第14話 忘れた理由は謎だらけ


「え! ガトーくんが!?」


 高い声に思わずスマホを耳から遠ざける。


 次の定休日、お母さんに稲塚さんが今の上司だと打ち明けると返ってきたのはそんな反応だった。


「前に言ってた〈優しいスーシェフさん〉ってガトーくんのことだったの!?」


 そう言えば彼が〈巨匠の息子〉だということは伝えていなかった。それを言っていたら先にお母さんから私たちの過去のことを聞かされたかもしれなかったのか。


「フランスで仕事してるって聞いてたから。まさか帰国してたなんて」


 言いつつお母さんは「そうだよね、彼は跡継ぎだもんね」と納得していた。


「いちご、覚えてなかったんだ?」


 訊ねられて「うん」と答える。すると「また会えてよかったね」と。ん、どういう意味?


「ガトーくんとお別れってなった時、いちご、すんーごく泣いて。泣いて泣いて、暴れて。ふふ。大変だったんだから。本当に覚えてないの?」


 え。そんなの……記憶にない。それに稲塚さんもそんなことは言っていなかった。


「『ガトーくんのお嫁さんにしてもらうから!』って。ふふ」


 口を開けたまま、ちょっと返事ができなかった。


 お嫁……さん? え、私が、稲塚さんの!?


「覚えてないんだ?」

「……覚えてない」


 お母さん相手にこんなに顔を熱くしたのはたぶん初めてのことだった。


 電話を終えてからも、頭の中はぼーっとしていた。あの日の涙の意味。忘れた記憶。


 なんだろう。なにか、大切な部分を思い出せないでいる気がする。


【東京にいた頃住んでたのって、どこだった?】


 いても立ってもいられず、ついさっきまで電話していた相手にメッセージを送った。


【行ってみたいの。教えて】


 返信はすぐに来た。それを片手に、カバンと薄手の上着を持って部屋を出た。


 電車に揺られて数分。案外近くで驚いた。それは都内の、とあるアパート。近くに植えられた細いイチョウの黄色がまぶしい、なんの変哲もない普通の建物だった。


 もちろん中にまでは入れない。だから外からただ眺めた。


 空が青い。あの日の空もたしかこのくらい青かったな。


 …………え?


 ──いちごちゃん。


 不意に、甦る。風の匂いと共に。


 ──いやだ! いやだいやだいやだよ!

 ──いちご。ガトーくんが困るでしょ。

 ──いやだよ! なんでお別れしなきゃいけないの!

 ──ガトーくんはいつまでもここにはいられないの。

 ──なんで!? いやだ! いやだ!

 ──いちご。

 ──ね、いちごも行く!

 ──なに言ってんの。

 ──アトくんと一緒に住む!


 ──いい加減にしろよいちご。

 ぴしゃりと言うのはお父さんの声だった。


 ──ガトー。早く出ろ。

 ──うん。今のうちに。

 ──いやああああああ!


 すると『その人』は小さな私の前に跪くみたいに屈んで、耳元でそっとこんなことを言ったんだ。



 ──じゃあ、20年経ったら結婚しようよ。


 ──けっ、こん?

