第2話 時代背景
この街は、昭和20年の春から夏にかけて、米軍のB29爆撃機が、毎日のように、空襲に来ていた。
東京などの大都市のように、1日で下町が廃墟になるというほどの、大空襲があったわけではないが、じわじわと小規模な空襲が毎日のように襲ってきていた。
毎日、数十人が犠牲になるかのような空襲、そもそも、それほど大都市ではないが、空襲があるというのは、街中に、軍需工場があったからだ。
その工場は、兵器を直接作っているわけではないので、
「大重点攻撃目標」
というわけではなかったが、米軍としては目障りだったことだろう。
本来であれば、軍需工場をピンポイントで攻撃すればいいのだろうが、日本上空には、
「ジェット気流」
なるものがあり、
それによって、ピンポイントの攻撃では、ほとんど成果が得られない。
したがって、この土地も、
「絨毯爆撃」
と言われる、無差別爆撃で、市民が犠牲になるのは、避けられないことであった。
そのせいで、日々の爆撃が続き、徐々に住む家も減ってきて、疎開に走る人も多いだろう。
終戦間際では、完全に人口はほとんどいなくなり、半分ゴーストタウンのようだった。
元々、建物は、戦前からの、
「建物疎開」
と呼ばれるもので、歯抜け状態だった。
建物疎開というのは、空襲を想定したもので、街が密集していると、木造家屋ばかりの日本では、爆弾が落ちてくると、誘爆を起こし、一気に街が壊滅するということで、家を歯抜け状態にしておけば、
「全体に火が燃え広がることはない」
という考えであった。
もちろん、通常のTNT火薬の爆弾であれば、それも、効果が絶大なのだろうが、米軍は、木造家屋を焼き払う目的で焼夷弾を作った。しかも、最新式の焼夷弾は、
「クラスター爆弾」
の様相を呈していて、空中でいくつもの小さな爆弾となって散布し、放射状にばら撒かれるのだから、建物疎開というものはあまり効果がないといえたのだ。
このように、当時は画期的であったとしても、相手が親権に研究し、効果を最大にならしめるという考えを持っていれば、その対応策など、簡単に見抜けるというものだった。
都市への無差別爆撃は、そんな日本家屋を文字通り、焼き尽くし、日本の大都市を、ことごとく、廃墟にしていったのだった。
燃えてしまうのだから、残りは、コンクリート部分の瓦礫だけになってしまうというのも当たり前のことで、そもそも、空襲への備えが間に合わなかったのか、いくら対策をしても、木造家屋という致命的な弱点を持った日本家屋は、しょせん、燃え尽きるしかなかったというのか、それこそが、日本の運命だったのだ。
それでも、政府は、
「一億総火の玉」
などと言って、本土玉砕を考えていた。
「国破れて、山河なし:
というところまで、完膚なきまでに国土は粉砕されていたのかも知れない。
そんな風にジリジリやられるのも、結構たまらないものだ。
まるで、どんどん端に追い詰められていくようで、
「どうせ、生き残ることなんかできないんだ」
と思うようになり、結果、黙って死を待つというようなそんな状態に、どうしようもなくなり、
「一思いに殺してくれればいいのに」
と思う人も多いだろう。
そのくせ、空襲警報がなると、真っ先に、防空壕に飛び込む。そして、空から降ってくる爆弾に当たったりしないように、自然と頭を下げるのだった。
上から降ってくるものに対して頭を下げたところでどうなるものでもない。防空頭巾だって、あんなものかぶったとしても、守れるわけではない。
「竹やり訓練が、これほど無駄なことはない」
とは思うのだが、避難の際、ほとんどのことがムダではないかと、どうして思わないのだろう?
あれだけ、政府が考えて実行した、建物疎開だって、結局、アメリカが、
「日本家屋を焼き尽くす」
ということで考えた焼夷弾にはかなわないではないか。
日本政府が考えることといえば、せめて、
「防空壕を掘って、そこに逃げ込む」
というくらいで、後は、まったく意味のないような、防空頭巾であったり、竹やり訓練、バケツリレーなどであろう。
焼夷弾で使われている、
「ナパーム」
というのは、相手を焼き尽くすまで消えないのだ。
だから、
「水を掛けたくらいでは消えない」
ということを、当時、どこまで分かっていたか?
