朝敵の義憤

横山士朗

第1話 家訓

 二百数十年もの間、鎖国によって続いた太平の世も、相次ぐ外国船の日本近海来航によって、風雲急を告げる時代を迎えようとしている。 

 弘化三年(1846年)四月二十七日、江戸城和田倉門内の会津藩上屋敷では、一人の少年・銈之允けいのすけを新たに養子として迎えていた。

 屋敷勤めの女中らは、その少年の見目麗しさに心を奪われ、もの陰ではしきりに騒ぎ立てるほどの評判であったらしい。その子が、後の陸奥国会津藩第九代藩主となる松平容保かたもりである。

 容保は天保六年(1835年)十二月二十九日、江戸・四谷土手三番丁にある美濃国・高須藩上屋敷で生を受けた。藩主・松平義建の六男であり幼名は銈之允と言った。

 聡明で生真面目、しかも正義感の強い子どもだったが、生来病弱のため、周囲の苦労は、並大抵のものではなかったらしい。

 会津藩邸に於ける銈之允は、養父であり第八代藩主の容敬より、会津藩主としての尚武の心構えと家風を、徹底的に叩き込まれる。会津藩には藩祖たる保科正之が定めた「家訓かきん」なる絶対的行動規範が存在する。この家訓かきんが後々まで容保を縛り続け、やがて重く圧し掛かってくることになる。

 保科正之は徳川第三代将軍家光の義弟であり、家光の没後は第四代将軍・家綱の後見役として、陰の副将軍とも言われた名君であった。親藩である証の松平姓は、子である正容の代から名乗るようになったが、正之は養育の恩を忘れずに、生涯を保科姓で通した。

 熱烈な朱子学の徒であった正之が定めた会津藩の「家訓かきん」は、その精神に基づいて作られたものであり、仁・義・礼・忠・孝の心を重んじると共に、子孫に対してはものだった。

 元服した容保が、初めて藩の国元である会津に赴くのは、嘉永四年(1851年)である。容保は藩校である日新館で更に文武を深めるが、会津での比較的穏やかな暮らしも、そう長くは続かなかった。

 それは嘉永五年(1852年)二月十日、藩主容敬の死去によって、第九代藩主の座を継承することになったからだ。十七歳の若き藩主・松平肥後守容保の誕生である。

 嘉永六年(1852年)四月、江戸に入府した容保は、安房国や上総国といった外国船の警備地を視察するとともに、初めて幕府軍用船の運用や士卒の操練を目にすることになる。 

 日本国全体を震撼させる大事件が勃発するのは、このわずか二か月足らず後のことである。それが黒船来航だった。

 マシュー・ペリー提督率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊四隻が浦賀沖に表れ、武力行使をちらつかせながら幕府に開国を迫るという、まさに驚天動地の出来事が起きてしまったのだ。

 それまでに日本の沿岸に来ていたイギリスやロシアの艦は全て帆船だった。ところが、旗艦であるサスケハナ号とミシシッピ号は、これまでに見たこともない巨大な蒸気船である。これらが江戸湾にまで侵入し、大砲を江戸の街の方向に向けて、構えるのだから、老中首座の阿部伊勢守正弘を中心とする幕閣は、堪ったものではない。

 当時の国内は、外国排斥を唱える攘夷論が沸騰しつつある時である。悩んだ挙句に、阿部正弘は、開国を求める合衆国大統領親書を受け取るだけなら問題ないだろうと独断し、ペリーの久里浜上陸を許可した。

 この時の海上警備に当たったのが、容保率いる會津藩である。(以下、本文では『會津』と『会津』を使い分ける。藩の軍旗『會』の文字を念頭に置き、戦闘に関わる場合は敢えて『會津』と表記し、他の単なる藩名や地名等の場合は『会津』と表記)嘉永六年(1852年)六月九日のことだった。

 ペリー艦隊が一年後の再来航を一方的に告げて退去後、會津藩には品川第二砲台管守が命じられるが、容保の心境は複雑だった。

『このような砲台をいくつ拵えても、あのようなアメリカの艦隊に攻め込まれたならば、一溜りもあるまい。何も知らない民だけでなく、侍の大半が念仏のように「攘夷、攘夷」と口にするが、そんなことは机上の空論でしかない。我が藩も長沼流兵学から一日も早く脱却して、近代兵器を使用した兵制改革が必要なのだが、多くの藩士の矜持がそれを許すまい。何より藩財政が窮乏している今、それは極めて困難なのは分かっているのだが』

