第28話 別居夫婦はほろ苦い
「それで今度は店を継ぐから入籍させろってか」
梅雨明けの頃に一時帰国したガトーさんはまっすぐお父さんに話をしに来てくれた。
「もう意地の張り合いはやめましょう『お
「絞め殺されたいの?」
冗談です。と笑わずに返した。
お父さんはふん、と鼻を鳴らしてガトーさんを見た。
「経営のほうはどうなの? どんなもん。跡取り二代目ってのは」
「まあ、流されまくりで苦労してます」
「目に浮かぶよ」
軽く笑ってその手を拭いた。どうやら作業を中断したらしい。ちゃんと話をするつもりってこと?
「じゃあその二代目プリンスくんは、今後うちの娘とどうしていくつもりでいんの。それを聞いてからこっちも考えさせてもらおうか」
するとガトーさんは黙って、ゆらりと厨房を見回した。私もつられてそれに倣う。幼い頃から見慣れた厨房。器具、照明、積まれた材料、壁の汚れ。そこに詰まった歴史や想いみたいなものを、今更たくさん感じた。ちなみに今日は定休日で売り場も厨房も薄暗い。
このお店で、お父さんはずっとお菓子を作り続けてきたんだ。そしてその姿を毎日見て、私と翔斗は育った。
「僕ね、いずれ店を作りたいんです」
「はあ、まだ手広げんの。今度はなんの専門店よ」
稲塚グループは私たちがいた『本店』を主軸として駅前の『二号店』それからショッピングモール内の『三号店』、さらに『タルト専門店』に『ショコラ専門店』、それと最近は『シフォンケーキ専門店』もできたばかりの巨大な組織。
「ちがいますよ」
ガトーさんは少し笑って否定した。
「稲塚グループではない、自分の店を、です」
「……」
お父さんは話の流れを察したかのように黙った。
「小さいのに、そこにこだわりの世界がぎゅうっと詰まってる、夫婦だけでやる特別な店。ここみたいな店を」
「うちは従業員雇ってるよ」
「細かいことはいいんですよ」
「ここを継ぐのはおまえも本望だってこと?」
「そうです」
お父さんはちらりと私を見てからガトーさんに視線を戻す。
「オーナーの仕事は?」
「やります」
「どっちも?」
「はい」
「……贅沢な夢だな」
言って呆れたふうに笑った。
「そんな甘くはないよ」
「甘くなくてもやりたいんです」
お父さんを見つめるガトーさんの瞳は強い意思を持っていた。
「叶うか、見届けてくれませんか」
いやだね、といつもみたいな即答は返ってはこなかった。
「王子は辞めれたの」
あう……その件は。
「僕は王子です」
「自分で言うかよ」
呆れられて、ガトーさんは少し照れたように笑った。
「じゃないといちごさんを幸せに出来ないと思ったので」
「それが答え?」
「はい」
お父さんは「ふーん」と返して今度は私も含めて問う。
「で、なに。別居夫婦でいいってこと?」
「いずれは一緒に住みます」
「いつだよ」
「いずれは……」
「おまえの仕事はフランスか東京だろ」
「なんとかします」
「あのなぁ」
「お願いします兼定さん。無茶言ってる自覚はあります。だけど……叶えたいんです。自分の夢も、いちごちゃんの夢も」
たしかに無茶だ。あっちもこっちもなんて実際はできっこないし、別居だってそんなの幸せなの? と周りからは思われるかもしれない。
だけどこれが、私たちが出した答えだから。
彼に倣って頭を下げたら、鼻の奥がつんとして、視界が水中みたいになった。
「はー。欲張りな夫婦だな」
それからお父さんは「いいよ」と軽く言った。
「継ぐ継がないは追い追い考えるとして。ガトーは歳も歳だししたいんなら早く入籍しろ」
少しの間、揃って停止して。やがて脳がそれを理解すると共に、ぶわ、と全身を何かが駆け巡った。
あまりに嬉しくて、ガトーさんと一緒にお父さんに抱きつこうとしたら「やめろ、まだ完治してないって!」と全力で拒否されてしまった。ははは。
そんなわけでいろいろありましたが、私、〈沢口 いちご〉はこの度無事に〈稲塚 いちご〉になりました!
うわぁ。すごい。この苗字はたしかにかなりの重みがありますね……。
挙式はささやかに……とはいかず。まあそれなりにお騒がせしてしまったけど仕方ないよね。たくさんお祝いしてもらえてほんとうに幸せなひと時だった。
「いっ、いちごちゃん……」
「……へへ。ドレス。似合いますか?」
「うっ、うん。……はあ、ああ、死にそう」
「へ!?」
結婚後の勤務はお父さんのお店〈シャンティ・ポム〉でパティシエとして正式にお世話になることになり、東京のアパートも引き払った。
「下働きからやる?」
冗談半分で言われたのかと思ったら本当に掃除や雑務までやらされている。まあ、なんでもやらせていただきますけどね。
ガトーさんは変わらずフランスに滞在中。だけどもうすぐ日本での勤務に戻れそうとのことで。
「そうなったら週に一度は会えるね」と。
たしかにフランスよりは遥かに近いけど、普通はそう易々と行き来できる距離じゃないですよ? 感覚は人それぞれだけどね?
会うのは彼がこちらに来ることが圧倒的に多かったけど、たまには私が出向いて空港まで迎えに行ったりもした。
「いちごちゃん!」
わあ、っと嬉しそうに走ってくる姿はやっぱり懐いた大型犬に見えてしまう。ふふ。
これまであまり行ったことがなかったガトーさんの住まいは都内のお洒落なマンション。
ほとんど生活していないせいもあって広いリビングは物がほぼなくシンプルな印象。家具はどれもツヤツヤだったりフカフカだったり……。うう、こういうものに慣れてないからいちいち驚いてしまう。
それにしても二人だけで過ごす時間というのは、会えなかった分を埋めるように濃厚で、とにかく甘く……。
入籍したという事実もあってかガトーさんはもはや容赦なく。前から容赦なかったけど更に容赦なくて……ひああ。
これ以上はヒミツです!
そんなふうにして、まもなく入籍から一年と少し経つ、もみじが
赤ちゃんを授かりました。
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