いや、分かっていたとしても、どうしようもないことであったに違いない。
ただ、この土地に関しては、米軍にどのような狙いがあったのか分からないが、ハッキリとしていることは、
「時間が経つにつれて、人々の生きるという気持ちが次第に、消耗していっったことだろう」
と、いうことであった。
あれだけ、ネチネチと毎日のように、焦らすように攻撃を受ければ、次第に、
「どうでもいい」
と思う人も増えてくることだろう。
しかも。実際には、政府や他の国民がいうように。
「天皇猊下のために、最期まで戦う」
と真剣に考えている人だって、たくさんいる。
むしろ、そっちが主流なのであろう。
時代がそんな時代であったし、戦争に対して反対したり、輪を乱すようなことがあれば、即行で特高警察がやってきて、しょっ引かれてしまう。
下手をすれば、拷問に掛けられ、強引にでも、日本国民としての心得というものを、叩きこまれてしまうだろう。
だが、逆にそうなればなるほど、命というものの大切さがどういうことなのか、疑問に感じられる。
他人によって命が奪われるという環境に陥った時、
「必死になってでも、生きよう」
という考え方と。
「しょせんは、死ぬんだから」
という考えとで、まったく両極端な考え方が共有するという、歪な世界を形成してしまうのだろう。
ただ、それを表に出すか出さないか。当時の人たちは、あまり表情を顔に出さない。
そもそも、笑うなどという表情を見せれば、これもたるんでいるということで、警察にしょっぴかれることになるのだ。
「一体、この世が異常であるということを、どれだけの人が知ることになるのだろうか?」
そんな風に考えている人もいたであろう。
そんな時代においては、自殺を考える人がいたかどうか分からない。何しろ、その時のことを知ろうにも、証人はいないし、文章でも残されてはいない。
そもそも、戦争中に、
「自分は死にたい」
などということを残してしまうと、
「生きていたいにも関わらず、死ななければいけない人がたくさんいたそんな人たちに対して、どのように申し開きをすればいいのか?」
ということが問題になるだろう。
自滅というのは、
「相手の捕虜になる」
ということを恥ずかしいと思い、捕虜になるくらいなら、自決することを選ぶ。
という、当時の、
「戦陣訓」
というものを守らなければならないということから来ている。
あくまでも、
「戦意高揚」
の邪魔になることが、戦争継続を困難にするということであり、国民一人一人を考えてではない。
「敵前逃亡銃殺刑」
も同じだ。
軍において、逃亡を許せば、収拾がつかなくなるということで、その罪は最大級に重いということでの銃殺刑。そんな時代に、自殺などという選択肢はないだろう。
だが、戦争が、
「連合国による無条件降伏」
ということになると、今まで、
「鬼畜米英」
などとなじり、
「アメリカ人は、人間の生き血を吸う」
などというとんでもないデマを真剣に信じていた人たちは、その時点で、将来にまったくの希望を失い、自害した人も多いだろう。
政治家や軍の人も、
「戦犯になるくらいなら」
ということで、自決していた。
自分の犯した罪の呵責に苛まれていた人もいるだろうが、全員ではないことは確かであろう。
世の中が、
「立憲君主制」
から、
「民主制」
に変わり、その日を生きるのに必死な世の中になっても、生き続けるということの精神力はどこから来ていたのだろうか?
世の中がすべて焼け野原、今まで住んでいた世界が一変し、どうしていいか分からない中で、中には、
「どうして生き残っちゃったんだろう?」
と思う人もいるだろう。
「いっそのこと死んでいた方が、余計なことを考えない」
と思う人もいるだろう。
今の世の中、果たしてどうやって生きていけばいいのか。それを見つめなおすのが、戦後復興ではないだろうか?
考えてみれば、ノアの箱舟などもそうだが、聖書などには、
「滅びるところまでは詳しく書いてあるけど、復興するところはほとんど書かれていない」
といってもいいだろう。
それを考えると、
「聖書の話というのは、本当に信憑性があるのだろうか?」
と思えてくるのではないだろうか?
「復興について書かれていないのは、実際に洪水や、世の中が壊れたことは想像して書くことができても、その復興には、想像することすらできない」
と言えるのではないだろうか?
それだけ、復興には、一つのことに対していろいろなやり方がある。ただ、その時の人の感情を表すことは不可能に近い。それが、復興を描くことができないということの証明になるのではないだろうか?
戦時中と、戦争が終わり、復興状態において、自殺の実際の数とは関係ないという条件の元であるが、
「自殺したいという、いわゆる自殺志願者が多いのはどちらなのだろうか?」
ということを考えると、どう思えるだろうか?
