第3話 京都守護

 西郷頼母が最後まで、容保の京都守護職就任に異を唱えた気持ちは、分らぬでもない。当時の京の都は、攘夷派の勢いが急激に増しつつあった。

 最たる原因は、薩摩藩が勅使と共に東下し、公武一和の主導権を握ったことへの対抗措置もあり、西国外様の雄である長州の藩論が、長井雅楽の開国から久坂玄瑞らが主張する攘夷へと転換したことである。

 この長州の動きに呼応するように、土佐勤王党を率いる武市半平太を代表として、全国から浪士たちが続々と入京を果たし、朝廷内の攘夷を唱える三条実美を代表する急進過激派の公家たちと、謀議を繰り返すようになっていたのだ。

 これら過激派浪士の一部は、「天誅てんちゅう」や「斬奸ざんかん」と称し、攘夷に反対または消極的な者を血祭にあげることを日常化させるようになっており、本来この不届き者を取り締まるはずの京都所司代すら、手に負えない状況にまで悪化してしまっていた。

 もちろん、このような過激派の行動は、攘夷を切望する孝明帝ですら、決して望んでいない事態である。

 意気揚々と江戸から京に戻った島津久光ですらも、京の様子の急激な様変わりに驚くと同時に、身の危険を感じ、早々に薩摩に帰国する始末であった。この時の過激派の動きは、明らかに薩摩藩の追い落としが目的であり、薩摩藩の事実上の政治的敗北でもあった。

 このような京の都の急激な情勢の変化と治安の悪化は、会津藩家老・田中土佐の手によって容保の下に、逐次報らされている。田中土佐は容保の命を受けて、先発して入京し、京での滞在準備や情勢視察を行っていたのだ。

 ようやく病が癒えて復帰した容保は、京都守護として入京する前に、このような京の危機的な現状を踏まえ、幕府に対し正式に建白する必要性を痛感し、それを建議書として具体化し提出することにした。

 その建議書の概要は、朝廷が幕府の対応に不信感を募らせている現状にあって、孝明帝が望む鎖国や高まる攘夷の世論に配慮しつつも、欧米列強諸国の優れた点を取り入れ、特に巨艦や大砲といった軍備増強を図ることが急務としたものである。

 つまり、公武一和を推進しつつ、鎖国攘夷から段階的に開国に向かうことが必要と説いた、実に現実的で実現可能な路線であった。

 その具体策としては、第一に傲慢無礼をはたらく夷人に対しては、おもねることなく毅然とした態度で臨み、江戸府内での居住制限を加えることであり、第二は兵庫や新潟の開港を延期すること、そして朝廷からの勅使は礼節をもって迎えることの三点だった。

 この容保の建白を幕府は採用することにした。

 先ずは、列国公使館建設を品川の御殿山に制限することとし、兵庫と新潟の開港は五年延期とした。そして、十月の勅使として東下した三条実美を、従来からの慣例を反故にして、上座に置いて遇したのである。

 三条実美は幕府から攘夷実行の回答を受けたうえに、勅使への待遇が改められたことを含めて、帰京後に喜んで孝明帝に報告している。これら幕府対応の変化が、全て京都守護として着任する予定である容保の建白に基づく、と知った帝は大いに喜び、容保の入京を歓迎することになる。

 しかしながら、ここに至るまでには、幕府内において、何ともお粗末な茶番劇が繰り返されていたことを忘れてはならない。

 既に孝明帝に対して約していた翌春(文久三年)の将軍家茂上洛に際しては、幕閣内に於いて開国か攘夷かのいずれで臨むかの、明確な方針決定が必要だった。それは、井伊大老存命在任の時に、勅許を得ずして締結した諸国との条約を、どう扱うかという判断を避けては通れない難題でもある。

 松平春嶽は、一旦条約を破棄し、全国諸大名を集め全体一致のうえ、あらためて開国と条約締結すべしという折衷案を主張し、一時はこれにまとまりかけた。

 しかし、これに対して一橋慶喜は、勅許がないことを理由に、諸外国に条約破棄を通告することは、我が日本国としての恥でしかない、と反論した。更に、全国諸大名が一致しない場合も大いにあり得る、自身が入京し畏れながら天皇を説得するので、このまま開国を進めようという、と主張したのだ。

