ある惨劇前の一幕

その日の昼、村はいつもと殆ど変わらない日常を送っていた。唯一変わったことがあったとすれば、いつもこの時期は狩りに行っている男衆が村にいるということぐらいだった。男たちが村に留まっているのは先日の森の異変を村に帰って報告したところ、一先ずしばらくは森に近づかないという方針になったためだった。とはいえ、村としては大事な労働源である男達を失うのは困るので、一応様子を見ただけであり、実際そこまで大したことではないだろうと検討をつけていた。かくいう男達も自分たちの体験した異変がどれほどの異常事態なのか認識せず、また少し経ったら森に入って狩りをすることになるだろうというくらいの心持ちだった。だが現実は彼らの考えなど知る由もなく襲ってくる。日常が惨劇に変わる口火が切られたのは、太陽が暮れ世界が闇に包まれてから一時間と経たなくしてからであった。




その日、先日男達と共に森に行き異変を感じて蜻蛉返りしてきたファザーフィアは朝から全身の毛が泡立つような感覚に苛まれていた。だがどれだけ記憶を探っても心当たりはなく、無視して日常を過ごそうとしてもやはり心が不安と焦りで満杯の現状は変わらなかった。なにが、そこまで心をささくれ立たせるのかは分からなかったが、とにかくこのままじゃいけない、このままじゃ何かがヤバい、という強迫観念が心を揺らし思考を蝕む。それによって今日は何をやっても上手くいかないことから普段は子供らしからぬ知性と冷静さを併せ持つファザーフィアも流石にこの意味のわからない不安感にしだいに苛立ちを募らせていった。そして苛立ちに苛立ち、何もかもが上手くいかない現状に一周回りに冷静さを取り戻した彼は再度この不安感の原因を探り始める。しばらく考え込み記憶を探っていると一つだけこの感覚に似たものを感じた体験を思い出す。それは先日行った森で感じた違和感とその奥に感じたジリジリとした鋭利な感覚、あれに気づいた時の感覚と今の感覚はそっくりだったのだ。それに気づいたファザーフィアは即座に森に行く準備を始める。それは当然まだ10歳になったばかりの少年である彼には無謀と言える行動だ。確かに先日行った時は森には虫一匹いなかった、だから今回も危険な生物と遭遇しないかもしれない。だが、それはしないかもしれないだけであり遭遇する可能性の方が遥かに高い。ましてやこの周辺の森には他の生物と危険度で一線を画す醒獣も生息している。もしそんな物に会った日にはまだ幼いファザーフィアにはどうしようもないだろう。そんなことを分からないファザーフィアではない、森に一人で行くなとは小さな頃から言われておりその危険性も彼は充分理解していた、だからいつも大人と一緒に行ってるからと油断して森に一人で誰にも言わずに行くほど彼は愚か者ではない。そういつもの彼はそうではない、だが今の彼は朝からの謎の不安感とそれにたいする苛立ちで視野が極限まで狭まっており、結果として彼は準備を済ませて誰にも言わず一人で森に入ってしまった。




それが聞こえてきたのは、ほとんどの住人が晩飯を食べ終わり寝る準備に入ろうかという時間だった。空が紺に色塗られ、それが無数の星と不気味に輝く満月で飾られ始めてからすぐの頃、まるで闇を切り裂きこの夜の主役は自分だと主張するかのような恐ろしき獣の遠吠えが響き渡った。



ノルドはその日、昨日の森の異変により狩猟が休みになり、かと言って冬なので他にやる事もないため自分と同じ状況の男達を集めて昼間から酒場で呑んだくれていた。酒を浴びるように飲み、日も落ち、そろそろ解散しようと話が上がってきた時だった。


アォーーーーーーーーーーーーーーン


「ぎぁー やめて…ダ‥メ…ガッ……」


酒の回った体の酔いが一瞬で引く、聞こえてきた獣の遠吠えは明確に自分達に向けられていると、その声を聞いた瞬間から酔いに変わり体を満たした恐怖と焦燥で分かった。次いで男の悲鳴が聞こえる、よく知っている声だった。この村の入り口で見張りをしている、仲間の一人の声だ。


「なんだ、今の遠吠えと悲鳴は?」


「なんだか知らねえが、相当ヤバいぞ」


「とにかく門を見に行くぞ今のは見張りやってる仲間の声だ。」


ノルドの周りの男達も、先程までとは打って変わって酔いが醒めたのか、怯えたり、とにかく仲間の安否を確認しようと話し始める。

しかし、やはりまだどこか楽観している。だがこの中で一人ノルドは違った。


「ダメだ、門を見に行く時間があったら、さっさと家に帰って家族を連れてこの村から一刻も早く逃げろ。」


「ノルド? 何言ってるんだ? 確かにさっきの遠吠えは恐ろしかったが、獣の声が聞こえるなんてよく在ることだろ。それにたとえ緊急事態でも、いやそれなら尚更見張りの仲間を見捨てられないだろ?」


ノルドの言葉に、男達のうちの一人が反論する。確かにそうだろう、いつものノルドなら例え緊急事態でも、いやそれなら尚更仲間を見捨てたりなんかしない。むしろ自ら率先して助けに行くだろう。だからこそノルドは皆に信頼と尊敬をされている。だが、ノルドはことこの件に関してはそうは考えなかった。反論してきた男に凄まじい恐怖と焦燥を顔に刻み、そして言葉に確固たる確信を持ってノルドは言う。


「そりゃぁ あいつが生きてたらの話だ。殆ど確実に死んでるよ。そしてさっさと逃げないといや逃げたとしてもおそらくこの村の殆どがそうなる。いいからさっさと村から離れろ、おそらく奴らのボスは歴戦級以上の醒獣だ。ここにいたら全員死ぬ。」


ノルドの表情と言葉にその場から楽観が消える。それでも信じられない否信じたくない男達はさらに言い募る。


「そんなの嘘だ。あの森にそんなのがいるなんて聞いたことねぇし。大体なんであの遠吠えだけでそんなことわかるんだよ。」


「そんなこと、今説明してる暇はない。さっさと行けでなきゃお前らもお前らの家族も全員もれなく奴らの腹の中行きだぞ。」


男の問い掛けに、しかしノルドは答えない。けれど再度の注告の言葉には確かな確信があり。またその言葉によって己らの家族を思い出した男達は、ようやく現実を理解して酒場を出てこのことを家に向かいながら走り叫び村中に知らせた。


そうして5分もすれば村は人っこ一人居なくなった。酒場で未だ気晴らしのように一人で酒を呑むノルドを除いて。


「何分持つかしらねぇが、俺が命を捨てて殿をやるんだ。全員とは言えねぇが、できるだけ多く生き残ってくれよ。」


男はそう呟き、もはや味も酔いも感じぬ酒をぐびっと飲んで立ち上がり酒場を出る。

その背中にはもう恐怖も焦燥もなく在るのはたった一つ強靭な決死とも言える覚悟だけだった。









  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る