たぶんであるが、
「戦後の方が、圧倒的に多い」
と言えるのではないだろうか?
前述の理論から考えても、それが証明できるのではないかと思える。
しかもその考え方は、
「説明しろ」
と言われたとしても、意外とできそうな気がする。
しかし、それを難しいと考えるとすれば、
「その考えというか、発想が無限に近いだけの可能性を秘めているからではないか?」
と言えるからではないだろうか?
そのことを考えると、あくまでも、最初のきっかけになることが何であったとしても、自殺をしたいといういわゆる、
「自殺志願者」
に対して、
「いかに、自殺をしたくなるように誘導するか?」
ということが徹底していれば、容易なことではないだろうか?
途中にいかなるプロセスが存在したとしても、結果として、
「死ぬ」
ということに変わりはないのだ。
今の状況を変えることはできないから、
「死を選ぶ」
ということであれば、死にたいと思っている人は、今がどうのではなく、死んだ後にどうなるか? ということにしか目が行っていないわけである。
いかに動機がどのようなものであろうとも、死にたいと感じることは、その言葉に集約されるように、
「死にたい」
と思うことがすべてなのだ。
もちろん、死ぬことで今の苦しみを逃れたいということが、一番の原因だということにブレがないことから言えることなのであろうが、
「死にたい」
と考える人が多い時代ほど、ちょっとした一言であったり、その人のツボを押すというような、スイッチの入れ方をすれば、自殺者は、爆発的に増えるというものではないだろうか?
そのために、きっかけはいろいろあるのであるから、それは戦争中であっても、戦後であっても変わりはないだろう。
死にたいと思うきっかけに対して、どれだけ死というものに、いかに真剣に向き合えるかということであり、
「人が死にたいと思える人をいかに見つけて、その人に的確に、死に至るアドバイスがっできるかということが、死の商人と呼ばれたり、死神などという、ありがたくない称号で呼ばれることになるのかということが、自殺者を増やすか減らすかというバロメーターなのではないだろうか?」
そういう、
「死神」
と呼ばれるような人は、結構、死にたいと考えている人を見つけるのがうまいのだろう。
妖怪もののマンガやドラマでは、死にたい人というのは、
「死相が現れている」
ということが分かっているかのようだった。
だが、本当に人の死を願っている。あるいは、自殺をさせたいと思っている一定数の人たちにとって、本当に人の死相などが見えるのだろうか?
他人の死、しかも、まったく自分に関係のない人の死を願っている人は一定数いる気がする。
人が死ぬことで、ライバルが減ったり、正直、食い扶持が減らずに済むということを、真剣に考えている人もいるだろう。彼らは、人類の未来を真剣に考えて、一周まわって、この結論に至ったのであろう、中途半端な気持ちでは、至ったとしても、その場に考えが留まることは不可能に思えるからだった。
「死にたい」
と思うのは、ずっと思っていると、次第にその感情に慣れてきて、それが慢性化してくると、その思いが、次第にマンネリ化というべきか、ルーティンのようになるのではないか。
それはまるで、
「朝がくればお腹が減るので、朝食を食べたり、昼休みが午後0時からあるので、その時間に合わせてお腹が減る」
といった、条件反射のようなものを、定期的に感じるのではないか、ということであった。
つまりは、
「死にたい」
という感情は一種の病気のようなものであり、一度思うと、その思いがまるでくせのように沸き起こってくるというものだ。
この癖というのは厄介なもので、身体に一度その味をおぼえこませると、自分を傷つけないと仕方がないというものである。
もちろん、本当に自殺をしたくなるのであるから、ただの癖だというだけで片付けると、自殺を試みた人からすれば、
「人が真剣に悩んでいるのに」
ということになる。
人によって、定期的といっても、突然襲ってくるもので、それが、どのタイミングなのかは分からないと思っている人もいるだろう。
しかし中には、
「いつも決まって、夕方に」
という人もいるだろう。
その場合は、最初に自殺を試みたのが、たまたま夕方だったので、
「夕方になると、自殺したくなる」
という一種の
「パブロフの犬」
のようになり、それこそ、条件反射だと言えるのではないだろうか?
