第17話 電話の答えは甘かった

 薄暗い部屋で何もせずに過ごした。だんだんとまぶたが降りてうとうとし始めた頃に、高く響いた電子音にはっとした。


 反射的に時計を確認すると午前三時を回ったところだった。


 少しだけ画面を見つめてから、覚悟を決めて通話を始めた。


「……もしもし」


「もしもし」


 電話の相手の声は相変わらず落ち着いていた。


「お久しぶりです」

「うん。お久しぶりです」


 オウムくらいの返しぶりですね。


「お電話いただいて、ありがとうございます。すみません、お忙しいのに」


「いや」


 はあ、と息の音が聴こえた。それはどういうため息か。疲労? それとも、緊張?


「こっちこそ、こんな時間にごめん」


「いえ」


 それから、沈黙してしまった。かけて欲しいと言ったのは私なんだから、私からなにか話すべきとは思う。だけど、いざとなると言葉が出てこなかった。


「お元気ですか」

「ああ……うん。元気だよ」


「い」と言いかけて「沢口さんは」と言い直したのがわかった。『いちご』の「い」だ。


「現場は……大変だろうね。ごめん。僕のせいで」

「稲塚さんのせいじゃないですよ」


 再び沈黙したのは、私からの呼び方が苗字に戻っていたせい?


「休みの件は、なんとかします。それから取材も、今後は断れるものは断って、なるべく僕も現場に顔を出せるようにするつもりだから」


「そうですか。よかった」


 また沈黙。電話って案外、もどかしいんだな。


「稲塚さん」

「沢口さん」


 声が重なってしまって、また沈黙。だけど、もう黙ってないですよ。私は。


「別れてって仰った意味、ちゃんとわかってますから」


 返事はない。だけど続ける。


「私と、私の実家のお店を守ってくださって、本当にありがとうございました」


 これだけは、ちゃんと伝えたかったから。


「では、そろそろ」


 言って耳から離そうとした、その時だった。


「いちごちゃん」


 久しぶりに聴く、その呼び名。途端にもみじのあかが目の前に広がる気がして、目の奥がぐっと痛む。鼻がつんとした。


「迎えに行っても……いいですか」


「…………?」

 どういう意味か。


「ああ……ごめん。言わないつもりだったのに」


 独り言のようなつぶやきだった。それをキッカケみたいにして、彼から言葉が溢れ出す。


「ほんとうは、迎えに行きたい。僕の周りが大丈夫になったら、迎えに行ってもう一度やり直したい。別れたことがいくら正しい判断だったと自分に言い聞かせても、後悔が押し寄せてしかたないんだ。どうしているか、考えない日はなかった。いちごちゃんが過労で倒れていないか、気が気でなかった」


