第16話 考えは甘かった
【パティシエ界の巨匠 稲塚
巨匠の訃報はテレビや新聞で大きく取り上げられた。
それはガトーさんの勤務が変わってからひと月あまり経った年明けのこと。療養中の噂があったにしてもあまりに早い、と思えた。
「こんな形でオーナーシェフを就任するのは本意じゃない」とガトーさん本人も言うように。
生きているうちに、継いでみせたかった。と。
葬儀や法要が済んでからもガトーさんは忙しそうで、お店に顔を出さない日が続いていた。
「毎日メールで細かく指示は来てる」と現場リーダーの
どうか無理なく。そう願う日々を過ごしていた。そんなある日、それは突然のことだった。
【ごめん。別れてほしい】
「……え!?」
ひとりでいたのに思わず声が出た。目を疑った。だって、なんで!?
それは巨匠の訃報からひと月が過ぎようとした頃。二月の、粉雪ちらつく夜だった。
すぐに電話を掛けたけど繋がらなかった。仕方なく返信を送った。指が震えて、何度も打ち間違えた。
【理由を、教えてもらえませんか】
返信はすぐには来なかった。布団にくるまってじっと待っていたはずなのに、気づけばそのまま寝てしまったようで日の出前のまだ空が黒い中、霞む目を細く開けて光る画面を確認した。
【ごめん】
ああ、とまた目を閉じる。閉じていても、涙というのは溢れるんだね。
だけど、なんで?
絶対になにか理由がありますよね?
それはすぐに見当がついた。
新聞、テレビ、雑誌。そこら中のメディアがこぞってガトーさんのことを取り上げはじめたから。
つまりかつてテレビにも出演するような有名人だった
当然といえば、当然のこと。巨匠のただひとりの跡取り息子。しかも現在は凄腕パティシエで、フランス帰りの独身。王子様のような生い立ち、振る舞い。そして人柄。世間がこの人を放っておくはずがない。
その中でこの王子様に今スキャンダルのような話があれば当然格好のネタ。下手をすればお店の、いや、グループ全部の経営にまで大きな影響をもたらす可能性だってある。
そして、相手である私にも当然矛先は向く。もしかしたら、私の実家のお店にも。
──別れてほしい。
ガトーさんの性格からして間違いない。守ろうとしてくれたんだ。私のことを。お父さんとお母さんのことを。
もう、ほんとうに優しい人。
だけどこんなの、寂しすぎませんか?
だって。私の気持ちはどうなるの?
運命の人に、ひとり置いていかれて。
だけど。わかる。
『別れたフリ』にしなかったのは、嘘がつけないタイプの彼らしいことだから。
大丈夫。それならきっと戻れる。
そう自分に言い聞かせて、なんとか耐えることにした。
それからも彼のことは『パティシエ界の
予期せぬ激務はお店にとったらいいことなのかもしれないけれど、雇われている身としては言ってしまえばいい迷惑。いくら人間関係に問題がない職場でも、度を超えた仕事量を投げられ続ければどんなスタッフでも例外なく疲弊する。余裕がなくなって、空気だって悪くもなる。
辞めたくても、人手がなくて辞めさせてもらえない。そうしているうちに、心や身体のほうが限界になる。ひとり、またひとり。やむなく空いた穴を埋めるために、残されたスタッフの仕事量は更に増える。
「稲塚さんになんとかしてもらえないんですか?」
ついにスタッフのひとりがそう声を上げた。
「だめ。稲塚さんも多忙すぎてここの割り振りまで回んない感じ」
「でもこのままじゃ俺たちもちませんよ?」
「だよね……」
「正直もう限界」
私も、例外じゃなかった。
「お店ごと長期休み、なんてもらえないですかね」
私がそう提案すると、厨房の全員がまるで女神でも見るような目で見つめてくれてたじろいだ。
「いい!」
「夢だねぇ」
「旅行したーい」
「俺は眠り続ける」
「温泉~」
「いやサウナっしょ」
「帰省したいですぅ」
願望だけでこんなに盛り上がれるのか、と思わず笑った。
「だけど稲塚さん、こっちからはほぼ連絡つかないよ? それにいきなりお店ごと休むなんてさすがに無理でしょ」
言うのはリーダーとして稲塚さんの代わりに現場を仕切る女性パティシエの
雨宮さんの言葉に「はあ。ですよね」と一気に肩を落とす厨房スタッフたち。「一瞬でも夢見れて幸せだったわ」と涙目で変なお礼まで言ってくる人もいるくらいにみんな限界だった。
彼と別れてから、もうすぐひと月半。あの日以来連絡は取っていない。お付き合いをしていた頃は連絡すればどれだけ遅くなっても翌朝までには返信が来ていた。
今なら、どうかな。
試してみるには、いい頃かもしれない。退勤後に街路の夜桜を眺めながら、決意した。
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お久しぶりです。
今日は厨房スタッフの代表として連絡させていただきました。
連日の激務にスタッフはみんな疲弊して限界を迎えています。
スタッフを守るためにも、お店全体の長期休暇を希望します。せめて三日間だけでも、お店を休業にできませんか。なるべく早いご判断、よろしくお願いします。
それと
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続きを付け足すかどうか、迷った。
迷ったけれど。もしかしたらこれが最初で最後のチャンスかもしれない。そんな気がしたから。
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それと
ガトーさん。少しだけでいいのでお話がしたいです。いつでもいいのでお電話いただけませんか。
沢口 いちご
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返信が来るか、あるいは電話が鳴り出すかと、そわそわして眠れなかった。
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