第9話  池田屋騒動

 前年の政変以降、過激攘夷派浪士が一掃されたかに見えたのも束の間だった。京には諸藩の攘夷派浪士が密かに集まりつつあり、無論、その中には長州藩士も多く紛れ込んでいた。

 長州藩では、来島又兵衛を視察名目で入京させながら、火消装束や鎖帷子くさりかたびらなどを購入し、密かに藩邸内で戦支度を進めている。

 浪士が再び入京した原因は、孝明帝が望む横浜鎖港という消極的攘夷すら実行されずに、朝議が議論ばかりを繰り返し、挙句の果ては空中分解するという為体ていたらくのためであった。

 そのような現・朝廷の体制に対する不満から、再び長州藩の政局復帰待望論が沸き上がってきていたのである。

 京の街が再び不穏な空気に包まれる中で、京都守護職として復帰した容保は、不平不満分子である浪士に対抗すべく、警備探索を強化していた。その警備の中心を担ったのが、芹沢鴨を粛清して以降、隊規を厳しくして忠実に任務を遂行する新選組である。

 元治元年(1864年)五月下旬、その新選組から容保のもとに緊急の報せが入った。隊士である山崎すすむと島田かいらの探索方が、炭薪商を営む枡屋喜右衛門の行動が怪しいことを突き止め、踏み込んだ結果、大量の武器と諸藩浪士との書簡や血判書を発見したというのだ。

 枡屋喜右衛門なる者の実態は、長州間者の総元締である古高俊太郎であった。新選組・副長の土方歳三は、古高が何らかの重要機密事項を隠し持っていると断定し、尚も拷問のうえ自白を強要しているという。

 六月五日、その古高の新たな自白によって、驚愕の事実が判明する。祇園祭の前の風が強い日を狙って、御所に火を放ち中川宮朝彦親王を幽閉するとともに、一橋慶喜と松平容保を暗殺した後に、孝明帝を長州に動座しようという前代未聞の計画が、浪士の間で密かに進んでいるという。

 この話は志士側に記録がないとして、新選組の捏造ねつぞうとの説があるが、それは果たして如何なものであろうか。維新以降、政権を奪取した志士側が、御所に放火するなどという都合の悪い証拠を後世に残すなどという、失態を犯すとは考えにくい。勝者というものは常に自らの行為を正当化するために、都合の悪い証拠は闇から闇に葬り去るのが常識である。

 それは数年前に、首相への「忖度そんたく」から、官僚が不都合な重要証拠書類の隠滅隠匿を図ったという行為が判明したが、これは二十一世紀の現代社会に於いても、証拠隠滅が横行していることの証に他ならない。

 さて、新選組の報告が事実とすれば、一刻の猶予も許されない。京の街のどこかで、秘かに不穏な会合が持たれているはずと判断した容保は、徹底した市中探索を提案してきた新選組に、即刻その任を許可すると共に、藩兵による探索増援も約束した。

 この時の近藤と土方の独断専行が、歴史を大きく動かすことになる。會津藩兵を待っていては、自分たちの活躍の場と手柄が失われると判断した二人は、新選組単独で市中探索を先行させることを決定したのだ。

 しかし、市中探索と言っても、京の街に旅籠はたごがいくつあるかも分からない新選組は、隊士を三隊に分けて三条から四条の旅籠を虱潰しらみつぶしに当たる他ない。近藤隊十名に、土方隊と井上源三郎隊がそれぞれ十二名の編成で、順に探索が開始された。

 どこの旅籠を回っても空振り続きで、焦燥感が増すなか、近藤隊が一軒の怪しい旅籠に辿り着いた時には、六月五日午後十時を既に回っていた。それが三条木屋町の旅籠・池田屋である。

 二階の障子は閉められたままだが、ほのかに灯がみえる。時折何人かの人影が動く様子が伺え、耳を澄ませると何やら話し声も漏れ伝わってくる。一回の戸口は完全に閉めきっており、池田屋の不自然さは誰が見ても明らかだった。

 近藤隊には、沖田総司や永倉新八、それに藤堂平助といった試衛館道場以来の手練てだれが揃っている。全員が鎖帷子の上に黒衣を纏い、額には鉢金、黒袴に鎖脛当すねあてといった出で立ちであった。

 いつ浪士と思しき連中が解散し、二階から降りて来るか分からない刻限でもある。しかし、肝心な二階にいる人数は不明ときている。

 それでも、近藤は逡巡しゅんじゅんすることなく、土方・井上隊の到着を待たず、押し入ることを即断した。旅籠の中であれば、敵が多勢でも戦い方はある。極力狭い部屋に固めて押し込めれば、三段突き等の天然理心流が得意とする剣法で、打ち倒すことが出来るはずだ。そのうち、騒動を聞きつけた土方・井上隊が到着して、加勢するだろうとの予測もあった。

