第5話 政変前夜

 過激派公卿の企みは、依然として、止まることを知らない。文久三年(1863年)四月十一日、石清水八幡宮行幸が決行された。これは武神である八幡宮神前において、帝より将軍への節刀を賜るという儀式を計画したものだった。つまり、この儀式には、幕府による攘夷実行が、もはや逃れないものにする企みが潜んでいた。

 そもそも、このような行幸を孝明帝自身は全く望んでいない。孝明帝の願いは平和裏での攘夷実行であり、そのために公武一体となって困難な時局に対すべき、という一念のみであった。

 帝は体調不良を理由に行幸の延期を求めたが、それすら認められず、容保に対して厳重警護を委ねるしか、途は残されていない有様だった。この一点だけを取っても、如何にこの時、過激派公卿が朝廷を牛耳っていたかが理解出来よう。

 結局、この行幸は行われたものの、将軍家茂は過激派による暗殺の噂が出回ったために、病気を理由として不参加とし、代理で臨んだ一橋慶喜も、男山の麓で急病を理由に引き返したため、節刀の儀は行われず終いとなった。その結果として、慶喜はその後暫くの間、天誅の脅迫を受け続ける羽目になってしまう。

 ともあれ、この行幸が何事もなく終了したと思われたのも束の間のこと、幕府に次の難題が降り懸かって来た。行幸より五日後のこと、長州藩主・毛利慶親が、攘夷期日の決定と布告を求めてきたのだ。これが勅命とあっては、その真偽を確かめるすべもなく、幕府としては、自ずと回答に迫られることになった。そもそも、一橋慶喜が二月に苦し紛れで約束した「将軍東帰後二十日」という期日が、将軍の長期在京によって先送りとなってしまったことが、その原因である。

 困り果てた幕府は遂に、文久三年五月十日を攘夷決行の日として奉答し、諸藩にも布達したのである。

 但し、幕府が考える攘夷とは、あくまでも通商条約の破棄と鎖港であり、条約締結国間との交渉が前提というものである。つまり、交渉の結果の成否は問わず、とにかく実現に努めるという程度の方針だった。

 攘夷の実行を勅書によって一任された幕府は、武力行使を回避し、的な交渉の途を選択したのだ。もちろん、諸外国との交渉が成功するなどとは、幕閣の誰一人として信じてはいない。従って、海岸の防御は厳重に行い、もしも外国が攻めてきた場合のみ、武力行使を認めるという専守防衛の立場を明らかにした程度のものだった。

 もし武力行使に出たとしても、列強諸国に敵うわけがないことを知っている幕府としては、これが精一杯の攘夷実行だった。

 しかし、この攘夷を「腰抜け、骨抜き」と酷評して従わず、自ら攻撃を仕掛けた藩が一つだけある。それが尊攘過激派の巣窟そうくつでもある長州藩だった。

 攘夷決行と幕府が定めた五月十日、長州藩は馬関海峡を航行往来中の米国商船に無通告砲撃を行い、次いで仏国戦艦と蘭国戦艦にも砲撃を加えたのである。むろん、この攻撃への報復は容赦なく行われ、海峡の砲台は全て占拠破壊されるに至る。

 この後、長州藩は久留米の尊攘家である真木和泉の献策により、攘夷を幕府に任せるのではなく、朝廷主導の下で全国を攘夷戦争に巻き込もうと画策し、京における過激派の活動を活発化させることになった。

 一方、鎖港通告によって、各国行使からの猛烈な抗議に晒された老中格の小笠原長行は、英仏の協力を得て京を武力制圧し、急進的な攘夷派の一掃を企み、これを実行に移す。前年から開始した軍制改革で洋式武装した兵一千余を、幕府と英国の軍用艦に乗せて横浜を出港し、兵庫に上陸の後、陸路、淀まで進出したのであった。

 この直参兵に會津藩兵を加えた、京の武力制圧が実現していれば、少しは日本の歴史が変わったかもしれないが、そうとはならなかった。特に過激派公卿らは恐れおののき、宮中は騒然となり、将軍家茂に命じて自制を促したのである。

 公武一和が第一義と主張する容保の説得に応じて、一旦は東帰を断念した家茂だったが、その後も京の騒擾を嫌い、一日も早く江戸に帰ることを切望する気持ちは変わらなかった。

 事実、京の騒擾そうじょうは収まったわけではない。五月二十日には、攘夷過激派の一人である姉小路公知が、朔平門外で暗殺されるという事件が起きていた。姉小路が勝海舟の影響を受け、開国派に変節したためである。まさに攘夷派を裏切ったことへの見せしめだった。

