第8話 家老解職
十月九日、容保は孝明帝より、あらためて政変時の忠誠を称えられると同時に、より一層の忠義を期待され、
さて、過激攘夷派の一掃に伴い、召命によって諸侯が再び入京してきた。島津久光が藩兵一千七百を率いて入京したのを皮切りに、松平春嶽や伊予宇和島藩主の伊達宗城、そして一橋慶喜に最後が山内容堂である。孝明帝はこれら諸侯に対して、容保と共に朝議参与を命じている。更に孝明帝は、容保を通して、将軍家茂の再上洛を要請した。
孝明帝はこの時、ようやく真の公武一和が実現すると意気込んでいた。つまり、朝廷と幕府が協力して、平和裏の攘夷実行を進めよう、というものであり、それには将軍の上洛が不可欠であった。
容保の熱意もあって、翌元治元年(1864年)一月、将軍家茂は「翔鶴丸」に乗り込み海路上洛するが、この時、容保は前年の激務が祟り、またも重い病を患っていた。それでも、生真面目な容保は病をおして、将軍家茂を出迎えたうえに、一月二十一日も家茂に従い参内した。この時、家茂に対しては、孝明帝より参与諸侯と協力して国難に臨むべし、との勅書が下されている。
いよいよ、孝明帝が目指す公武一和の実現という時に、容保は病が一層重くなり、床に臥せる日々を余儀なくされてしまうのであった。
しかも、諸侯を交えた朝議は、それぞれの思惑が働き、度々紛糾してしまう。それは攘夷の具体的な方策を巡っての、立場の違いからだった。横浜鎖港にあくまでも拘ったうえで、大政の幕府委任を再確立したい慶喜ら幕府側と、横浜開港を推し進めつつ新合議体制を確立したい諸侯との間の対立である。
この混乱を仲裁出来るのは容保しかいないが、その肝心な容保は病床にある、という何とも歯痒い有様だった。
更に、容保の病篤く、起き上がることすら困難な状況の中で、幕府内では、実に不可解な人事が行われる。二月十一日、容保を陸軍総裁に任じ、京都守護職を松平春嶽とするというものだった。
この人事には多分に、一橋慶喜の恣意的な意図が含まれていた。慶喜が再度入京してあらためて感じるのは、孝明帝の容保に対する絶対的信頼と寵愛であり、また将軍家茂の信頼も
将軍をはじめ味方の諸侯が全員不在の中、八月十八日の政変という一大事を、孝明帝の厚い信頼を得て、一人で成し遂げたのだから当然の帰結なのだが、それが慶喜にとっては面白いはずがなかった。これ以上、容保の人気が高まることを阻止するためには、守護職を解職して、帝から距離を置かせることが一番と考えた慶喜の嫉妬心が原因だった。
もちろん、この突然の人事に異を唱えたのは、孝明帝である。
「朕は肥後守が引き続き京都守護職にあることを望む。何とかならぬものか」
こう問う孝明帝に対して、参内した一橋慶喜は応えた。
「畏れながら、これは天下国家のため、やむを得ぬ人事でございます。肥後守容保には、来るべき長州征伐の最高責任者として赴いて貰わねばなりませぬ」
「幕府内には有能な人材が数多いるのであろう。そのいずれかの者に任せるわけには参らぬか」
「残念ながら、長州を圧する指揮を取れるとすれば、肥後守ほどの適任はおりませぬ。余人をもって代えがたい任命でございます」
「しかし、当の肥後守は、今、病が篤く参内すら出来ぬ状態じゃ。そのような者に、大役が務まろうか」
「長州征伐は今すぐということではありませぬ。會津藩には兵制を革新し、軍備を西洋式に変える必要がございます。その間に病も癒えるものと存じます」
「それにしても、朕にとって容保が京都守護職から離れるのは、極めて残念でならぬ。長州の問題が片付けば、再度戻っては貰えぬものか。春嶽に相談してみようか」
ここまで、孝明帝に言われては、慶喜も返事のしようがない。とにかく、既に決まったこと故に、後のことは分からない、の一点張りで引き下がるしかなかった。
しかし、この転任も二か月後に事実上取り消されて、容保は京都守護に復職の命が下ることになる。容保に復職を求める声は、決して孝明帝だけに止まるものではなかったのである。
幕閣の中にも多く声が上がり、老中・
更に、新選組などは「春嶽の下では働けぬ。我らは會津藩お預かりにて、京都守護職お預かりにはあらず、引き続き容保公にお仕えしたい」と嘆願してくる始末で、さすがにこれ以上の混乱は避けなければならない、との判断から再任する他ない経緯があった。