 これには、皆がみごとな覚悟と英断と称し、慶喜に一任する方向に決定したかに見えたのも束の間、怖じ気づいた慶喜は、その持論を自ら取り下げてしまった。

 この責任回避と朝令暮改とも言える慶喜の悪癖は、この後も度々表面化し、やがては、容保や会津藩をも巻き込んでしまうことになる。

 更に、新たに幕政参与となった土佐藩の山内容堂は、和宮降嫁時に攘夷は約束しているのに、今更開国を主張すれば、幕府への不信感が強まるばかりで倒幕に発展する恐れすらある、と主張したために、またもや議論は空中分解し、何ら結論を出せず終いとなってしまった。

 この結果、勅使である三条実美に対する幕府としての回答は、攘夷を実行するが、具体的には将軍上洛時にあらためて協議しようというものにないものだった。つまり、回答は全く内容のない単なる先延ばしでしかなかった。

 このように、何ともお粗末な議論の幕閣を後目に、容保は精鋭一千の藩兵を率いて上洛した。文久二年(1862年)十二月二十四日のことである。

 出立にあたっては、前に触れた五万石加増に加えて、老中から三万両が貸与されたが、それでも足らず長崎の商人から更に三万両の借金をしたうえでの入京だった。そこまでしても、容保が望んだ火縄銃の入れ替えは一向に進んでいない。多くの兵は相変わらず火縄銃という、戦国以来の旧式銃を持参せざるを得ない実状だった。

 宿舎には東山の麓、黒谷の金戒光明寺があてがわれたが、その武者行列を見物しようと、京の民が沿道を埋め尽くした。なお、容保は宿舎に入る前に、礼装にあらためて関白近衛忠煕邸を訪れ、着任の挨拶を行っている。その礼儀正しさが、京の人々より好感をもって受け入れられたという。

 翌文久三年(1863年)一月二日、容保は京都御所に参内し、孝明帝に初めて拝謁した。この時、容保は天盃に加え、見事な緋色の御料の御衣を下賜かしされている。

「会えることを楽しみに待っておった。此度は、よくぞ勅使待遇の礼節を改めてくれた。これは朕からの恩賞である。陣羽織か直垂ひたたれに作り直して着用せよ。これから、京の守護職として励むがよい」

 武家である容保に対して、天皇自らの御衣を下賜するなど、古来よりためしがない極めて稀なことである。孝明帝にとっては、前年の容保による幕府への建白が、余程嬉しかったことの証だった。

 このように孝明帝からみことのりを賜った容保は、大いに恐懼感激し、公武一和のため尽力することを誓い、御太刀や馬代、蝋燭を献上し御所を退出した。これが容保と孝明帝の固い絆で結ばれる主従関係の始まりだった。

 以降、容保は、いよいよ京都守護職として、京の街中の治安維持に本腰を入れることになる。先ずは藩士が夜中の巡邏じゅんらを交替で行い、攘夷派浪士の警戒を強化することから開始しなければならない。

 その頃、将軍家茂の上洛を前にして、一橋慶喜や山内容堂、松平春嶽らの諸侯が続々と入京を果たしている。その目的は攘夷実行の朝廷工作を、有利に進めるための地ならしだった。

 しかし、それら諸侯一同は、朝議の構成ががらりと様変わりしてしまっていたことに、先ず驚かされた。従来の権大納言以上で構成されていた朝議の参加者に、前年十二月に新設された国事御用掛なる二十九人の廷臣が加わり、拡大していたのである。

 ただでさえ朝議の参加数が増えれば、幕閣による事前工作が難しくなるのは明らかだった。しかも、国事御用掛の大半が、三条実美や姉小路公知らの尊攘過激派公卿で構成されていたのだから、幕閣としては朝廷工作など、とても出来る状態ではなかった。

 その国事御用掛が朝議席上において、自らの意見を声高に主張するだけなら、まだ理解出来よう。問題は、これに天誅という名の下、尊攘過激派に属さない穏健派の朝議出席者を、暗殺という汚い手段で、次々に葬る事態となっていたことだ。

 むろん、公家が直接手を下すはずはない。しかし、裏では一部の尊攘派浪士と繋がっていることは、まぎれもない事実であった。

 先ず、一月二十二日、儒学者の池田大学が暗殺され、その切り取られた耳が朝議の構成員である議奏の中山・正親町三条、それぞれの屋敷内に投げ込まれるという事件が起きていた。これに恐れをなした議奏の両名と関白・近衛忠煕が辞任したことで、朝議における尊攘過激派の勢いが、更に増すという事態を引き起こしてしまう。