どちらが多いのか、医者でも、心理学者でもないのでよく分からないが、普通に考えると、
「巧者ではないか?」
と思えるのだ。
生きている限り、毎日やってくるその時間帯。その人にとっては、自分の中の感情のスイッチを押す、いわゆる、
「鬼門の時間」
なのかも知れない。
人間には、
「鬼門」
と呼ばれるものがあり、いわゆる、
「東北にあたる方角」
だという。
これを時計に置き換えると、南から北を見た時に東北を指している時間というと、それは、
「二時前後」
ということになる。
この時刻を聞いて、ピンとくる不吉な時間がないだろうか?
それがいわゆる。
「草木も眠る丑三つ時」
というのではないだろうか?
つまり、幽霊が一番出やすい時間と呼ばれている時間である。
今のように、
「二十四時間眠らない」
というような街であれば、ピンとこないだろうが、昔の丑三つ時というと、
「草木ですら、眠りに就いている時間帯」
ということで、鬼門の時間帯なので、
「妖怪や幽霊の出やすい時間」
と言われていた。
彼らは決して、人間を脅かすわけではなく、人間に迷惑を掛けないその時間に現れるという、
「忖度のできる連中だ」
ということであろう。
自殺死体など、本当に珍しい時代ではなかった。もちろん、自殺するには、それなりに理由があるのだろうが、ちょうど、当時、世間を騒がせるような凶悪犯的な事件も少なくなかったことで、警察は、
「自殺者などに関わっている暇はない」
というのが本音だったようだ。
もちろん、そんなことを口にできるはずもないので、口に出すことはないが、
「そんな仕事を増やすようなことはしないでくれよ」
と思っていたことだろう。
確かに、凶悪事件が多発した時期ではあったが、それが、長く続いたわけではない。それこそ、
「模倣犯」
のような事件や、
「連鎖反応」
ではないかというようなものがあったのは事実であろう。
そう思っていると、実は、犯罪よりも、自殺の方が、連鎖反応があるようで、しかも、自殺はそんな凶悪犯が一時的なものだったような程度では済まされない。そういう意味では、長く社会問題になっているといってもいいだろう。
もちろん、警察も自殺を少しでもなくせればいいと思っていたことだろう。自殺者が多いというと、まず、印象が悪い。治安の云々とは違った意味で、世間体としてはあまりよろしくない。
それは当たり前のことであり、派出署の前や、警察署の前では、いつも、県下の死亡者数や、交通事故の累計などを、パネルにして貼り付けていたものだった。
だから、増えた減ったということは、気にしている人はいただろうから、警察もうかうかはしていられない。検挙率や、死亡者数、さらに、交通事故の数なのは、結構重要だった。
一人の刑事がいて、その刑事の発想として、
「自殺する人が、どのような心境なのだろうか?」
ということを気にしている人だった。
名前を、依田島刑事という。
彼は、今年で35歳になる。戦争中、戦後の動乱をいかに生き抜いてきたのか、自分でも、正直分かっていない。
「気が付けば、警察官になっていた」
というくらいだった。
だからこそ、警察官に落ち付いてからは、
「これからの人生、腰を落ち着かせて、生きて行こう」
と思うようになっていたのだ。
一種の、
「勧善懲悪の塊」
に近い刑事だといってもいいだろう。
今回の自殺死体発見の第一報を受けて、出動したのは、この依田島刑事だったのだ。
彼は、勧善懲悪の精神の元、警察に入ってはきたが、最近、いや、刑事になった頃から、自分が感じていた勧善懲悪というものと、少しずつ考え方が変わってきていることに気づいていた。
この頃は、凶悪事件や自殺も問題であったが、詐欺事件というのも少なくなく、自殺者の中には、そんな詐欺に遭ってしまったことで、自殺に追い込まれた人も少なくなかったのだ。
だが、その詐欺というのも、警察が捜査していくうちに分かってくるというもので、実際にどういうものなのかというのは、なぜか、緘口令が敷かれた。
ただ、警察からの注意勧告として、
「詐欺について」
という定期勧告通知として出される中に、書かれているだけだった。
「どうして、もっと、世間に通告しないんですか?」
と上司に聴いてみると、
「私もハッキリとは分からないが。どうやら、詐欺撲滅グループのようなものが、県警本部にはあって、密かに動いているようなんだ。その撲滅のためには、あまり世間で騒いで、やつらを刺激しないようにということで、今は内偵が進められているらしい」
ということであった。
「それであれば、納得は行くが」
と思った。
確かに、大きな獲物を一網打尽にするためには、しょうがないことなのだろうが、
「今でもこうやっているうちに、詐欺に遭っている人がいるのではないか?」
と思うと居たたまれない気分にさせられることもあったのだ。
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