第18話 プロポーズは甘かった
「……ん。どこですか?」
訊ねると「ふふん」と笑う。わからず小首を傾げると、どうしてか慌てて目を逸らされてしまった。「ガトーさん?」訊ねつつその顔を覗くと、……ん、顔赤い?
「な、なんでもない。……なんかこうして面と向かって話すのが久しぶりだからかな」
「……ん?」
久しぶりだと、どうなの?
「……かわいすぎて」
「は……」
赤い顔を伏せて小さく言う彼に、どう答えていいのかわからない。途端にこっちまで頬が熱くなった。まったくどこにこういうスイッチがあるかわかったものじゃない。
ここは私の住むアパートの部屋。一躍有名人になってしまった彼とは以前のように迂闊に散歩にも行けなくなってしまい、会うのはもっぱら私の家だった。
だけど他人の目がない空間、というのはどうしてもこういう展開に陥りやすいようで。私は常にこの溺愛王子にこうしてとろけされられてしまうんだ。
「来て」
「ひあ……っ」
こんな簡単に唇を奪われていい? っていうかガトーさん、結構その、攻め手ですね?
わあわあ、もう、恥ずかしい。
「『ご挨拶』に行きたいんだよ。ご実家に」
「え」
両親に許しをもらって、正式に婚約者になりたい、と。大きな身体で私をすっぽりと包むようにしながら彼は言う。
そうか。そうだね。
オーナーシェフになったわけだし、周りも静かになってきたし。
いよいよ『その時』なんだ。
「それが済んだら、一緒に住もう。その許しももらうつもりだから」
どきん、と胸が鳴る。
「だけどその前に。プロポーズが先だね?」
言ってゆっくりと腕をほどくと、優しく私の目を見つめた。
「プ、プロポーズ……!?」
「そう」
あまりに急な展開でついてゆけない。
「ちゃんと指輪を用意してきたんだ」
「えっ、今日、今からですか!?」
全然そんなつもりはなかったからとても慌てた。服装とかこんなで大丈夫? それなら部屋ももっと徹底的に掃除しておけばよかった!
「ほんとうはもっとムードのあるところでやりたかったんだけどね」
ご挨拶に行く前に世間で騒ぎになったらだめだから、と。
言いながら立ち上がると、ガトーさんはカバンから小さな包みを取り出した。
綺麗な水色の小箱。
見た途端、鼓動が早まる。
「ちょっとやりたい構図があるから。立って」
「こ、構図?」
「そう。そっちへ」
言われた通りに立ち上がる。
向かい合うと、ガトーさんは、愛おしそうに微笑んで私を眺めた。「綺麗だよ」
こういうことを、この王子は平気で言うんだよ。もちろん嫌ではないけれど、慣れてないから当然めちゃめちゃに照れてしまう。たまらず俯くと「こっちを向いて」と。
すると突然、すらりとその場にガトーさんが。
跪いた。
「えっ……こ、こんなの」
「いいから聞いて?」
後ずさりしたくなったのを懸命にこらえた。
「沢口 いちごさん。あなたを一生護ります。どうか僕と、結婚してください」
キラリと光る粒は、当然本物のダイヤモンドだろう。その姿は、誰がどう、どこからどう見ても、王子様でしかなかった。
こんなのってずるい。
庶民の女の子には刺激が強すぎです。ぐ……鼻血が出そう。
「…………はい」
もはや泣きそうになりながら、なんとか返事をしたら、またすぐに抱きしめられて、それから、
苦しいくらいに幸せにさせられた。
そんな幸せの絶頂にいる私たちは、次なる難関に挑まなくてはならない。
だけど彼は、どうやらそれがどれだけの難関かに気がついていないみたいで。
「ガトーさん、あの」
二人で暮らせたら、と先のことばかり考えて心躍らせる彼に、水を差すつもりはない。だけど予備知識、というか、わかっておいてほしくて。
「結婚の申し込み、たぶん一回で通らないと思うんです」
鳩が豆鉄砲を食らった顔だった。
その理由は、もちろんあの人。
私のお父さん。沢口
だけどその中身はどこを取ってもケーキ。ケーキ。ケーキ。ケーキを愛し、ひたすらにケーキを作り、ケーキに捧ぐ人生を送る、度を超えたケーキ馬鹿のド変態。……あんまり言うとお母さんに叱られちゃうけど。
ま、そういうところはもはや仕方ないとして。問題は、その頑固さと口の悪さ。そして自分の子どもたちをぜんっぜん認めてくれないところ!
「あっはは……そうだね。そうだった」
ガトーさんは道中の新幹線で私の話を聞くと車窓から射す梅雨明けの日の光を受けながら懐かしそうに笑いだした。
「だから私、大学まで行っちゃったんですよ。『パティシエになりたい』なんて言ったらお父さんは絶対嫌がるだろうと思って」
「でも、なったんだ?」
そう。それでも結局、私は自分の気持ちをごまかすことをやめた。その原因はじつはこんなところに。
「……弟が」
「
「そうです。翔斗があんまりにすごいから」
簡単に言えば羨ましくなってしまったんだ。従順に生きてきた私と違って、
「同じ時にもやもやしたまま大学に進んだ私は、なんだか自分が惨めになって。やりたいこと我慢して、私だけなにしてるんだろうって。それで翌年からでも専門学校に行こうって決めたんです」
ガトーさんは「へえ、あの翔斗くんがねぇ」とほやほや1歳の頃の翔斗を思い出しているみたいだった。その頃はギリギリでまだ可愛かったんでしょう。
「今、翔斗くんは?」
「……たぶん、フランス? かな? や、ベルギーかも」
「ふは。曖昧なんだ?」
「そういう奴なんです」
会ってみたいなぁ、と宙を見て微笑んだ。
「だけどそうか。それなら結局沢口家は全員ケーキ業界に入ったんだね」
「そう……ですね」
「『絶対やらせない』って、
え。と見つめてから二人でくつくつと笑い合った。
そう。お父さんはそういう人だ。だから私が結婚相手を連れてきたら、どんな人でも絶対に最初は反対するだろうってずっと前から思ってた。
だけど、ガトーさんだから。かつて住まいを共にしていたというこの人は、お父さんにとってもきっと特別だ。この人なら、もしかしたら。
あっさり許してくれたりし──
「は?」
──しなかったかぁ。
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