第13話 転落の兆し

 七月二十三日、孝明帝は長州藩を朝敵として指定し、藩主・毛利慶親の追討令を発した。御所に向かって発砲したのみならず、藩主が与えた国司信濃に対する軍令状が発見されたからである。

 これにより、幕府からはいみなの「慶」の字を剥奪され、藩主は毛利慶親から敬親と改めるしかなかった。また、世子の定広も同様に広封と改めた。もともと慶の一字は第十二代将軍・家慶から、定の一字は第十三代・家定から、それぞれ賜ったものである。

 禁門の変は結果として、長州藩士の間に「薩賊会奸」として、特に会津藩に対する深い遺恨を植え付け、増幅させる原因になってしまった。この中には、もちろん、新選組への強い恨みも含まれている。

 一方の容保は、病が篤いにも関わらず、戦いが収まって後も、御所にそのまま留まり宿衛し続け、藩兵にも禁門の守備を続けさせた。これに感激した孝明帝は、容保に対し戦功として度々勅賞を下賜かしすることになる。

 また、新選組も池田屋事件と禁門の変における働きが認められ、朝廷・幕府・會津藩から感状と二百両余の恩賞が下賜された。この後、新選組では隊士を増強し、屯所も壬生から西本願寺へと移転することになる。この頃が、會津藩と新選組の絶頂期と思われる。

 容保は病床に臥せながらも、のんびりと休んでいられる状況ではなかった。容保の不運は、容保ほどの危機意識を持った者が、幕閣や諸侯を含め味方の中には、誰一人としていなかったことだろう。

 一橋慶喜や松平春嶽、山内容堂、島津久光はもちろん、老中の中にも「日本国」の行く末を真剣に憂い、公武一和を真剣に成し遂げようという者はいなかった、と言っていい。いくら「憂国」という言葉を表面で使っていても、それは全て自藩や自己の都合と保身、立身のために都合よく口にしただけであり、残念ながら真剣に国全体を憂いた無私の動きは皆無であった。

 無謀で大願成就のためには手段を選ばないという点では、決して頷けることではないにしろ、ある意味純粋に国の行く末を憂い、その信念を最後まで貫き通したという一点において、この段階から既に長州藩には完敗であったと言える。

 さて、長州追討の勅命を受けた幕府は、尾張・越前藩を筆頭とする西国三十五諸藩で、総勢十五万人の征長軍を編成することになった。しかし、その総督は尾張の徳川慶勝であり、将軍家茂ではなかった。

 容保は、長州が弱体化した今こそ、幕府権威復権のために、勅命の通り、将軍自らが陣頭指揮を取って征討すべきことを、幕閣に向けて建議書を送った。

 更に家臣の広沢富次郎安任と野村直臣を江戸に派遣し、家茂への謁見を求めるが、幕閣からその許可すら得られることはなかった。

 その後も、容保は諦めることなく、江戸詰めの重臣を遣わして幕閣の説得に動くも、全て空振りに終わってしまっていた。

 幕閣の考えは、将軍自身が征長に向かうとなれば、更に財政が逼迫することから、それだけは何としてでも回避したいという、何とも情けない考えだった。この時の幕閣の頭は、目の前の財政でしか物事を判断出来ない程に劣化していた。また、せいぜい大軍を目前にすれば、たとえ長州藩といえども、簡単に平伏すに違いないという程度の、浅はかな発想しか浮かばなかったのだ。

 このような幕閣や諸侯の為体ていたらくと公武合体という体制に限界を感じて見切りをつけ、秘かに長州藩を危機から救おうと方向転換を図った者がいた。それが薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)である。 

 禁門の変を見事に勝利に導いた立役者と賞され、薩摩藩から長州征伐の指揮官を任された西郷は、総督たる徳川慶勝に接触して信認を受け、征長軍全権を委任される参謀格となった。

 ここから、第一次長州征伐は、西郷の主導で進んでいく。その西郷が導く結果は、容保が主張する方向性とは真逆の、反逆集団である長州藩に対して、実に寛大な結果を導く内容であった。