この時、当の容保の容態と言えば、食事も喉を通る状態ではなかった。身体の衰弱も甚だしく、藩お抱えの医師もお手上げでは、一旦、守護職拝命を断るしかなかったが、もちろん、幕府がこれを認めるわけがない。
それから月日の経過とともに、ようやく容保の病状も峠を越え、回復の兆しが見えてきた時だった。幕府からの京都守護職・再受諾要請は、
それは国元家老の一人である西郷頼母であった。容保が入京を命じたわけではない。そもそも家老が藩主の命もなく、国元を離れること自体が重大な違反行為であり、ただで済むことではない。
未だ病床の容保は、それでも頼母に面会することにした。
「我が許しも得ずして、何故に京に出て参った」
「殿、畏れながら申し上げます。殿がこれ以上、お身体を酷使して具合を悪くされているのを看過することは出来ませぬ。朝廷と幕府には、もう充分に尽くしてこられたではございませんか。全てを投げ打ってでも、会津に帰還いたしましょう」
「今更、それは出来ぬ。ようやく少しずつ、病が癒えつつある今日、主上と上様からの懇願とあっては畏れ多く、断ることなど出来るわけがなかろう」
「長く続く在京によって、国元は限界でございます。幕府からは軍備を洋式に改めるよう、との命ですが、我が藩の台所は火の車。とても、そのような余裕はございませぬ。更なる借用をしようにも、商人の懐の紐は固く、応じては貰えません。年貢取り立てを強化しようにも、これ以上は困難でございます。百姓が苦しむのを見てはおられませぬ」
「前に五万石の御加増があったであろう」
「五万石では焼け石に水でございます。それに五万石からの実入りは秋にならねばございませぬ」
「お主は我が身体の心配ではなく、藩の金蔵の心配をしているだけではないか」
「いいえ、両方でございます。それにこれから京の情勢は、攘夷か開国かを巡って、どちらに転ぶか分からないではありませんか。今は一旦落ち着きをみせていても、やがては長州との戦になる、との専らのお噂でございます。そんな渦中に身を置き、殿や藩士を危険に
「この話は二年前に済んでいる話だ。今更、藩祖土津公の御遺訓に逆らうなど出来るわけがなかろう」
「これまで一年半近くの間、十分に御奉公されてきたではございませんか。土津公も満足されているはずです」
「黙れ。こんな中途半端に投げ出すことこそ、土津公に対して最も申し訳が立たぬことくらい、分らぬお主ではあるまい。もうよい、下がれ。此度の身勝手な入京のことは、大目に見て不問に臥す。さっさと国元に帰るがよい」
「いいや、帰りませぬ。殿に翻意頂くまでは帰らぬつもりで出て参りました」
「ならば仕方あるまい。たった今、家老職を解き、蟄居を命ず」
容保は普段から感情を表に出すことはしない。むしろ、そのことを忌み嫌っていた。しかし、この時の頼母に対しては違っていた。ここまで反抗してくる者を、そのまま家老に据えておくほど、お人好しではなかった。
この時から自宅蟄居を命じられた西郷頼母が、その謹慎を解かれ家老職に復帰するのは、鳥羽伏見の戦いで敗れた後の、容保帰国以降のことになる。
なお、この容保の京都守護復職に合わせて行われた人事が、京都所司代への桑名藩主・松平定敬の任命だった。定敬は容保の十一歳下の実弟である。ここから、幕末悲劇の兄弟とも言われる二人が、健気にも京都の治安維持のために、ひたすら力を合わせていくことになる。
一方、一橋慶喜が将軍後見職を辞し、
元治元年五月、病が十分に癒えたとは言えないまでも、生真面目な容保が多少の無理をしてでも参内しようと、準備を整えているところに、将軍家茂が江戸に東帰してしまったという報せが届いた。頼るべき容保不在のまま、横浜の開港を巡って政争が繰り返されているうちに、幕閣が嫌気を差し、それに家茂が従った格好だった。
結局、公武一和の実効を期待し願った容保の思いが、届くことはなかった。将軍家茂が上洛中に、自らが病に倒れていたが故に、何も出来なかったことを悔み、容保はこの時ほど病弱な自分の身体を、恨んだことはなかった。
(第九話『池田屋騒動』に続く)
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