 どきん、と胸が鳴る。


「好きなんだ。たぶんずっと、好きなんだ」


 ぽたり、と膝が濡れて、じんわり服に染みてゆく。ぽたり。また、ぽたり。


「いや。だけどそんなの勝手すぎる。今更そんなの、許されないよ」


 ごめん、と謝られた。


「……迎えに、来てくれるんですか?」


 震える声で訊ねてみるけど、答えはない。だからこんな質問に変えてみた。


「私はガトーさんの、力になれますか?」


 沈黙のあと、ぐずん、と大きくすする音が聴こえた。そしてそのまま少しして、やっとその声が聴けた。


「なって……くれるんですか」


 はあ、と荒い息の音。涙の混じった声だった。


 別れ話をする前にどうして相談してくれなかったんですか、と怒ってもいいことだったとは思う。一方的に別れを告げてくるなんて、さすがにひどい。


 だけど彼を責めなかったのは、その優しさをちゃんと感じられていたから。


 もう。凄腕パティシエのくせに、不器用なんだから。


「……もちろんです」




「来週まん中、三連休決まりましたー!」

「「うおおおおーっ!」」


 長期休暇の許可をみんなに発表した雨宮あまみや先輩は「詳しくはいちごちゃんから聞いてって稲塚さんから言われたんだけど?」と不思議そうにこちらを見た。


 ええ。そうなんです。ご本人からこの機会にこっちの件の公表もしよう、と強く言われまして。


「あの……じつは今回、稲塚さんにお休みをお願いしたのは私で」


「そうそれ。どうやって返事もらえたの?」


 やっぱり先輩には返してないんだ。まったくもう……。


「ええと……ですね」


 また一斉にその視線がこちらに集まる。先輩と後輩、いつの間にか後輩の方が多くなっていた。すっかり私も『ここの人』になったんだな。


「ええと私、……稲塚さんと、お付き合いしてます。半年くらい前から、結婚前提で」


 瞬間、厨房の音が全部消えてなくなった。……と思ったら、ぐわあっ! と沸き上がって収拾がつかなくなった。


「うそでしょ!?」

「やっぱり!?」

「え、え、え、待って!」

「リアル玉の輿!」

「最初からそんな雰囲気あった!」

「うそ、全然わかんなかったよ!?」


 もうね、うるさくしすぎて。売り場のスタッフさんもちらちらこちらを覗いているくらい。まさかお客様にまで聞こえてませんよね?


「メール返してくださいって言っといて?」


 あとからこっそり雨宮先輩に言われた。あは、承りました。




「そう。よかった」


 みんなの様子を伝えると、電話口の声は力なく、それだけ答えた。


「ガトーさん、大丈夫ですか?」

「ええ?」

「ガトーさんも休んでないですよね?」

「はは、僕は仕方ないよ」


 仕方ないって……。


「雨宮さんがメール返してくださいって言ってましたよ」

「ああ……ごめん。忘れてました」


 もう……。


「取材、断れないんですか?」

「んん、どうだろうね。強く推されると、どうもね」


 断れないタイプ。目に浮かぶ。


「は。なんのためにやってるんだかね」


 あれ。今日はちょっとやさぐれてます? と思っていたら。


「いちごちゃん」

「……はい」


「会いたい」

「え」


 こんなことを言い出すから驚いた。


「会いたいよ」

「わ……私も、ですよ」


「ああもう、全部投げ出して今から会いに行きたい」


 ガトーさん……。


「そんなの無理ですよね?」

「そうだね」


 はあー。とため息が聴こえた。


「なにかあったんですか?」

「んん……。ごめん。ちょっとぶちまけたくなっただけ」


 ぶちまけたく……。こんなガトーさん珍しい。お酒でも飲んだのかな。だけど、たしかに会いたいな。


「ガトーさん」

「ん」

「大好きです」


 顔が見えない電話だから、つい大胆になってしまった。


「早くお店に戻ってきてくださいね」



 それって当然「取材が一段落ついたら」という意味で、まさか「この先の取材全部断ってください」なんて意味なわけがないんだけど、彼にとっては私の「早く」は「直ちに!」に変換されてしまうらしい。……なんでよ。今後もこわいからこういうのちゃんと覚えておこう。


 長期休みの件は翌週のまん中、火水木の三日間が休みになった。話を通した私がすっかり英雄扱いになったのは言うまでもなく。休み明けには私のもとへずらりとそれぞれのお土産のおまんじゅうが供えられた。……って私はどういう存在です?


 パティシエにあんこ好きが多いという話は置いておいて。


「お久しぶりです。今日から現場復帰します稲塚です。ポジションはスーシェフあらためオーナーシェフになりました。みなさんまたよろしくお願いします」


 その休み明けからガトーさんが約三ヵ月ぶりにお店に帰ってきた。取材、断ってしまってほんとうによかったのかな? 印象わるくなってない? あとでこっそり訊ねてみたけど、「うちはもう宣伝とか必要ないからね」と。ふむ。


 そうして徐々に、テレビや雑誌も稲塚グループやガトーさんの話題から離れ始め、お店の混み具合も落ち着きを見せてきた。そんな、真夏が迫って蝉が元気に鳴く頃。


「今月の連休で、行きたいところがあるんだ」


 ある休日、ガトーさんがそう切り出した。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る