 このように、容保は理想と現実の狭間で悩み苦しむ日々が続くが、そんな心中など知る由もなく、幕府からは時代に逆行する命が、會津藩に下される。

 それは長沼流兵学に基づく軍制による調練を、老中や若年寄に披露するように、との将軍の命だった。将軍の命とは言え、それはあくまで形式であり、実際は長沼流を信奉している老中阿部正弘の希望である。それが分かっていながらも、むろん断るわけにはいかない容保は、安政元年(1854年)十月三日に、江戸駒場野において調練を実施した。

 指揮を取ったのは、当時の軍事奉行でもあり、長沼流の真髄を極めた黒河内高定である。一千の会津藩兵が一糸乱れぬ調練を実施したのだから、普通であれば、藩主としては鼻高々といったところだろう。

もちろん、この調練によって、長沼流兵学と黒河内高定の名声は、天下にとどろくことになった。しかし、長沼流兵学はあくまで弓槍火縄銃を武器として用いたものであり、もしも欧米の列強が、我が国に攻め入ってきた場合、到底太刀打ちできる筋合いのものではない。もっと歯に衣着せぬ言い方をすれば、数年のうちに無用の長物、過去の遺物となる軍制である。

 しかし、歴史の皮肉は、この調練の大成功によって、會津藩兵が長沼流軍制に絶対的な信頼を寄せてしまい、容保が懸念した通り、異国の軍制を取り入れることに消極的になってしまったことだった。

 翌安政二年(1855年)六月には、幕府より洋式調練の導入が、旗本や諸大名に対して命じられているが、會津藩内での動きは極めて限定的なものになってしまっていた。

 更に不運は続く。同年十月、安政の大地震が江戸の街を襲った。これによって、会津藩は上屋敷である和田倉邸と芝邸が焼失し、実に藩関係者だけで百六十五名もの死者を出してしまう。この震災被害で、被害者救済や屋敷の再建に要する、膨大な資金の捻出を迫られ、洋式軍備の導入どころの話ではなくなってしまった。

 安政六年(1859年)九月、大老・井伊直弼による安政の大獄の嵐が、国中に吹き荒れる中、會津藩には蝦夷地守備の命が下り、容保は一時、根室・紋別へと赴く。ここでも巨大なロシア船の軍船の脅威を間近に見た容保は、軍制改革の必要性を感じたが、依然として藩士の抵抗に遭い、改革は遅々として進むことがなかった。容保は病弱でもあり、養子でもあることから、家督相続後の暫くは、家臣に対する遠慮が相当あったと思われる。

 翌安政七年三月三日、桜田門外の変が起こる。彦根藩主である大老・井伊直弼を水戸脱藩浪士ら十八人が襲撃したこの事件は、皮肉にも、やがて容保を歴史の表舞台に登場させる、きっかけとなったことは間違いない。

 井伊直弼を失った、時の老中・安藤信正らは、水戸家への問罪のために、他の徳川御三家である尾張藩と紀伊藩に出兵させようとしたが、それを諌止したのが、他ならぬ容保だった。

「恩義ある井伊殿を討たれた無念のお気持ちはお察し申し上げます。しかしながら、暴挙に及んだのは藩士にあらず、脱藩した不逞の輩でございます。その水戸藩に対して、他の御三家を問罪に当たらせるなど、言語道断の仕業でございますぞ」

 毅然と言い張る容保に対して、安藤信正と復職したばかりの老中・久世広周が反論する。

「いいや、脱藩浪士とは言え、陰で水戸藩が糸を引いているのは明々白々のこと。問罪の軍を幕府として差し向けるは当然のことでござろう」

 広周に対して容保が言い返す。

「ならば申し上げます。水戸藩が黒幕であるという証が、どこにあるというのでしょうか。あるならば、それを直ちにお示し頂きたい。証があるのであれば、あらためて考えないでもありませんが、憶測だけで軍を差し向けるなど、御公儀としては断じてあるまじきこと。ましてや、問罪を命じられるのが、徳川宗家とも極めて関係が緊密な尾張・紀伊の二藩など、前代未聞のこと。断じて許されることではありません」

