第2話 決断の時

 文久二年(1862年)五月、二十七歳となった容保に大きな転機が訪れようとしていた。突然登城を命じられた容保は、将軍家茂より直々に、幕政参与を命じられることになる。

 京でも大きな動きがあった。これより遡ることひと月、薩摩藩の国父・島津久光が一千の精鋭を率いて上洛のうえ、有馬新七ら自藩の過激派を寺田屋で粛清する、という事件が起こっていた。

 この一件で朝廷の信を得ることに成功した久光は、勅使・大原重徳の護衛として江戸に入府し、幕閣と協議のうえ公武一和の実を上げるため、将軍家茂の上洛を要請した。文久二年六月のことである。孝明帝には、将軍は京に在住して天皇を助け、政事を治めるべきである、という強い信念がある。

 この年、二月十一日には孝明帝の妹である皇女和宮が、将軍家茂のもとに嫁いできている。勅使が東下した理由も、この婚姻を機に朝廷と幕府が力を合わせて、攘夷を実行し国家の難局を乗り切ろうという、孝明帝の強い意向が働いたところが大きい。

 更に久光は、将軍家茂の後見職として一橋慶喜を、政治総裁職に越前藩の松平春嶽を、それぞれ就任させることに尽力し成功を収めた。これが同年七月のことである。

 早速、久光は公武一和の実現を謳い、慶喜や春嶽を交え幕閣と協議したのだが、その時の振る舞いが幕閣の怒りを買ってしまった。自分はあたかも孝明帝の名代であり、京に戻ってからも朝廷を守護する任に当たるような言動で振る舞ってしまったのである。

 薩摩藩は雄藩のひとつではあるが、親藩でも譜代でもなく、関ヶ原以来のれっきとした外様である。しかも、藩主は久光ではなく、実子の茂久であり、薩摩では国父と呼ばれているに過ぎない人物である。それがいくら藩の実権を掌握しているとは言え、朝廷の信を得て京都を守護し奉るなど、幕府としては言語道断と言わざるを得ない仕業であった。

 こうなれば、幕府としては、薩摩に代わって親藩のいずれかから京都守護職を任ずる他ない。武力が充実し信望があるのは、越前藩の松平春嶽ではあるが、政治総裁職に就いたばかりであって、それは適わない。そこで急きょ白羽の矢が立てられたのが、会津藩の松平容保に対してだった。

 この時、容保は幕政参与の身でありながらも、病床にあって、登城出来てはいない。言わば「欠席裁判」である。将軍家茂の命として、京都守護職の話を受けたのは、代わって登城した江戸詰め家老の横山常徳だった。もちろん、病気がちな容保は、京都守護職への就任を当初頑なに固辞した。

『病床薄才の自分には、とてもそのような大任に耐える自信がない。まして、国元は東北に僻在しているために、家臣は京の風習を知らない。そのような我が藩が、安易に台命(将軍の命)と藩の家訓に従い、その重責に当たれば、徳川宗家に対してあがないがたい迷惑を及ぼすかもしれないので、どうかご容赦願いたい』

 このように返答するしかない容保にとっては、まさに切実な訴えだった。

 ちょうどその頃、そんな江戸城内の動きなど何も知る由もない島津久光一行は、幕府が更に頭を抱える事件を引き起こしていた。

 久光率いる薩摩藩の行列が、東下の目的を全て果たし、京に意気揚々と帰る途中のことである。英国人四人が馬上のまま行列の行く手を遮ったために、無礼を働いたとして、激怒した藩兵が一人を殺害し、二人に大怪我を負わせてしまったのだ。

 文久二年八月二十一日、生麦村で起きてしまったこの暴挙を、欧米列強の怖さを知らない攘夷を叫ぶ朝廷や志士、そして民衆は、薩摩藩の快挙と賞賛したから、幕府は堪ったものではない。莫大な賠償金問題が、後々に大きな影を落とすことなど、全く念頭にない、身勝手な盛り上がりだった。

 この生麦事件の発生によって、京都守護職を早急に決めて朝廷に報せることの必要性を痛感した幕府、特に松平春嶽は、病床の容保に書を送り、また横山常徳ら江戸詰めの重臣を招き、日夜守護職受諾の説得に努めた。

 容保の心を動かしたのは、『もし、土津公はにつこうがご存命であれば、躊躇なくこの台命を受け入れたに違いない』という春嶽の一節だった。

土津公とは藩祖・保科正之のことである。

『これ以上、断ること能わず』

 遂に腹を決めた容保は、江戸詰め家老の横山常徳、留守居役の堀長守、それに守護職就任を引き止めようと、国元から駆けつけた国家老の西郷頼母と田中土佐の四人を呼んで、守護職受諾の決意を伝えた。

