留を無視して帰国していたら、後の會津戦争の悲劇は免れたのか、とついつい考えてしまう。しかし、長州藩が抱く会津藩への憎しみは計り知れないものがある。何かと因縁をつけて、戦を仕掛けてきたのかもしれない。

 ともあれ、埒が明かないと判断した容保は、幕府に対して書面で暇乞いとまごいを申し出る。同年四月八日のことである。もちろん、粗略な扱いに憤慨したから、などという真の理由は書面に残せたものではない。前年の国元大火や凶作のため、とするもっともらしい理由にした。しかし、この理由をもってしても、幕府から許可されることはなく、引き延ばしが図られてしまう。

 むしろ、危機感を募らせた老中・板倉勝静は、何としてでも容保を京都に留まらせようと、将軍となった慶喜に上申して、容保を朝廷から参議に任じて貰うよう働きかけ、これに成功する。

 容保の参議への就任は、元治元年に一度辞退していることから、二度目の固辞は非礼に当たる、ましてや亡き先帝の叡慮と言われては、容保としてはもう断りようがなかった。  

 これが同年五月二日のことである。結局、今回も容保の忠義と誠実さを利用した、幕閣と慶喜の策略に、まんまとめられた形になってしまった。


(第十五話『巧妙な逆転劇』に続く)

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