「しかし、水戸藩という親藩である大藩に対して、同等に物申すことが出来るとすれば、同じ親藩の二藩しかござらぬ」

 今度は信正の言い分だったが、容保は一歩も引く気がない。

「事は言葉のやり取りで済む話ではござりませぬ。もしも、両藩が軍を率いて水戸に入れば、戦となるは必定。徳川御三家同士の争いなど、決してあってはなりませぬ。畏れ多くも東照神君(家康)の御霊がどれだけお嘆きになるか。また、尾張は公方様(将軍家茂)の御実家でございます。何よりも徳川御三家が争うことは、御公儀の弱体化に繋がることくらい、分らぬ御二方ではありますまい」

「ならば、肥後守殿は密勅の件については如何するとお考えか」

 信正の言う密勅とは、「戊午ぼごの密勅」と呼ばれるものである。安政五年八月、孝明帝が幕府を通さずに、尊王思想の強い水戸藩に直接、幕政改革を求めた勅書のことである。安政五年が戊午つちのえうまに当たるために、このように呼称されるようになった。

勅書の内容は、先ず、幕府が朝廷の勅許も得ずに、日米修好通商条約を締結したことの説明を求めると同時に、公武合体と攘夷を実行すること、そして一番の中身の問題点は、幕府からではなく水戸藩から、全国の諸藩にこの内容を通知することを求めるものだった。

 このような勅書が、親藩とは言え、幕府ではない一つの藩に下賜され、しかもそれが依然として水戸藩内に保管されていることは、公儀の権威失墜を世間に晒すものとして、決して黙認できないことであり、これが安政の大獄を激化させる引き鉄となった存在でもあった。

 この問いに対しても、容保は臆することなく言い返した。

「勅書につきましては、この肥後守が身命を賭して、水戸藩から返上頂く所存でございます。くれぐれも問罪の軍を派遣することは、思い止まりくださいますよう願い奉ります」

「肥後守殿がそこまでおっしゃるのであれば、水戸への派兵は考え直すといたしましょう。その代わり、密勅の回収は必ずお願いいたしますぞ」

「委細承知仕りました。但し、勅書返上を求めるに当たっては、ひとつ条件がございます」

「はて、その条件とは」

 広周が訝しんだ表情で容保に尋ねた。

「此度の勅書は水戸藩が求めたものにあらず、畏れ多くも、帝が一方的に下賜されたもの故に、返上後は水戸藩に一切の危害が及ぶことがないことを、今ここでお約束頂きたいのです。この約束なしに、返上の説得は困難でございます」

 この容保の条件に安藤信正は逡巡した。そもそも、安政の大獄が本格化したのは、当時の大老である井伊直弼が、密勅は水戸藩の陰謀と断定したためである。容保の要求は、当時の幕府の判断が過ちであったことを、認めるようなものであるからだった。

 しかし、その一方の当事者である井伊直弼は既にこの世にいない。勅書の回収を優先すべきと判断した信正は、容保に対してその条件を呑むことを了承した。

 こうして、容保の必死の説得により、徳川御三家同士の争いは回避することになった。この話を耳にした第十四代将軍の家茂は、実家の危機を救った容保に心から感謝した。家茂は前年に大老井伊直弼の後押しで、わずか十四歳にして将軍に就いたばかりで、どれだけ容保を心強く思ったかは想像に難くない。

 早速、容保は水戸藩に家臣を派遣し、勅書の存在が、如何に水戸藩を窮地に追い込むかを説諭させ、返上を求めた。当初は頑なに勅書返上を拒んだ尊攘過激派の武田耕雲斎や原市之進らも、最後には藩にとがが及ばないことを条件に、返上を容認するに至る。この無血勅書返上を成し遂げた容保の評価は、土津公(保科正之)の再来とまで称賛する者まで現れて、容保の与り知らぬところで日に日に高まっていった。


(次話『決断の時』に続く)

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