 ──そう。


 頬を熱くしたまま、くこり、と頷いた。幼いあの日を、今、


 鮮明に思い出した。



 ひらり、イチョウが肩を掠めて舞落ちた。


 どうしてごっそりと忘れてしまっていたのだろう。悲しすぎて、泣きすぎて、すっかり消し去ってしまったのか。



 ──20年経ったら。



 その『20年後』が、今だ。


 抑え込んでいた気持ちが、またざわざわと騒ぎ出してやがて再び燃え始める。


 風に転がるイチョウの葉が、あの日のもみじへとすり変わって、真っ赤に色づく。


 運命の人。



「稲塚さん」


 翌日の退勤後、みんなが帰るのを見届けてから、そっとその人に声をかけた。


「散歩に行きませんか」



 今日の外は散歩に不向きと言えるくらいに冷えていた。冷たい外気に思わず身を縮めると「大丈夫?」と心配された。


「す、すみません。こんなに寒いとは……」


 別の日に出直そうか……。いや、それだとすぐに月末になって、稲塚さんはお店に来なくなってしまう。


 すると稲塚さんは「いいよ」と笑った。「また缶コーヒーでもご馳走するよ」


「そ、そんなわけには!」

「遠慮なく」


 あっさりリードを奪われて頭を下げることになった。前と同じベンチに並んで座って、ほかほか温かな微糖の缶コーヒーを受け取った。


「昨日、ひとりで行ってきたんです。昔、稲塚さんと一緒に住んでたっていうアパートまで」


 すると稲塚さんは「えっ」と驚いた様子でこちらを見た。


「どうして……」

「なにか、思い出さなきゃいけないことがある気がして」


 ふわ、と吹く、今日の秋風は冷たい。


「それで……」

「……はい。思い出しました。『20年後の約束』のこと」


 風は冷たくても、コーヒーの缶はずっと触っていられないほど熱かった。


 固まったままだった稲塚さんの瞳が、わずかに大きくなった気がした。


 並んで座っているところを、身体を捻って正面になるように相手の方を向く。自分でそうしたのに、相手を見ると途端に鼓動が激しくなって耐えられないほどだった。


「稲塚さん」


 呼んでみるけど稲塚さんはちらりと私の目を見てから、す、とそれを地面へと逸らす。そしてこんなことを言った。


「過去は、過去として。冷静になってみて」


 頬を刺す秋の風は、やっぱり冷たかった。


「沢口さんと僕の年の差は、20だよ」


 それは、そう。ですけど。


「さすがに対象にならないでしょう?」


 微笑をたたえて見ている先は私ではなくて、暗いアスファルトのままだった。


 どうしてそんなことを言うのか。それも、そんな寂しそうな顔で。


「沢口さんが同世代の子といるのを見る度に、そう思った。この前もみじを観た時に私服を見た時も」


 それが、稲塚さんが私に努めていた理由なんだ。


 20の差。それはどうやっても縮まらない。だけど、こんなにも運命を感じてしまう相手に『差』なんて、関係あるのかな。


「情けない話だけど。沢口さんに恋人ができたと知った時、初めて縁談を受けたんだ。この歳になってから」


 父からの懇願もあってね。と。

 いつか見た綺麗な女性の姿を思い出した。


「その話は、どう……なったんですか?」


 訊ねるのは、少し怖い気がした。もしも上手くいっていて、今も進んでいる話だったら。


 庶民の私が出る幕はない。


 稲塚さんは私のそんな様子を察してか微かに笑って「振られたよ」とあっさり言う。もう一年近くも前のことだよ、と。


「とんとん拍子に話は進んでいたんだけどね。父親同士が経営方針で揉める、なんてバカげた話で。親が揉めはじめたら、相手の女性もここぞとばかりに僕に本音を語った」


 ──父の手前仕方なくここまで付き合ったけれど、私にはほかに想う人がいます。だからあなたの妻にはなれない。


 ──仮にもし結婚することになっても、一年経ったら別れることを約束してください。


「こちらから振ってくれと頼んだ。まあ縁談なんて今どきじゃないから。昔みたいに子どもは親の言いなりじゃない。うまくまとまる方が珍しいのかもしれないね」


 言うと、少し寒そうに腕を組んだ。


「もう二度と受けまい、と思ったよ」


 縁談、なんて。私には遠い世界の話だった。そう思うと、やっぱりこの人は別の世界を生きる人なのかな、と思えてしまう。


 冷たい風と、熱いコーヒー。

 もうよくわからないよ。


 捻っていた身体を、また正面に戻して。宵闇に向かってぽつりと言う。たぶん、振られる。そう自覚しながら。


「私じゃ……だめですか」


 年齢差。

 身分差。


 それでも私はやっぱり。

 あなたが好きで。


 涙声になるなんて、ズルいのに。


「すみません、あの、やっぱり」


 笑おうと思ったのに、全然うまく出来なかった。


「……だめじゃないよ」


 ぽつり、と返ってきた言葉に、「へ」と相手を見る。その拍子に涙がほろりと地へと零れた。


「当時、泣き止ませたいっていう一心だった。だけどあんな約束でいちごちゃんを縛りつけてしまって、申し訳ないことをした、と後からずっと気にしていたんだ。だから沢口さんが僕のことをすっかり忘れてくれていて、本当はすごくほっとした」


 稲塚さんは話しながら缶コーヒーを開栓して、ず、とすすった。


「でも……同時に思い出してほしい、とも強く思った。はは。勝手だよね。顔を見たらやっぱり振り向いてほしくなってしまって。僕を好いてくれていたあの頃のいちごちゃんを取り戻したくもなって」


 ぶわ、と、もみじみたいにあかく、頬が染まる感覚。


「鏡を見ては、こんなオジサンがなにを夢見ているんだ、って、自分を諭していた」


「オジサンだなんて……思ったことないですよ!」


 年齢差も

 身分差も

 飛び越えて。


 私たちは、何度でも惹かれ合うんだ。


 ずっとフタをしてきた気持ち。有り得ない、幻だと言い聞かせてきた出来事たち。


 幻なんかじゃなかった。

 妄想なんかじゃなかった。


 気持ちのフタを、そうっと開ける。すると言葉が、気持ちが、一気に溢れ出た。



「私、稲塚さんのことが好きです。あの頃も、今も、ずっと好きです」


 いつの間にか寒さは感じなくなっていた。ふわり、と身を包む秋風が、心地よくさえ感じられた。


「稲塚さん……」


 返事はない。だから意を決してこう呼び直してみた。


「ガトーさん」


 するとぴくりと反応して、相手はゆらりとこちらを見た。たゆたう秋風の中、視線が交わる。また心臓が跳ねる。手が冷えて、震える。だけど、がんばる。


「私のこと、今はどう思ってますか」


 ひらり、舞い落ちて、敷き詰められてゆくもみじの葉のように。紅くなった途端に『好き』がどんどん積もってゆく。時たま優しい秋風が、ふわんとそれをめくって遊ぶ。


「…………好きだよ」


 観念した、というような顔だった。


「大好きだよ。ずっと、ずっと。止めようとしても、止まらない。忘れようとしても全然無理で。誰にも取られたくなくて、ずっと見ていたくて。いちごちゃんを困らせる人は許せなくて。一生かけて守りたいって思うくらいに」



 大好きだ。



 言い終わると同時に、ぎゅう、と抱きしめられていた。


「…………うう」


 こんな日が来るなんて、思うはずない。だってこの人は、雲の上の存在。おとぎ話の王子様のはずだったのに。


「もう一度ちゃんと言わせて」

「……?」


「結婚しよう。いちごちゃん」


 そうしてまた、痛いくらいに抱きしめられた。




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