 先ず、禁門の変の実行犯である福原越後・国司信濃・益田親施の切腹他四参謀の斬首は実行されたが、問題はそこからであった。

 山口城の破却については、山口は館であり城ではないとして、何のとがめもなく終わり、三条実美以下五卿の追放といった条件については、福岡藩お預かりという何とも穏便な沙汰で幕引きとなる始末であった。

 この間、長州藩の内部では、幕府恭順を推進する俗論党の一派が実権を掌握していたが、あくまで倒幕を掲げる高杉晋作の功山寺挙兵を皮切りに、内戦へと突入している。

 この内戦状態を知りながら、西郷は長州藩に対して、徹底した柔軟路線で話を進め、遂には征長総督・徳川慶勝の名で、解兵令を発してしまうのである。元治元年十二月二十七日のことであった。

 畏れ多くも御所に対して攻撃し奉るという大罪を犯した藩には、最低でも大幅な減封は免れないのが通常であろう。たとえ改易を申し渡されたとしても、文句を言える立場ではないはずだ。そのための十五万という大軍の派遣だったはずであり、所詮「お殿さま」でしかない徳川慶勝が、百戦錬磨の西郷の口車に、上手く乗せられたというしかない。

 この事実を知らされた時の容保の心境を察すると、何ともやるせない気持ちになる。徳川慶勝は容保の異母兄なのである。

 翌年一月五日、突然の解兵令に驚き慌てた幕閣が、藩主父子と三条ら五卿を江戸まで拘引するよう命令したが、既に遅きに失していた。

 総督であった慶勝からの回答は、解兵した今となっては実行不能であり、拙かったのであれば甘んじて罰は受けようとの、開き直りとも取れる何とも無責任な一言だった。

 このような征長失敗のそもそもの原因は、将軍家茂自らが征長軍の先頭に立って指揮しなかったことにあるとみた容保は、入京した老中の阿部正外まさとうと本庄宗秀に対して、将軍の上洛を再度強く要請した。

 この二人の老中が入京した当初の目的は、将軍家茂の上洛拒否と、幕政を批判する京都守護と所司代の解任だったが、孝明帝がそれを許すはずがない。二人の老中は関白・二条斉敬に叱責を受けた挙句に、容保に将軍上洛を説得される始末であり、まさに「木乃伊ミイラ取りが木乃伊になった」のも同然だった。

 この頃、長州ではおよそ二か月続いた内戦に終止符が打たれている。幕府恭順を謳う俗論党が戦いに敗れて、高杉らが率いる正義派の諸隊が勝利を収めていた。これによって、藩論は対外的には謹慎恭順の呈をつくろいながらも、秘かに武備を整え幕府との対決姿勢を鮮明にしていく。

 この後も、幕府からは再三再四にわたり、藩主父子の江戸引き渡しの命を受けるが、長州は藩主の病を理由に断り続け、これがやがて、第二次長州征討へと繋がっていくことになる。

 さて、元治二年から改元された慶応元年(1865年)四月になると、在京の會津藩兵の間に、久しぶりに明るさが戻ってきた。長きにわたった容保の病が快癒したのである。これを一番喜んだのは孝明帝であった。

「朕のため国のため、これからも力を尽くすよう。朕が頼りとするは容保ただ一人」

 このように、帝より温かい言葉を賜った容保は感涙して、益々の忠義を誓っていた。

 在京の容保にとって、更に朗報が舞い込んできた。五月に将軍家茂が三度目の上洛を果たすという。ここにきて、一橋慶喜や容保の願いが、ようやく成就することになった。

 しかし、この上洛は必ずしも容保らの要請に従ってのことではない。一つ目の理由は、依然として実現しない長州藩主父子の江戸引き渡しを、幕府の威信にかけて進めるためであり、もう一つは長年の懸案事項である条約の勅許を得るためだった。

 安政年間の欧米各国との条約は、大老・井伊直弼が勅許を得ずに締結したもので、その問題はこれまで棚上げになってきていた。孝明帝自身が攘夷、すなわち鎖国主義であり、さすがの容保や慶喜も攘夷などは不可能と知りながらも、これまでは奉従してきている。しかし、ここに来て京に近い兵庫開港を迫る諸外国の圧力が強まりつつあるなか、遂に幕府としても、正式に条約勅許を得るしか途がなくなっていた。

