第27話 離れ離れはほろ苦い
「渡仏の目処は立ってんの?」
梅雨の季節が近づいてきたある日の厨房で突然訊ねられた。渡仏、つまりフランス行きの日程のこと。
「えっ、まだなにも」
「そろそろ治るよ、俺」
「え」
ガトーさんからそれについての連絡は特にない。たぶんまだまだ治らないと思っているのかも。だって当初の予定よりずいぶん早いもん! 驚異的な回復力とかなんなの!
「ちなみにフランスではおまえ何すんの」
「え……それは」
具体的にはまだなにも話していない。できれば洋菓子店で仕事があればありがたいけど……留学というわけではないし、その場合やっぱり難しいのかな。言葉の壁もあるし……。
だとしたら、私のパティシエ人生ってこれで終わり?
あんなに頑張って耐えてきたのに?
努力して、腕を磨いてきたのに?
産後にパートで復帰できればそれでいい?
若いうちは主婦業と子育てに専念……。
あれ。それってなんかちがう。
そんなのちがうよ!
そんなのだめ!
ちがう、ちがう、ちがうっ!
だって私は、私がずっとやりたかったのは。
「お父さん」
呼びかけたけどお父さんは答えなかった。たぶん、私がこれから言おうとしていることがもうわかっているからだ。
「お父さん」
「いらないよ」
先に断られてしまった。わかってる。でも引き下がりたくない。
だってわかったから。気づいたから。これが私の『夢』だったんだって。
「私、このお店を継ぎたい!」
この数日で味わった充実感。それはただ忙しくて感じていたわけじゃない。
私が本当にやりたいことだったからなんだ。大学を辞めてまで、ずっと私がやりたかったこと。
──これ、おねーさんが作ったの? すごぉい!
あの笑顔を、私も生み出したいんだ。お父さんみたいに。だから私はあんなにも、お父さんに認められたかったんだ。
「おまえには無理だろ」
「なんで」
「ガトーはどうすんの」
う、と止まった。
「でもお客様はこのお店が続いてほしいってきっと思ってる! お父さんが死ぬまでやっても、その後は? お客様は残されたままでいいの?」
「誰がおまえより先に死ぬかよ」
え。年齢的にはあなたが先ですよ!? そりゃ、保証はないけどね?
「ガトーさんだって話したら絶対賛成してくれるよ!」
「断る」
「いやだ!」
いつになく強く言うと、お父さんは黙った。
「私……やっとわかったの。自分がほんとうにやりたかったことが。なりたかったものが。だから絶対実現する。お父さんが嫌がっても、どれだけ時間がかかっても、ガトーさんを困らせることになっても。私、ガトーさんとここを継ぐ。もう決めたからっ! 絶対譲らないからっ!」
こんな風に泣いたのは、あの日以来だな、と頭の片隅で思い出していた。
──お父さんみたいなパティシエになりたいの。大学を辞めて、専門学校に通いたい。
スタート地点に立つだけで、ずいぶん遠回りしちゃった。
だけど。今の私にならきっとできるよね。だってガトーさんと出会ったから。
「はは…………そうか」
電話口でガトーさんは困惑と喜びが混ざったような声を出していた。
「嫌がられたでしょう?」
「それはもう」
言って二人でくつくつと笑った。
「賛成……してくれますか?」
少し、緊張した。きっと賛成してくれるとは思ったけど、お仕事の都合やガトーさんの思い描く夢だってあるはずだから。
「いちごちゃん」
はい、と答えると彼はこんなことを言った。
「僕は王子だよ。愛する人の願いは叶えるに決まってるでしょ」
うお、すごいことを言いますね? あれ、でも。
「王子様、辞めるんじゃなかったんですか?」
「うん。考えたんだけどね」
「はい」
「辞めないことにした。その方がいいから」
はあ、と少し笑いつつ聞いていると「だけど」と言葉が続く。
「僕の方はなかなか片付けられそうにないんだ。だから当面は……夫婦になれても別居することになってしまう」
あ……と言葉に詰まった。別居。
考えたら当然のことだ。お父さんだって「ガトーはどうすんの」と言っていた。
もちろん結婚はしたい。ガトーさんが私の運命の人だって、今でも思ってる。叶うならこの人の子どもだって産みたい。
「いちごちゃん」
「……はい」
「僕は正直、耐えられる自信はないよ」
「……え?」
え? え? 叶えてくれるって言ったのに?
「別居なんて……。この前みたいに返信がなかったら心配で死にそうだ。だからフランスに来てほしいって思ったんだよ。そりゃさ、いちごちゃんにだっていろいろあるだろうし、返信できないこともあるとは思うよ? だけどそんなの僕にはわからない。っていうかそういう『いろいろ』だって本当はすぐ知りたいし全部そばで見ていたいんだよ」
「ガ、ガトーさん?」
大丈夫ですか……? と訊ねると「大丈夫じゃないよ」と。
「今でも会いたくて仕方ないのに」
ああ。幸せ者だな、私は。
「ガトーさん」
「…………なに。引いてる?」
思わぬ発言に噴き出して笑った。
「大丈夫。引いてないです」
「そのくらい好きってことだよ……」
「ガトーさん」
「ん」
「……ガトーくん」
「……」
「大好き」
少しの沈黙があってから、「電話で殺そうとしないでくれる!?」と怒られた。あはは。
「大丈夫。ちゃんと毎日返信します」
「……うん」
「その日あったことも、話します」
「……うん」
「私もさみしいです」
「……うん」
「ガトーさん」
「……うん?」
「王子様なんですよね?」
訊ねると「そう、だけど」と戸惑ったように返された。
「私、ここで待ってます。だから」
ああ、やっぱり涙は出ちゃうな。
「いつか、迎えに来てください」
どんな返事が聞けるかと思ったら。それはこんな、笑っちゃうようなものだった。
「地の果てまでも」
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