「総司、新八、平助は儂と伴に旅籠内をあらためる」

 近藤が指示を始めた。

「承知」

 三人が声を揃えた。

「観柳斎、お主ら六人は外を固めてくれ。逆らう者は討ち取って構わぬ」

「元よりそのつもり」

 武田観柳斎は自信満々といった表情で応えた。

「では、参る」

 近藤は手の甲で戸口を何度も叩いた。そのうち、旅籠の者らしき声が聞えて来た。

「かような夜分遅くに何用でございましょうか」

「御用検めである。直ぐに開けろ」

 その声は池田屋の主・入江惣兵衛であった。腰を抜かした惣兵衛を押しのけて、藤堂平助を除く近藤ら三人は階段を駆け上り、浪士たちの部屋に突入した。

「会津藩お預かり・新選組である。神妙にせよ。刃向かう者は切り捨てる」

 部屋には二十人ほどの浪士が集まり、何やら密議に興じながら、静かに酒を交わしていた様子が伺えた。

 近藤の一言に、刀に手をかける者、逃げようとする者、驚きのあまり放心状態の者、と様々である。

 三人は座敷の出口を固めて、じわじわと片隅に浪士たちを追いやった。やがて、抜刀した多少は腕に覚えがある者と、新選組三人の戦闘が始まった。階段から降りて逃げようとした者は、平助に任せるしかない。何人かは屋根から飛び降りたが、それは外の六人がなんとかするだろう。

 激しい戦闘の末に、首魁の肥後藩士・宮部鼎蔵らが次々と討たれる中で、新選組隊士の一人に異変が起こる。戦闘中に沖田総司が激しく咳き込み、喀血してしまったのだ。労咳(結核)だった。沖田は一階の平助の手を借りて、何とか屋外に脱出した。

 更に一階の藤堂平助が失態を犯してしまう。汗で鉢金を結び直そうとしたところを襲撃され、浅くではあるものの額を切られ、戦線離脱を余儀なくされてしまった。

 この隙に一階に逃れ、裏口から脱出しようとした土佐脱藩浪士の望月亀弥太・石川潤次郎・野老山吾吉郎と、外を固めていた新選組隊士である安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門との間で、激闘が繰り広げられた。その争闘で生き残ったのが、野老山吾吉郎ただ一人という結果が、闘いの激しさを物語っている。(野老山も後に自刃して果てる)

 二階の座敷では相変わらず局長・近藤と、剣の腕前では沖田以上と言われる永倉新八が、浪士を釘告げにしつつ戦っていたが、何分にも二人で戦い続けるには限界が近づいていた。気がつけば、永倉も肩口から切られて、負傷している。間隙を縫って外へと逃れようとする者も出始めていた。

 もはや限界か、と思われたその時、ようやく土方隊が、次いで井上隊が池田屋に駆けつけてきた。ここから、事態は一挙に収拾に向かう。

 土方は、これ以上の惨殺は無用と判断し、浪士の捕縛に切り替えた。後の沙汰は會津藩や所司代となった桑名藩に任せれば良い、と咄嗟とっさに判断したからだ。この争闘できっと新選組の名は一挙に知れ渡ることになる。これ以上の殺傷は恨みを増幅させるだけで、得することは何もなかった。

 更に土方はこの時に、もう一つ見事に機転の利いた判断をしている。それは、戦闘後に駆けつけた會津・桑名の両藩兵を、池田屋を遠巻きにさせたまま、近づけさせなかったことだ。死闘を潜り抜け、犠牲を出したのは、新選組だけである。ここで両藩に少しでも手柄を横取りされてしまっては、堪ったものではない。

 しかし、ここで捕縛方針から唯一にして最大の例外と誤算が生じてしまった。池田屋から一時、宿所に戻っていた長州藩の吉田稔麿よしだとしまろが、池田屋に戻って来てしまったのだ。

 吉田稔麿は松下村塾四天王の一人として、久坂玄瑞・高杉晋作・入江九一と共に、将来を期待されていた若者だった。池田屋に戻って来たら、この惨劇である。彼の性格上、同じ長州藩でも桂小五郎とは違い、逃げて再起を期すなどという発想は皆無だった。

 稔麿は、もはやこれまでと覚悟を決めて抜刀し、新選組の中に駆け込んだ。こうなったら、一人でも二人でも多く討って、道連れにするしかない。しかし、最初に刀を向けた相手が悪かった。土方歳三だった。稔麿は一刀両断のもと、土方に切り倒されてしまう。わずか二十四歳という若さだった。

 こうして、池田屋内での死闘は終わりを告げたが、これで幕引きという訳にはいかない。池田屋から逃げた浪士の捕縛という仕事が残っていた。

 ここまで来ると、さすがに新選組単独では無理がある。會津・桑名両藩に従い、払暁から捕縛を開始した。この結果、池田屋主人ら浪士以外の者を含め、捕縛した人数は二十人以上に及んだ。

 近藤や土方ら新選組が、満身創痍の姿で、屯所である壬生村に凱旋したのは、翌六月六日の正午である。

 この日犠牲となった浪士らは、自刃を含めると長州と土佐で各七名、肥後藩二名であった。

 池田屋騒動は長州藩の強硬派を激昂させるには、十分過ぎるほどの事件となった。やがて、この事件が引き鉄となり、京の街全体を巻き込んだ禁門の変へと繋がっていくことになる。


(第十話『長州軍上洛』に続く)

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