第5章 甘いばっかじゃないのが人生

第29話 幸と不幸はカミヒトエ①

 報告をするとガトーさんは年甲斐もなくぴょんぴょん跳ねて喜んだ。正確には電話口でそれを感じたというわけだけど。


「帰国、年明けの予定だったけど前倒しするよ」


「む、無理しないでくださいね?」

「うん。っていうかもうそっちに戻るよ。うん。そうする」


 そうして本当にそうしてしまった。季節はクリスマスを控えた大忙しの頃のはず。オーナーがいきなりそんなことしてお仕事は大丈夫なのでしょうか……?


 お仕事、といえば私の勤務は力仕事は控えて時間も短時間になった。これはとくに私から希望したわけじゃないんだけど……。


「は? おまえのためじゃないし。お腹の子のために決まってんだろ。なんかあったらどーすんの」


 はは。そ、そうですか。

 お母さんが言うには「ああ見えてすっごい心配性だから気をつけて」と。


「私が妊娠してた時も『仕事休んで』とか言ってきて大変だったんだから」


 お母さんは懐かしそうに微笑んで「だけどいちごがうちに居てくれて安心だよ」とまだ膨らんでもない私のお腹にそっと触れた。


「大事にね」「……うん」



 そうして月日は経ち、忙しい冬をなんとか越えて、いつかぶりに夫婦で平和にお花見なんかをしたりして春を過ぎ、じりじりとお日様がまぶしくなる初夏を迎え、やがて特有の湿った空気の雨の季節がやってきた頃。


 事件は起きた。


 マスメディアというのは、めいっぱい持ち上げられた標的をどん底まで叩き落とすのが好きらしい。


 だって盛り上がるし、おもしろいから。



「男の子だね」

「まだ確定じゃないよ?」

「男の子だよ」


 今にも雨が降り出しそうな曇り空のその日。リビングでお母さんは私の膨らんだお腹を眺めてそればっかり言う。どこから湧く自信なの、と笑ってしまった。


「男の子は大変だよー?」

「うん。知ってる」


 言って二人でくすりと笑った。思い出されている沢口家の『男の子』は今ウイーンにいるんだっけ? もはや所在不明。


「ガトーくんは今度いつ来るの?」

「まだわかんないって」

「ふうん。相変わらず忙しそうだね」

「うん。でも出産には立ち会いたいみたいだよ」

「えー、東京から? それ間に合うの?」

「がんばるって。ふふ」


 もうすっかり別居生活にも慣れた。相変わらず夜には毎日しっかり連絡が来るし、もちろん返信もしっかりとしてるからね。


 オーナーシェフになってもうすぐ丸二年。彼自身もその立場や振る舞いに慣れてきたのかな、とはたから見ていて思う。もちろん大変なこともあるにはあるみたいだけど。


 フランスから帰ってからは各店舗の様子も見て取りまとめつつ、基本的には私がいた頃と同じように本店のシェフとしての勤務に戻っているそう。


 一方で私の方はもうお腹が大きくて動くのもなかなか大変。お仕事も今はお休みをもらっている。


「お父さんは?」


「今日は専門学校の非常勤講師の日だよ」

「ああ、そっか」


 妊娠前は勉強も兼ねて見学兼助手としてよく一緒に行かせてもらっていたけど、ここ最近はそんなこともすっかりなくなってしまった。


「産後の復帰って、どのくらいでできる?」


 するとキョトンとされてしまって困った。


「いつでもいいんじゃない? やりたかったら。あと身体が元気なら、すぐにでもやればいいよ」


 お母さんもそうしてたからね。と。

 ああ、心強いな。実家に住んで、実家で働かせてもらっているおかげで私はなんの心配もないや。


 そりゃもちろん、出産はすごく怖いけど。



 すると一階したで出入口が開く音がした。

「帰ってきたかも」


 お母さんが階段下を覗く。

「早かったねぇ?」


「ああ」と低く返す声が聴こえた。


「ずいぶん中途半端な時間じゃない?」


 私がお母さんに言うと「たしかに」と時計を眺めた。時刻はおやつ時も過ぎた午後4時前。いつもならもっと遅くまでかかるのに。


 なんとなく胸騒ぎがした。第六感、なんてほどじゃないけど。こういうのって妊娠中だからなのかな?


 そのまま待つけどお父さんはなかなか二階の住居の方へと上がって来ない。まさかそのまま厨房でお菓子作り、なんてことないよね? あのお父さんのことだから有り得なくもない。


 ちょっと見てこようかな? と立ち上がる。「階段気をつけてね」とお母さんに言われて頷いた。とくにしたい話があるわけではないんだけど、なんとなく気になったから。


 そろりそろりと一階まで降りると薄暗い厨房の隅にその姿が見えた。……ん。話し声。電話しているみたいだ。


「俺らにできることなんかなんもないっしょ。あいつがなんとか踏ん張るしか」


 相手は誰だろう。私の知ってる人かな。


「ああ……そうっすね」


 敬語だ。目上の人? 珍しい。その割には砕けた敬語だな。まあお父さんの性格だしね。


「こういうことは起こる時は起きますからね。とくにあんな手広く店出してりゃね」


 ……ん?


「問題はガトーすね。どうやっても責任は必ずあいつに来る。またマスコミに騒ぎ立てられるのは覚悟しないと」


 え。今、なんて……?


 止まってしまって、動けなくなった。いや、動かないと。聞かないと。何があったのか。


 階段のそばから動くと、お父さんが私の気配に気づいたらしい。「じゃ、また情報ください」と相手に告げて電話を切った。


「今の話……」

「食中毒だよ」


「…………へ」


「被害百人超えてるらしい。ガトーのとこの二号店」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る