第36話 夢を追いたいなんて甘い!?
「……へえ。さすがに記憶にないですね」
意外にも翔斗はそれほど驚いた様子がない。
「もっと驚かないの?」と訊ねてみると「稲塚さんが父さんたちと同じ店にいたのは知ってたからね」と。こいつの持つ情報量も侮れない。それにしても『稲塚さん』か。うっかり『プリンス』って口を滑らさないといいけど。
「それにしても翔斗くん、兼定さんと怖いくらいそっくりで驚いた」
言われて複雑そうな笑みを見せる。ま、嬉しくはないんでしょう。
それから話題は翔斗の職歴や渡航歴、経験談へと移ってゆき、ガトーさんも「そこは行ったことあるな」とか「はは、わかるわかる」と反応した。
「それにしてもすごいね。ほんとうに片端から全部ってコースだ」
現地のことをよく知らない私でもかなり驚かされた。ちなみにガトーさんもフランス滞在歴は長かったけど、翔斗と出会うことはなかったそう。「出会ってもおかしくなかったね」とガトーさんが言うと「俺はひとつのところに長くいないんで」と。なるほどねぇ。
「それで蓄えた力を、次は実家の店で試してみようってわけだ?」
「まあ、そうですね」
「たしかに今の翔斗くんほどの知識があれば、あとはそれを具現化できるパティシエさえいればここを日本一のケーキ店に育て上げるのも夢じゃないだろうね」
「稲塚さんはいちごにそれだけの力があると思います?」
ん。とガトーさんの動きが止まった。
「……どうだろうね」
「シェフとして見てきたんでしょう?」
バチ、と見つめ合うからこっちがドキドキした。ど、どういう空気なのこれ。
「優秀ではあるよ。けど翔斗くんが求めるものとは……」
それは私もわかる。目指す方向が違うんだ。そもそも私は日本一なんて目指してないもん。
「いちごちゃんが継ごうとしているのは、この店の『やり方』、つまり『方向性』だよ」
ね、と訊ねられて、こくりと頷く。
「だけど翔斗くんはそれを改革していきたいんだ」
「ええ。そうなりますね」
そして翔斗はじろりとこちらを見た。
「つまりいちごの夢と俺の夢はそもそも合致しないんですよ」
ピリッと空気が張り詰めた。
「一緒に二号店なんてできるはずがない」
すると翔斗は脚を組み替えて「ところで」となんとなく雰囲気を変えて話しはじめた。
「稲塚さんはほんとうにうちを継ぐ気があるんですか?」
あえて「うち」と言ったのがわかった。こいつ。ガトーさんにケンカを売るつもり?
「すみません。俺はパティシエじゃないんでどんな巨匠の血筋でも怖くないんですよね。だから単に〈姉の旦那〉として聞きますけど、……なんで二人は別居なんかしてんですか」
どきん。
ガトーさんは答えなかった。驚いたからか、あるいは様子を見ているからかはわからない。
「早い話が、今の仕事をすっぱり辞める気はないのかってこと」
「ないね」
彼の答えは私が慌てるよりも先だった。
「はあ、なんで」
「やりたいからだ」
翔斗は、ぐ、と言葉に詰まった。ガトーさんは少し笑って「翔斗くん」と呼びかける。
「理由なんてそれだけでしょう。それが結果として間違いだった、とあとから誰かに言われても、今の自分はそうしかしたくないんだから仕方ない。もちろん僕だって思ってるよ。すっぱり辞めて百パーセントの力でいちごちゃんと店をやれたらどんなにいいかって。一緒に住んで、眞白と毎日過ごせたらどれだけ幸せかって。だけど僕がやりたいことはそれだけじゃないから。そしてどっちかを諦めるなんてこともできない。外から見たらたくさんスタッフがいる稲塚グループの仕事なんて辞めればいいのにって思うだろう? だけど今の仕事は、僕が生まれてきた意味そのものだから。簡単に辞めるわけにはいかないんだ」
ああ。ほんとうにその通り。ガトーさんにとって稲塚グループでの勤務はただのお仕事とはわけが違う。だから無理でも、無茶でも、やるんだ。だってやりたいことだから。
「だったらいちごが諦めるべきじゃない?」
え。とまた空気が止まる。
「稲塚さんにとって今の仕事がそんなに大事ならさ。俺から見たらいちごがわがままなだけな気がするけど」
結婚もしたい。
跡継ぎもしたい。
わがまま──。
「〈シャンティ・ポム〉は俺が継ぐ。いちごは結婚したんだから稲塚さんと稲塚グループを支えていくのがスジだろ」
言い返せない。だって正しいことだから。
「それに仲良いのに別居とか。意味わかんないっしょ。両親がこんな中途半端じゃ息子の眞白だっていい迷惑だろ」
そんな……。
「翔斗くんにそこまで言われる筋合いはないかな」
え、と驚いた。
だってガトーさんがこんな強い言葉を使うなんて。
「僕のためにいちごちゃんが夢を諦めるなんてこと、僕は絶対にさせないよ」
ガトーさん……。
「わがまま。上等じゃない? 変に気を使われるよりずっといい」
にっこりと微笑むその人は、もはや無敵の『王』だった。
「さて。それで二号店の件はどうしようかな」
「譲ってくれる気はないんですね」
「悪いけどね」
「ちょっと邪魔するよ」とリビングの扉が開かれたのはその時だった。
「ああ、揃ってんね。若い衆。朗報だよ」
ズカズカと入ってきてドン、と私たちの前に仁王立ちする。反射的にガトーさんが立ち上がるから私もつられて立つ。遅れて翔斗ものっそりと立った。
「場所をおさえた。二号店の」
お父さんは私たち三人の顔を順に見ると、にやりと不敵な笑みを見せた。
「どこですか」
ガトーさんが訊ねる。答えは少し焦らして、そしてぽつりと発された。
「東京」
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