第6話 八月十八日の政変
八月十五日、薩摩藩の高崎正風と會津藩公用方の秋月悌次郎は、孝明帝の信が篤い中川宮朝彦親王の下を訪れ、極秘の策を打ち明けた。
「畏れ多くも
中川宮に対して、開口一番に正風が告げた。
「それには異論があろうはずもない。しかし、どうやって成し遂げる」
中川宮の疑問と不安は、尤もな話だ。
「来る十八日未明より會津、薩摩を中心とする在京の兵が、禁裏六門を封鎖して、不逞の輩の出入りが出来ぬようにいたします」
「そのようなことが可能なのか」
悌次郎の説明には、なおも心配そうな中川宮の言葉である。
「ご心配には及びませぬ。我が藩では、ちょうど国元から交替の兵が入京しており、合わせて約一千八百の新旧藩兵で、各門を固めることが出来ます。そのうえ、京都所司代の淀藩、米沢に備前、阿波といった諸藩の協力も得ることになっております」
薩摩は久光入京前ということで、藩兵は百五十人程度の動員にしかならないが、余計な心配をさせないためにも、正風は口を
「それでは、門外の長州勢と戦になるのではないか」
「もとより、我が主でございます肥後守は、その覚悟でおります。しかしながら、禁裏内外での戦は、決して本意ではありません。出来得る限り、平和裏に事態を収拾するよう尽くす所存です」
「仕方あるまい。それで麿は何をすればよい」
「参内のうえ、このことを帝に奏上頂きたいのです」
「分かった。明日必ず帝にお伝えする」
翌日、中川宮の奏上を受けて、孝明帝は即刻決断した。
「国の災いを除くためであれば、兵力をもって行うもやむなきこと、その旨を容保に伝えるがよい」
この叡慮に勇気づけられた容保は、翌十七日、右大臣二条斉敬と内大臣徳大寺公純、そして
文久三年八月十八日午前四時頃、會津・淀・薩摩の各藩兵が禁裏六門を次々と封鎖して人員配置が完了した。これに続き、長州を除く在京二十七藩主に参内が命じられ、各藩兵が全九門を固めた。
こうした中で、孝明帝の意思が反映されて、急進過激派を排除することが次々と決議されていく。具体的には、先ず大和行幸の中止であり、三条実美ら過激派公卿十五人の参内禁止と謹慎蟄居、それに国事御用掛の中から精選という名目で過激派を指名した、国事参政・国事寄人制度の廃止だった。
更に長州藩に対しては、堺町御門警備担当役を解くと同時に、禁裏への出入りは勿論、京からの退去勧告という厳しい沙汰が決議されていった。
ちょうどその頃、禁裏内での動きを知った三条実美ら過激派公卿と長州藩兵は、堺町御門東隣の関白鷹司邸に続々と集合し、一挙に緊張が高まっていた。堺町御門西隣の九条邸には會津・薩摩の両藩兵が陣取っており、両者の睨み合いが続いていたからだ。
このように一触即発の危機を迎えながら、暴発を免れたのには理由がある。攘夷派関白である
しかし、そのような長州藩兵の期待も、見事に打ち砕かれてしまうことになる。
参内した関白鷹司卿は長州を弁護すると共に、脅しとも取れる発言を加えた。
「長州藩は最も勤王の精神に篤く、叡慮に最も忠実に攘夷を実行した唯一の藩でございます。多少の行き過ぎはあれども、この関白より、とくと言い聞かせますので、禁裏御門警備担当の解任だけは撤回頂きたい。そうでなければ長州勢三万の大軍が御所を囲まぬとも限りませぬ」
これには参内した公家衆が動揺し震えあがる一幕があったが、これを冷静に鎮めたのが容保の一言だった。
「在京の長州藩兵はせいぜい一千でございます。左様な脅し文句に乗せられてはなりませぬ」
この容保の言葉に孝明帝が添えた。
「全て容保に一任する」
この一言に深く感激した容保は、更に力強く言い放った。
「たとえ敵が幾万押し寄せようとも、我が會津藩の精鋭が一挙に殲滅仕りますれば、どうかご案じ召されますように」
こうして、長州派にとっては頼みの綱であったはずの、関白鷹司卿の説得も実らず終いであった。
この交渉不調を報らされた長州藩兵は一様に、このまま一戦に及ぶべしとの強硬論が大勢を占めたが、それを鎮めたのも鷹司卿の冷静な判断であった。むろん、戦となれば自らの屋敷が戦場となることは免れない。更に戦果に包まれでもしたら、それこそ堪ったものではない、という公家の防衛意識が働いたことは言うまでもない。
「今、九条邸や御所に向かって刃を向け、発砲するとなれば全員賊軍の汚名を被るは必定ですぞ。ここは一旦引き下がり、再起を計るが肝要と心得ますが如何かな」
この鷹司卿の一言は、予想以上の効き目を発揮した。勇猛果敢な長州兵もやはり「賊軍」という言葉には弱い。
こうして、夕方まで続いた睨み合いは、長州勢や三条実美ら公卿衆らが、東山の妙法院まで退去したことで終結し、最悪の事態である衝突の危機だけは、一旦回避されることになった。
もはや、過激派公卿と長州藩士には、京における足場を完全になくしてしまっている。残された途は、一旦、都落ちして後日の捲土重来を期する他になかった。
翌八月十九日、三条実美ら七人の公卿は蟄居謹慎の命を破り、長州兵一千とともに、長州へと下っていった。世にいう「七卿落ち」である。
また、この時から、長州藩士は「薩賊会奸」と呼んで、薩摩と會津を心底から憎むことになり、これが維新時の悲劇へと繋がることになる。
この長州勢の退去は、直ちに孝明帝の下にもたらされた。その時まで、何が起こるか分からない御所内は、二日近くの間、異常なまでもの緊張を強いられていた。容保は壬生浪士隊に市中の巡邏を命じ、御所内は寝ずの番で、警護を継続している。
この吉報に孝明帝は胸を撫で下ろすとともに、功労者である容保を労い、御所近くに宿所として清浄華院を充て、毎日の参内と朝議への参加を命じることになった。
八月二十六日、孝明帝はあらためて詔を発した。
『八月十八日以前の勅命は、暴論の堂上である過激派公卿が、勝手に作ったものであり、偽勅に他ならない。全て朕の与り知らぬこと。以降の勅命こそが、朕の意向に基づくものであり、全国諸藩くれぐれも心得違いのなきよう』
との内容だった。
(第七話『新選組』に続く)
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