第4話 公武一和
文久三年(1863年)三月四日、将軍家茂は三千の兵を率いて上洛した。徳川将軍の上洛は実に三代将軍家光以来、二百二十九年ぶりのことである。表向きの名目は、和宮降嫁のお祝い言上ではあるが、公武一和の実現を世間に印象づけるとともに、攘夷の実行を幕府主導で行うことの、勅許を得るという目的があった。
しかし、長州藩と攘夷過激派の公家は、この将軍上洛を上手く利用した、という点で一枚上手だった。家茂上洛から一週間後、攘夷の成功祈願のために、賀茂神社への行幸が行われたが、この行幸は長州藩と攘夷過激派の公家が画策したものだった。
天皇の行幸に、関白以下の廷臣に加えて在京の大名、そして将軍家茂が警護のために随行するということは、「天皇に将軍が随従している」という実態を、白日の下に晒してしまったことになる。これは徳川幕府始まって以来の、従来の立場を完全に覆す出来事だった。
むろん、孝明帝が、この行幸にそのような政治的な企みがあったことなど、知る由もない。更に問題なのは、この頃に至っては、朝議が尊攘過激派で多数を占められており、孝明帝であっても、行幸に異を唱えて覆すことは、不可能な事態に陥っていたことだった。
沿道で行幸を見送る中に混じって、長州藩の高杉晋作が「よっ、征夷代将軍」と叫んだという逸話が生まれたのも、この時である。(ことの真偽は不明)
容保率いる會津藩士は、この行幸の警護役として厳重警戒態勢を敷き、無事その役目を全うし、孝明帝より労いの言葉を頂戴している。更に、帝が将軍家茂に好感を持っているらしいとの話を聞いた容保は、朝廷を巡る政争はともかくとして、公武一和が更に一歩進んだことを素直に喜んだ。
この行幸に前後して、容保や会津藩にとっては、将来に関わるひとつの大きな出来事があった。将軍警護の先遣隊として入京した浪士組のうち、清川八郎の攘夷に反対して京に残留した者十七名を、藩のお預かりとしたのだ。彼らが壬生浪士組、後の新選組である。
さて、上洛してわずか二週間だったが、将軍家茂は江戸への東帰を朝廷に申し出た。もちろん、背景には尊攘過激派の脅威と京の世情不安がある。
しかしながら、直接のきっかけは、イギリスが横浜に来航して、生麦事件と品川御殿山の公使館焼き討ち事件の賠償を求めて来たことだ。公使館焼き討ちとは、前年十二月十二日に長州藩の高杉晋作・久坂玄瑞・井上薫・伊藤利輔(博文)・品川弥二郎ら十名余が公使館を全焼させた事件である。
更に、頼りとしていた山内容堂や松平春嶽が、過激派の公家が牛耳っている現状では、朝廷工作がこれ以上困難と判断して、相次いで帰国してしまったことが、家茂の東帰したい気持ちに拍車をかけていた。
しかし、この家茂の希望に対して、容保は真っ向から反対し、京への引き止めを図ろうと懸命に説得した。
「上様、今、京を離れてはなりませぬ。帝が頼りとしているのは、尊攘過激派の公家たちではありません。公方様です。公武一和が実を結ぼうとしている今、一日でも長く滞京あそばされ、宸襟を安んじ奉ることこそが肝要と心得ます」
「しかし、英国の賠償問題は如何するのじゃ」
「江戸には老中がおるではありませんか。それに、いよいよとなれば後見職の一橋様か、総裁職の春嶽様に東帰して頂ければ、それで済むことでございます。今、上様にとって最も大切なのは、公武一和でございますぞ」
十歳年上で、しかも最も頼りとしている容保からの説得とあっては、家茂も従うしかない。加えて、帝からの引き止めの勅使もあり、東帰は断念せざるを得なかった。
しかし、家茂がどこにいようとも、イギリスの賠償金問題は未解決のままである。江戸の老中間でも議論は別れ、結局は京の家茂の判断に委ねることになったのだが、ここでも慶喜と容保の意見は、真っ向から対立した。
「攘夷実行は動かしようのない決定であろう。そうであるならば、英国に対して賠償などする必要はなかろう」
このような慶喜の強硬意見に対して、容保は反論した。
「支払うことで如何なる批判を受けることになっても、英国への信義を通し、賠償金は支払うべきと考えます。そもそも、生麦村における殺傷事件は、我が国に非があるのは明白な事実であり、英国はこの責任を追及しているに過ぎませぬ。賠償の問題と攘夷実行は別の問題として考えるべきです。賠償金を支払ったうえで、正々堂々と攘夷実行に移せばよい話ではありませんか」
結局、家茂はこの容保の意見を採用し、朝廷に上奏した。当然のことながら、将軍後見職であるにも関わらず、自身の意見が通らなかった一橋慶喜の心中は、決して穏やかではなかったはずだ。幕府が英国に対して11万ポンドを支払ったのは、五月九日のことである。
しかし、これは老中格・小笠原長行が、京からの命を待たずに、独断で行った処理であった。幕閣でも賠償金の支払いを巡っては意見が分かれて、水戸藩の反対もあり纏まらなかったためである。その後、英国は薩摩への賠償を求めて艦隊を移動することになる。
(第五話『政変前夜』に続く)
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