 更に、一月二十八日、千種家雑掌である賀川肇が暗殺され、その首が一橋慶喜宿舎である東本願寺門前に、脅迫状と共にさらされるという事件が起こっていた。

 このような事態が自分の身に降りかかって来た場合の、一橋慶喜の動きは極めて早い。批判の矛先を向けたのは、当然、京都守護職である容保に対してだった。

「これだけ、不逞ふていやからが横行しているのに、何故、肥後守殿は手をこまねいておられるのか。京都守護として断固とした取締をやって貰わぬことには、我らとて安心してまつりごとに集中出来ぬではないか」

 この慶喜の批判に対して、容保は次のように返した。

「浪士が方々で騒ぎを起こしているのは、自らの意見が通らぬからではござりませぬか。国事を憂いてのことであれば、大小を問わずに申し出るよう布告しております。胸襟きょうきんを開いて話せば、必ず理解が得られるものと存じます」

 容保の浪士に対する初期の姿勢は、このように一貫して寛大だった。

「そんな話を聞く連中ではあるまい。貴殿が言うような輩は、そもそも脱藩などするはずもなかろう」

 この時の慶喜の言葉は、ある意味で尤もな考えと言える。しかし、容保は譲らない。

「そうとは限らぬと存じます」

「だいたい、細かいことまでいちいち聞いていては、きりがあるまい」

「いいえ、細かいことの中に、本質がみえてくることもございます。先ずは話を聞くことが肝要と心得ます」

「そこまで言うのであれば勝手になされよ。但し、何かが起こった場合は、責任を取って頂くのでご覚悟なされよ」

「もとより、その覚悟は出来ております」

 終始二人のやり取りは、こんな具合で、当初の容保は浪士取締について、柔軟な姿勢を崩すことはなかった。

一橋慶喜や松平春嶽が、浪士の首魁と目される長州の久坂玄瑞らを捕縛させようとした時や、山内容堂の館に首と脅迫文が投げ込まれた時も、言路を開くことこそが重要と説いて、一切譲ることはなかった。

 結局、捕縛を免れた久坂玄瑞らと繋がっている三条実美や姉小路公知らの策謀により、攘夷決行の期日を慶喜が約束させられる羽目になってしまったことは、その後の慶喜と容保の関係に微妙な影を落とすことになる。

それにしても、如何に朝議席上で苦境に立たされたとは言え、苦し紛れで「将軍家茂が江戸東帰後二十日」などという、およそ根拠のあいまいな回答を出した慶喜の肝の据わり方にも、大いに疑問の余地が残るというものである。

 しかし、これまでの浪士に対する容保の柔軟な姿勢を、根底から覆す事件が遂に勃発した。それが文久三年二月二十二日の足利将軍三代木像梟首きょうしゅ事件である。

 それは、等持院霊光殿に安置されている足利尊氏以下将軍三代の木像から、攘夷過激派浪士がその首を引き抜き、三条大橋に晒すという暴挙であった。しかも、この立て札は、公然と徳川幕府の将軍になぞらえたものであり、容保が激怒するのも無理はなかった。

「尊氏公の評価には諸説様々あることは知っている。しかし、公は畏れ多くも、当時の帝から官位を拝したてまつり、まつりごとをお預かりした人物に他ならぬ。かかる尊貴の御方を、かような卑劣な手段で辱めるなど、言語道断の仕業であり、朝廷を侮辱していることと全く同類のことと言わざるを得まい。既に国難を憂いての考えがあるのであれば、その言路を開く令を布告しているにも関わらず、かかる暴挙に及ぶということは、尊王の心など全くないと断ずる他ない。予は、このようなしかばねに鞭打つに匹敵する残虐非道な行いを、断じて許すことは出来ぬ」

 容保はこう言い放つと、これまでの柔軟な態度を真逆に転換し、町奉行に対して直ちに犯人を追捕するよう厳命した。

 とは言っても、京の過激派浪士は五百人余にのぼっている。事件から三日後、捜索することの困難と仕返しを恐れた町奉行が、過激派を陰で指示する三条実美らと共に、逮捕訴追を中止するよう、容保に対して伝えてきたが、以下のように伝えて断固拒否した。

「たとえ、不逞の輩が何人に及ぼうとも、。これを許せば国家としての根幹が立ち行かなくなることは必定故に、断じて譲ることは出来ぬ」

 こう返答して、容保はこの事件を境に、治安維持を強化し、過激派浪士たちに対しても、毅然とした強硬姿勢を取るようになっていく。その強硬姿勢は、浪士たちの恨みを、一身に背負うことでもあった。


(第四話『公武一和』に続く)

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