第32話 幸と不幸はカミヒトエ④


「あなたの時も切迫早産だったからねえ」


 病室の付き添いイスで言いつつ「くふぁ」とあくびをして寝ぼけまなこをこするお母さん。夜中にショックと恐怖でパニックになりかけていた私にすぐ気がついて助けてくれた。


「横になって」

「ちゃんと息してね。酸素を赤ちゃんに届けるんだよ。ほら深呼吸」

「大丈夫だから。もう泣かない」

「ね、わかる? 赤ちゃん元気に蹴ってるよ」


「病院に電話するよ。自分で喋るんだよ?」

「入院セットあるよね」

「お白湯。ゆっくり飲んで」

「大丈夫だから。落ち着きなさい」


 お母さんがいてくれて、本当によかった。ひとりだったら、絶対こんな的確には動けなかった。


 病院で点滴などの処置をしてもらって、ひとまず状態は落ち着いてきた。だけど油断はできない状況、とのことで即入院となった。


「今、何時?」


 彼からのメッセージを確認したのが夜中だったから。


「んー。3時。お父さんがガトーくんと話してくれてたよ」


「え」と驚く。通じたんだ。私からの着信は出なかったのに、お父さんからのは出たの?


 私がちょっと、しゅんとしたのを察してか、お母さんは「お父さんはさ」と弁解した。


「一回無視されて諦めるような掛け方じゃないからね。さすがのガトーくんもあのお父さんから何度も着信と脅迫文が届いたら無視できないでしょ」


 それはそうだ。

 にしても『脅迫文』って。


「なんかすんごく怒ってたよ。顔見たら殴り掛かるだろうから止めないと」


「……は」


 お母さんはふふ、と笑っただけだった。


 ──いいから今すぐ来い。

 ──車飛ばして最速で来い。



 ぐ、と痛みがぶり返したのはその時だった。


 ああ、この子、生まれるんだ。


 なんとなく直感した。

 名前もまだ決まってないのに。予定日までひと月以上あるのに。



《お父さんとお母さんに、幸せになってもらうためだよ》



 そんな声が、聴こえた気がした──。



「いちごー! がんばれーっ!」

「ほらほら、吸ってー、吐いて!」

「水分補給大事だよ!」

「今のうちに寝なさい! 1分でも寝る!」


 助産師さんに「お母さん、プロですね」と笑われるくらいに心強いサポートだった。


 そして明け方──。


「いちごちゃん!」


 長く続く陣痛の合間、疲労で夢うつつの中で、


 ガトーさんの声を、聴いた気がした。


 夢?


 だって彼は今東京で、しかも、忘れてくれって……。


「いちごちゃん」


 ぎゅう、と手を握られて目が覚めた。分厚くて大きな、ああ、ガトーさんの手だ。理解した途端に再び激しい陣痛に襲われた。


 もう生まれますよ!




 でっかな、男の子だった。


「予定日まで待ってたら巨大児だっただろうって」と個室の部屋に戻ってからお母さんに聞かされた。


 陽の光がカーテンから明るく透ける部屋には付き添い椅子に座るお母さんとベッドの上の私しかいなかった。


「……ね、ガトーさん、いた?」


 必死すぎて夢だったのか現実なのかわからない。だけど、手に彼の温もりが残っているような気がする。


「うん。いるよ。お父さんと外で話してる」


「な! 殴られてないよね!?」


 思わず訊ねると「ふふ、大丈夫」とくすくす笑われた。


 それからお母さんは少し迷うようにして、でも我慢できない、というふうに、控えめに訊ねてきた。


「別れ話なんて、されたの?」


 はっとして、それからゆっくりと小さく頷いた。

「……『忘れてほしい』って」


 するとお母さんはどこか切ない目をして「あらあら」と小さく笑った。そっと立ち上がると、ベッドに座る私の頭を抱くようにして撫でた。


「そんなことできるわけないのにね」


 じいん、と鼻の奥が痛くなった。うあ、泣いてしまう。いけない、と思っても止められなかった。


「会いたい?」


 優しく訊ねられて、少し黙って、頷いた。お母さんはティッシュを手渡しながら「わかった」と答えると、呼んでくるね、と微笑んだ。


「ゆっくり二人で話しなよね」


 お母さんが部屋を出ていって、ほどなくしてノックの音がした。


「……どうぞ」


 応えると、躊躇うようにゆっくりとドアが開く。


「……いちごちゃん」


 何日ぶりに、テレビ越しでなくこの顔を見ただろう。


 私の、愛しい人。


 なにから話せばいいかな。わからなくて、気持ちばかりが溢れて、結局涙しか出て来なかった。


 ガトーさんは付き添い椅子に腰を下ろすと、一瞬躊躇うようにしてからなにかを決意したみたいに、そっと私の肩に触れた。肩から、頬、耳、そして髪を優しく撫でた。くすぐったいのと恥ずかしいのとで頬が熱くなる。


「…………ごめん」


 どういう意味での「ごめん」だろう。それがわかるまで不安は消えない。ガトーさんは椅子に座り直すと少し俯きながら、静かにこんな事を言い出した。


「……死のうなんて、バカなことを考えた」


 はっとしてその顔をよく見ると、泣いた後のような赤い目だった。


「ガトーさん……」

「大丈夫。もう、大丈夫」


 顔を伏せて弱く手を挙げた。そして泣きそうな笑い顔を見せて言う。


「兼定さんに、めっちゃめちゃ怒られた。『なんで迷惑かけないんだ』って」


 ──おまえはいつもそうだ。いちごを、俺らを信用してないのかよ!? 家族になったんじゃなかったのかよ!?


 それからお父さんは、「よく生きてたな」ってガトーさんを抱きしめたらしい。辛かったなって、頑張ったなって、泣きながらたくさん褒めたらしい。


 ──おかえり。ガトー。



「……嬉しかった」


 俯いたままで、ガトーさんはぐすん、と鼻をすすった。そして改まったように「いちごちゃん」と言って赤い目でこちらを見る。


「忘れてほしいなんて言ったの、取り消させてくれませんか」


 ああ。ああ。

 ガトーさん。


 安心したら、もう涙が止まらなくなって、押さえられなくなって、声を上げてわんわん泣いた。ガトーさんに向かって弱く手を伸ばしたら、椅子を倒すようにして立ち上がって抱きしめてくれた。


「しっ、死なない……で、くださ……よ」


 絞り出すけど、上手く話せない。それでもガトーさんはうん、うん、と頷いて、また謝って、大丈夫、と繰り返した。


 どのくらいそのまま泣いたか。ようやく話せるようになると、掠れる鼻声で伝えた。


「私たちを、幸せにしたいからって、生まれてきてくれたんだと思います」


 ガトーさんは涙でもうぐしゃぐしゃの顔で微笑んだ。「……そうだね」


 声を聴いたらまた泣けてきた。


「ガトーさん」


 言って、目を見た。すぐに涙でぐんにゃりするから、拭って、また見た。


「夫婦で、一緒に、がんばりたい」


 俯き加減に、こく、こくと頷きながら、私の手を強く握ってくれた。


「……ありがとう」




 赤ちゃんは〈眞白ましろ〉と名付けた。


 『真っ白』な気持ちでやり直そう、という思いと、それから、生クリームの『白』。


 生まれてきてくれて、本当にありがとう。




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