第42話 この仲直りはさすがに甘すぎる


「いやぁ。昨日は迷惑かけてごめん」


 翌朝の翔斗はいつになく機嫌よく、へらりと笑って軽く謝ってきた。


「やっぱ帰国間近でばたばたしてたんだって。電話したらすぐ通じて。誤解も解けたし将来のこともちゃんと話せて────」


 言いつつ私のいつもと違う様子に気がついたらしくそこで話を止めた。「なんかあった?」


 ええ、ありましたよ。あんたのせいでね。


「べつに」


「いや、絶対なんかあったでしょ」

「なにもない」


「じゃあその焦げたシュー生地はなに」

「なんでもない」


「つか今やってるそれ、クリームの絞り方いつもと違うけど」

「えっ! や、その、き、今日から変えたのっ」


「……なに。まさか夫婦喧嘩?」

「は!? ちがうってば」

「絶対そうでしょ」


 もう、とひと睨みして無視して作業を続けた。「あんたもさっさと仕事してよね」


 翔斗は「こわ」と怯えるようにして売り場へと逃げていく。あー。全然集中できない。こんなむしゃくしゃした気持ち、初めてかもしれない。


 泣きたくなってきた。


 昔のことだし。

 今は幸せなのに。

 ガトーくんだって浮気はしてないって言ってた。

 私が勝手に機嫌わるくしてるだけ。

 困らせてるだけ。


 自分がいやだ。

 なんでこんな気持ちになってるの。


 ガトーくん……。


「今日は眞白のお迎え行けそうにないからよろしく、ってさ」


 翔斗が売り場からスマホ片手にそう言ってきた。


「なんで翔斗そっちに連絡がいくの」


「気まずいからっしょ」


 即答されて余計に腹が立つ。あーもう。今日はさっさと切り上げてどこかのカフェでも行こうかな。っていうか。帰りたくないかも。そうだよ。そうしよう。



「は。なに。なんでそんなことになるの」


 退勤後、私は翔斗の服の裾を掴んでいた。「今日泊めて」と。


「……あんね。こういうのって長引かせるとろくなことないよ。さっさと話して仲直りしなよ」


「なにが悪いのか、よくわかんないんだもん」


 最初はガトーくんに腹を立てたわけだけど、途中からは心の狭い自分に腹が立って。それからは苛立ちと悲しみに呑まれてもうよくわからなくなった。


「世話の焼ける姉貴だな」


 翔斗こいつにこんなことを言われる日が来るとはびっくりだよ。


 眞白のお迎えに保育園に寄る。昨日に続いて二度目というのに、なんだかもう女性保育士さんたちのハートをしっかり掴んでいる翔斗の才能にはほんとうに脱帽する。しかもちゃっかり「お待ちしています」「ぜひお越しください」なんてお店の宣伝までしてるし。あの。うちはホストクラブじゃありませんよ?


 ま、考えてみたらお迎えに未婚の若い男性が来ること自体が珍しいからかもね? そういうことにしておこう。


「来るのはいいけど、うち食いもんとかなんもないよ?」


「なら買って帰ろ。レンジくらいはあるでしょ?」


 もう引き返すつもりはなかった。彼と会って話すつもりも。仲直りはしたいとは思うけど……。


 どうやればいいのかわからなかった。だって彼とこんなことになったのは初めてだから。


 コンビニでお弁当やカップ麺、それからお酒とおつまみ……ってちょっと!?


「当然いちごのおごりだよね?」


 く。この世渡り上手め。

 レジでタバコまで買おうとするから必死で止めた。「禁煙はどうしたの!」「ちぇ」


 するとレジの女の子が私のことをちらちら見ていた。「沢口さん……」となにか言いたげ。っていうかなんで名前を?


「ああ、姉なんですよ」


 取り繕うように王子キャラを見せて言う。おいおい、コンビニにまでファンが?


 レジの女の子は途端にホッとした顔になって「お姉さまでしたか……」と微笑んできた。はあ、どうも。


「沢口さん、いつも買いに来てくださって、労ってくれて。この前なんか品出しの重い箱を運ぶのまで手伝ってくださって。ケーキ屋さんの方にもよくお邪魔させてもらっていて、バイトの私たちみんな、ファンなんです」


 そうなんですか、ありがとうございます。と笑顔を向けつつ、横目でこの女たらしを睨んだ。杏子ちゃんが帰国してから、本当に大丈夫なの?