 こうして理由はともかく、実現した将軍家茂の上洛であったが、その目的が果たせることなく、何の進展もないまま数か月を経過していた。

 長州藩主父子の引き渡しが進まないことに加えて、条約勅許を巡る方針に、幕閣と家茂側と慶喜・容保側とでは、違いが表面化していたことが主たる要因だった。

 幕閣や将軍家茂の心情は、孝明帝が公武一和のもと、幕府に対して大政委任を沙汰書で確認しているのだから、条約勅許も受け入れるのが当然、という旧態依然の姿勢でしかない。一方の慶喜や容保は、手続きを踏んで正式に勅許を得なければ、朝廷の信頼を失するだけでなく、特に攘夷派の諸藩を中心に紛糾し、益々幕府の求心力が失われる、とする考えである。

 それに加えて、将軍家茂には、一橋慶喜に対する不信感がある。御所における慶喜には、将軍たる自分を差し置いての独断専行が目に余り、そこが、あくでも分を弁えた容保との違いだった。

 容保は両者に挟まれながらも、何とか取り持とうと努力するが、双方の溝が埋まることはなかった。

 慶応元年十月二日、幕閣と家茂の不満は遂に爆発する。慶喜と容保には事前の説明や相談なく、驚くべきことが上奏されたのである。それは「このまま条約勅許が下りなければ、将軍職を辞して慶喜に譲る」という内容だった。

 その翌日、本当に家茂は江戸に帰るらしい、との話を耳にした容保が馬を飛ばし向かったのは、伏見にいる家茂のもとである。

「上様、今、東帰なさることはまかりなりませぬ。このままでは、折角積み上げてきた努力が水泡に帰すことになります」

 容保の拝謁が叶ったのは、翌四日未明のことであった。

「しかし、大政委任とは名ばかりで、朝廷はわれら幕府に政を任せようとはしないではないか。朝議は騒ぎ立てるだけで何も決まらず、時だけがいたずらに過ぎるのみ。欧米諸国は兵庫開港をしきりに迫ってくる。予はどうすればよいのじゃ。ここは一番声の大きい者(慶喜)に任せる他あるまい」

「それはいけませぬ。長州の問題も進展せず、条約勅許も得ずに投げ出すとなれば、天下の人心を失い、二度と挽回は出来なくなります」

「一橋に任せると言っておるのだ。きっと何とかするであろう」

「確かに今は、禁裏御守衛総督として、我らと心を一にして条約勅許を得ようと動いておりますが、都合が悪くなれば、いつ変節するか分らぬ御仁でございます。左様な御方にこの国の将来を託すのは、余りに危険でございます。ここは苦しくとも、何としてでも上様にお留まり頂かなければなりませぬ」

 必死の形相で、容保は一歩も引かぬ覚悟だ。

「予は何とすればよいのだ。何も良い考えは浮かばぬ」

 確かに弱冠二十歳の家茂には、余りにも荷が重すぎる問題だった。その顔にも憔悴しきった様子が表れている。ここまで主を追い込んでしまった、幕閣の無能と無責任さにも嫌気がさしたが、今はそれどころではない。

「確かに帝は異人を恐れるがあまり、攘夷を叫んでおられます。しかし、帝は決して話を聞かぬ御方ではございません。上様が至誠を尽くして情勢を説明すれば、必ずやご理解頂けるはずでございます。諸藩には、この肥後守が誠心誠意を尽くし説得いたす所存。上様は自ら帝に対し奉り、その御存念を披露つかまつることこそが、唯一の解決の途と心得ます」

 この容保の言葉に勇気を貰った将軍家茂は、あらためて条約勅許を奏上することにした。十月五日、容保の陰の尽力もあって、勅許を得た条約問題はようやく解決に至った。 

 但し、兵庫の具体的な開港については触れなかったために、この段階では未だ懸案事項としては残されたままになってしまった。


(第十四話『両主君の急逝』に続く)

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