 この時、将軍家茂は、小笠原長行を罷免という形で押さえ込み、武力制圧を断念させる代わりに、東帰の承認も得てしまった。さすがにこれ以上の慰留は困難と判断した容保は、家茂の東帰を看過する他ない。家茂が軍艦に乗り込み、大坂の港を出港したのは六月十三日のことであった。

 将軍家茂が去った京にあって、孝明帝が望んだのは、薩摩藩の島津久光上洛であった。孝明帝の真意は攘夷を希望しつつも、攘夷戦争などの武力行使はその範疇にない。帝は暴走を止めようとしない過激派公卿や長州藩を嫌悪しており、その思いは日々強まる一方だった。既に三条実美らを「叡慮えいりょを妨げ偽勅を発する姦人」と称する位だから、その憎しみも相当なものである。

 しかし、久光自身はその頃、生麦事件の賠償を求めて来襲する英国艦隊への備えで、上洛どころの話ではない。事実、薩摩では七月二日から三日間、英国艦隊七隻を迎え撃つという、薩英戦争が起こっていた。

 この時点で、京にいる帝の真意を汲み取り、信頼出来る者と言えば、中川宮朝彦親王と前関白である近衛忠煕他数人、それに武家では京都守護職の松平容保ただ一人、という実に情けない状況になっていた。因みに機を見て敏な一橋慶喜は、攘夷実行の責任を回避して、さっさと五月に江戸に帰っている。

 過激派が次に標的を絞ったのは、その京に一人残った容保に対してである。江戸に帰るように、との偽勅を下したのだ。しかし、容保はその真偽を確かめるまでもなかった。この偽勅を察した孝明帝が、宮廷の慣例を破り、前関白である近衛忠煕を通して、直筆の御宸翰ごしんかんを容保の下に届けさせたのである。

『今、守護職である容保を東下させるつもりは毛頭ない。既に手元にあるのは偽勅であり、これが朕の真意である。今後も(過激派は)偽勅を発する恐れがあるから、真偽を見極めよ。朕が最も頼りとするは會津中将に他ならぬ』

 容保はこの時、衣冠束帯を身に着けて、直筆の御宸翰が納められた文箱を拝受するとともに、帝の思いに感激し、低頭のままいつまでも哭き続けたという。文久三年六月二十五日のことである。

 その後も、懲りることなく、過激派公卿の横暴は続く。薩摩の島津久光上洛を、尚も希望する帝の意向を潰しては逆鱗に触れ、更に長州の攘夷実行に非協力的であった小倉藩の改易を勝手に決めるなど、正気の沙汰とは思えないことを、朝廷内で平然と起こしていた。

 一方では、七月三十日に建春門外で行われた会津藩兵の馬揃えも、雨天延期を通告していながら、急に実施を命じて帝の前で恥をかかせ、おとしめようとするなど、まさに公卿の真骨頂ともいえる、陰湿な手段を使うことも忘れていなかった。

 このような卑劣極まりない輩の一部が、数年後に樹立される明治新政府の中枢要職を占めることになったことを思うと、まこと慙愧ざんきの念に堪えない。

 しかし、容保と會津藩兵は、かかる妨害をものともせず、孝明帝の前で見事な馬揃えを行い、お褒めの御言葉を頂戴していた。

「このような雨の中でも、少しの差支えもなく、見事な兵の操練である。御所と京の街を守る會津藩兵と肥後守を、朕は実に頼もしく思うぞ」

 この日、容保が纏った陣羽織は、帝から下賜された緋色の御衣で作ったものである。容保以下、会津藩兵の誇らしい顔と、過激派公卿の悔しがる様子が、実に対照的に目に浮かんでくる。

 さすがにこの頃になると、容保も過激派公卿の専横には、耐えがたい怒りを憶えていた。自身や藩兵への屈辱的仕業だけであるならば、ともかくも、帝をないがしろにする行為だけには、受忍の限度を遙かに超えていた。

 その容保を遂に立ち上がらせる事件が起こった。それが八月十三日の大和行幸の詔である。これは神武天皇陵と春日大社に行幸の後に、親征の軍議を行うという明らかに倒幕を目指す行動である。もちろん、孝明帝の意向ではない。むしろ、行幸・倒幕には反対であり、三条実美ら過激派と真木和泉らの策謀による、明らかな偽勅であった。

 この日、島津久光の命を受けて上京していた薩摩藩の高崎正風と、會津藩公用方の秋月悌次郎が容保の命を受けて、秘かに会談を持った。久光は薩英戦争の事後処理に追われ、上洛出来る段階ではないが、京における情勢には危機感を抱いている。ここに、公武合体による難局打破を目指す會津藩との共闘を約して、薩会同盟が実現することになったのである。事態は遂に、過激派公卿の追い出しに向けて、密かに動き出すことになった。


(第六話『八月十八日の政変』に続く)

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