第13話 寂しげな笑みは謎だらけ


「じゃあ、時系列をたどって話そうかな」


 その横顔をちらと見ると、目線はもみじを越えた遥か遠くに向いているようだった。


「僕は、落ちこぼれだったんだ」


 いきなり信じられないことを告白されて「え」と再びその顔を見る。「ほんとうだよ」と、相手はちらりとこちらを見た。


「新人の頃、僕には沢口さんみたいな強さは全然なくて。すぐに辞めたい気持ちに負けてね。もってひと月、数日で音を上げて逃げたこともある」


「ほんとうですか?」

「ほんとうだってば」


 はは、と笑って「それでもね」と話は続く。


「〈巨匠の息子〉として育てられたから。パティシエになるしかなかったんだ。どれだけ過酷でも、ひどいいじめに遭っても、身体が拒否しても。店を転々として、ずっと続けた」


 私も経験したあれを、稲塚さんも経験したんだ。いや、もしかしたらもっと酷かったのかもしれない。だってその場には私を救ってくれた〈スーシェフの王子様〉はいなかったはずだから。


 そうか。だから稲塚さんはあんなにも新人の扱いや嫌がらせに敏感だったんだ。


「三つ目のお店で、ついに声が出なくなって」


「声が……?」

「そう」


 懐かしむような目をして「精神的ストレスで話せなくなったんだ」と淡々と語った。


 ──精神的にどうにかなる前に


 お母さんが前に私に言ったことは、もしかしてこういうことを案じていたの?


「それで完全に辞めて、自宅の部屋にこもってた」

「えっ」

「引きこもりってこと。ニートとも言える」


 今のバリバリ働くキラキラ王子様の稲塚さんと重ねるにはあまりに差がありすぎた。


「ゲームもネットもすぐに飽きて。ひまだったね。毎日なにをして過ごしていたか、まったく記憶にない。生きていながら、死んでるみたいだった」


 そんな生活が半年以上も続いたらしい。


「そこにある日突然現れたのが、沢口さんのお母さんだったんだ」


「……へ!?」


 突然のお母さんの出現にまた驚く。だって、なんで?


「はは。当時ね、父の弟子……というか、そういう人が店を始めたばかりで。そこにパティシエとして来ないか、と誘われた。その店のスタッフだったのが若き日の沢口夫妻。沢口さんのご両親だったんだよ。恐らくはオーナーの命令でだと思うけど、沢口さんのお母さんが引きこもりの僕を自宅から連れ出そうと説得に来たんだ」


 そして彼の話は更に私を驚かせた。


「声が出ない間、お母さんのご厚意で居候をさせてもらってたんだ。沢口家にね」


「居候……って、え、うちに? ですか?」

「そう。住まわせてもらってたってこと」


 それだ! と心の中で合点した。稲塚さんもうん、と頷く。


「保育園が休みの日曜はよく子守りをさせてもらって。弟の翔斗しょうとくんも一緒に、三人で公園にもよく行ったよ。滑り台や、砂場、ブランコを押したりね」


 ──「もっと高く! お空までビュンって」



「……お、覚えてます、それ。ほんとうになんとなくだけど……父ではない男性の『誰か』と、公園で遊んだ記憶が、片隅にずっとあって」


 すると稲塚さんは嬉しそうに笑った。

「それは僕だよ」


 やっぱり。そうだったんだ。


「二人ともほんとうにかわいかったよ。『アトくん』『アトくん』って懐いてくれて。特にいちごちゃんは──」


 そこで話を切ってしまった。どうしたのかと様子を窺うと「いや、なんでもない」と微笑まれた。


「僕の名前は『ガトー』だって何度教えても『アトくん』のままだったけどね」


 はは、と懐かしそうに笑う。だけどそこではたと気がついた。


「でも……声が出なくて子守りなんて大変だったんじゃないですか」


 すると稲塚さんは「うん」と答えて座る位置を少しずらし、まっすぐに私のほうを向いた。


 ひらり、あかの背景。


「じつはね。いちごちゃんにだけ、話せたんだ」


「…………へ?」


 そんな、嘘みたいな話。


「不思議でしょう。ほかの誰でもダメで。初めからではないけど、ある日を境に突然、それも二人きりの時にだけ声が出せたんだ」


 それをきっかけにして稲塚さんは徐々に声を取り戻したんだそう。


「だから」


 見つめられて、心臓が跳ねる。頬が熱くなる。空気までもみじに染まる。


「いちごちゃんは、僕にとって特別なんだ」


 そうしてごく自然に、頭をすらりと撫でられた。まるで20年前に戻ったみたいに。


「久しぶり。いちごちゃん」


 『いちごちゃん』。その呼び名を聞いて、ぶわ、と全身になにかが走った。なんなのかはわからない。けれど、懐かしくて、愛おしくて、じんわりと目が潤んだ。


「こんなに大きく、立派になって。また僕の前に現れてくれた。奇跡みたいだ」


「あの……私が本店に就職したのは、ご存知だったんですか?」


 訊ねると「いや」と軽く片手を挙げた。


「パティシエになってることも知らなかったからね。まあ、お父さんやお母さん経由でいつか再会できるかもとは思っていたけど、はは、まさかこんな形で会えるとは」


 嬉しかったよ、それはもう。と。


「最初はすぐに思い出してもらえるかと思っていたんだ。だから少し権力を使って、強引に二人きりになったりもした」


 散歩、なんて言ってね。と。


「いろいろヒントを出したりもしたんだけど、やっぱりダメで」


 ──『ガトー』って聞いて、なにか思い出さない?


「うあ、す、すみません……」


 思わず謝ると「いちごちゃんが悪いわけじゃないよ」と笑う。


「もう諦めていたんだけどね」


 それなのにどうして今思い出したのか。厨房で止まらなくなったあの涙は、一体なんだったのか。


「……私もよく、わからないんです。けど……稲塚さんが来月からあまりお店に来られなくなる、って仰ったじゃないですか」


 それしか思い当たることはなかった。


「そうしたら……どうしてか思い出したんです」


 ──行かないでよ!



 すると稲塚さんはゆっくり立ち上がって「冷えてきたよね」とこちらを見下ろした。


 え。と戸惑う私に、また微笑んだ。その笑みが今度は少し、ほんの少し、寂しげに見えた。


「送るよ」


 それは、この夢のような時間の終わりを告げる無情な言葉。待ってほしかった。だって私は、まだこんな中途半端な気持ちなのに。


「稲塚さん」

「職場では今まで通り、スーシェフとして接してくれたらいいから」


「え……」


「こんな昔話に付き合わせてしまってごめん。明日も出勤でしょう。遅くなると良くない」「稲塚さん」


 なんだか様子がおかしいですよね?


「あのっ」

「ごめん」


「へ……」

 どうして、謝るの?


「帰ろう。


 寂しげな微笑みが、妙に心に突き刺さった。




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