「殿、太平の世であるならばいざ知らず、昨今の情勢に鑑み、かかる大任をお引き受けすべきではございません。京の街は尊攘の浪士が跋扈ばっこし、治安悪しきこと、このうえなしと仄聞そくぶんします。御公儀すら黒船の来航以来、様々な事件の対応に、右往左往する始末ではございませんか。そのような時期に京都守護職への就任など、みすみす、火中の栗を拾うようなものでございます。何卒翻意ください」

 この時、三十三歳の西郷頼母は、歯に衣着せぬ物言いで容保の説得に必死だった。

「いいや、殿もよくよくお考えのうえ、決断なさったことでござる」

 横山常徳が、容保に代わって、胸の内を応えた。常徳は、容保が当初の就任固辞から、引き受けざるを得ないと判断するに至った心痛を、傍で見聞きし理解している数少ない家臣のひとりである。

「畏れながら申し上げます。先ほどの話は我一人の意向にあらず、国元の家来衆を代表しての発言でございます」

 頼母は一言、容保に言うと、顔を常徳に向けて続けた。

「横山殿は我が藩の財政をご存じでございますか。江戸詰めとは申せ、毎年、商家からの借財が増え続けていることを、知らないわけではござるまい。前の大地震による藩邸の普請でも、多額の借り入れをしており、毎年の利息を返済するだけで精いっぱいの懐事情でございますぞ。そのうえで、藩兵を率いての上洛となれば、更なる借財だけでは済みませぬ。民から更に年貢を納めさせる他ござりませぬが、民の疲弊は既に限界に達しております。これ以上年貢を取り立てることは、一家心中を強要するにも等しいことでございますぞ」

 頼母の言葉は主税に対して放ったものだったが、容保に対する皮肉を込めた内容であるのは明らかだった。

「それについては、内々ではあるが、既に南山御蔵入領の五万石加増の約束を取り付けておる」

「それはまことでございますか」

 常徳の口から出た話は初耳であり、同じく国家老の田中土佐が、容保に対して顔を向けて訊ねた。

「まことじゃ」

 それに対して容保は一言だけ返した。会津藩の石高は現在二十三万石である。

「京への常駐となれば藩兵も二百や三百では済みますまい。石高が倍増するならともかくとして、五万石程度では焼け石に水もいいところでございましょう」

 尚も頼母の痛烈な言葉は続いた。

「西郷」

 容保が再び口を開いた。

「そなたの国を思う気持ちは嬉しく思う。予も再三にわたり、京都守護職拝命を固辞して参った。しかし、断って参った理由は、そなたの考えとはいささか異なる。この通り病弱で才覚にも乏しい身であり、京都守護職となることで、徳川宗家や上様に迷惑を掛けてしまう、と思ったからじゃ。しかし、予が断り続けているのは、保身のためと噂する者も少なくないと聞く。この機会に、皆にはもう一度考えて欲しい。我が松平家には、あくまで徳川宗家と栄枯盛衰を共にすべしという藩祖土津公の御遺訓がある。予はこの御遺訓を一日たりとて忘れたことはない。その我が藩が、たとえ噂とは言え、御身安泰を求めて固辞し続けていると噂されては、藩祖土津公に対して申し訳が立たぬ。もはや是非もあるまい」

「殿、なりませぬ。上洛などしても、苦労するばかりで、藩にとって良いことなど何一つとしてござりませぬ。何卒再考を」

 頼母の必死の説得にも関わらず、容保の決断が変わることはなかった。

「西郷、予の気持ちは変わらぬ。しかし、かかる重責を担うとあれば、予一人の力では到底成し得ぬ。君臣の心が一致してこそ、初めて効果が表れるというもの。どうか皆で審議を尽くして欲しい」

「如何であろうか。殿のご決意が固い以上は、他日のことを論じても詮無きこと。我が藩の義と誠を貫くことこそ肝要と心得る。君臣諸共、京を死に場所と決め邁進しようではござらぬか」

 容保の不退転の決意を受けた家老・田中土佐の、この一言で、容保の京都守護職拝命は動かないものとなった。

 ここまで藩主・容保と年長家老の土佐に言われては、西郷頼母ですら反論する余地は残されていなかった。しかし、諦めきれない頼母は帰国の後も、早期退任を画策することになる。

 文久二年閏八月一日、松平肥後守容保は京都守護職に就任し、朝廷より正四位下を賜った。この日を境として、容保と會津藩は六年後に迎える悲劇的終幕に向かって、ただひたすら突き進むことになる。


(第三話『京都守護』に続く)

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