「ていうかお弁当もお酒も多くない?」


 どう見ても食べ切れる量じゃなかった。すると。


「もうひとり来るからね」と。

 む……。嫌な予感がした。


 そして予感は大体的中する。



 小さなアパートの静かなリビング。隣の寝室で翔斗と眞白がギャハギャハうるさく笑い声を立てて遊んでいるのだけが聴こえる。


 私の向かいに居心地悪そうに座るのは、やっぱりガトーくんだった。


 翔斗のやつ。いつの間に呼んだのか。到着して5分もしないうちに玄関のチャイムが鳴って彼が現れた。主はそれを「おお、早かったね」と出迎えると「あとは二人でなんとかしてよね」と眞白を連れてリビングを出ていってしまった、というわけ。


「……ごめん」

「べつにいい。悪いのは私の方だし」


「いちごちゃんは悪くないでしょう」

「悪いよ。昔の、こんな些細なことも許せないだなんて」


 言葉にすると余計に傷ついた。ああ、もっと心の広い素敵な女性になりたい。


「いちごちゃん……」


「ごめんなさい。こんな面倒な奥さんになんかなりたくないのに」


 ガトーくんのことだもん。きっとたった一度や二度の事故みたいなキスだったんでしょう? ちゃんと愛してもらってるのは私なんだし。彼のいちばんは今も当時も私だし。だからこんな気持ちになる必要なんかないのに、ヤキモチなんて恥ずかしいのにっ……ああもうっ!


「僕だってそうだよ」


「……へ」


 ガトーくんは真剣な目でこちらを見ていた。


「未だに柚木崎ゆきざきくんを許せない。今からでも彼が現れてその目でいちごちゃんを見るのさえ、絶対に許せないよ」


 予想もしない名前の登場にキョトンとしてしまった。


「面倒な奥さんだなんて思わないよ。だってそれって、嫉妬でしょう?」


 しっ……と。


 途端に頬がかあっと熱くなった。


「昨日と今朝はもちろん慌てたし、当時の自分は焼き殺してやりたいくらいだけど。ほんの、ほんのちょっとだけ……嬉しかった。ごめん。でもいちごちゃんが嫉妬してくれたなんて」


 なんだろう。なんだか。もう。

 泣けて、笑えてきた。


「もう二度とそんなことはない。誓うよ。絶対に油断しないし、もしもそんな相手が現れるのなら僕がどれだけ愛妻家かを熱弁するよ。相手が引くくらいしつこくね」


 そ、それはそれで恥ずかしいのでやめてほしいけど。


「信頼、取り戻せる……?」


 不安げに見つめて言う。メガネの奥には変わらず懐いた大型犬のようなつぶらな瞳。


「いちごちゃんが好きだ。世界の誰よりも。どんな存在よりも。好きで好きで、ひと晩背中を向けられただけで、仕事も生活も手に付かなくなる」


「え」


「今日は散々だったよ。食事も喉を通らなくて、なにを言われても上の空。仕事でもまるで役に立たなかった」


 だから遅くなる予定がこんな早くに帰されたんだ。このままじゃ怪我するから、と。


 うああ。職場でそんなガトーくんなんて有り得ないけど……想像はできる、かも。イナヅカ本店の厨房スタッフのみなさん、ご迷惑をおかけしました!


「僕にはいちごちゃんの笑顔が必要なんだ。それがないと、僕は僕でいられない」


「大袈裟じゃ」

「大袈裟じゃないよ!」


 すると「ああ、もう」と言って「もういいでしょう」とぎゅう、と抱きしめられた。


「……はあ、好きだ」


 心の中に漂っていた怒りやモヤモヤが、もうすっかり見えなくなるくらい大量の「好き」がどんどん注がれて。許すことも謝ることもできていないのに、そんなのいいから、と強く抱きしめられて。甘えちゃだめって思うのに、彼に全部任せてしまいたくなる。


「ガトーくん……」

「いちごちゃん」


「大好きだよ」


 言うと、優しく、だけど激しく、溺れるくらいにキスをされた。


 昨夜ひと晩分なんか軽く超えるくらい。



「あ、の、おー」


 呆れた声に、揃ってはっと顔を上げた。


「用が済んだならさっさと帰ってくれる? ほんと勘弁」


 慌てて取り繕いながら「眞白は!?」と訊ねると「寝てるよ。とっくに」と寝室を指す。


「ご、ごはんは」

「食った。二人で適当に。風呂はよくわかんないし着替えもないみたいだから入ってない」


 うああ、ありがとうございます。

 とんだ『借り』ができてしまった。


「よかったね」


 見送りの玄関先で微笑んだ顔はお店の『キラキラ王子』とは違う、昔からの弟の翔斗の顔だった。





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