第2章 謎の加減は中級編

第11話 遠い記憶は謎だらけ

 突然そんな話になるなんて一体どういうわけか。聞けば巨匠は最近身体を悪くしがちで、ここから少し離れた自宅で療養中なんだそう。


「それはここの仕事をしながらじゃできないんですか?」


 思うことは皆同じ。稲塚さんにいてほしいんだ。


「もちろんできるだけ顔は出します。だけど今のように毎日来ることは恐らくは難しいです」


 嫌だ! そんなの嫌!

 魂が叫んでいるような気さえした。


 だけど、え? なんで?

 私はもう稲塚さんのことを恋愛対象として見ていないはずなのに。


 どうしてこんなに気持ちが急くの。



「あ、沢口さん」


 それはそんな突然の発表があった日の退勤後のことだった。


「少し、時間あるかな」


 どきん。久々に心臓が跳ねた。



「今後の勤務のことなんだけど」


 一瞬散歩の誘いを期待した自分に呆れた。最後に散歩をしてからもうずいぶん経つというのに。


「現場のサブリーダーを任せたいんだ」


「……えっ!」


 さすがに驚いた。

「で、でも、ほかにも先輩は」


「フミさんは胃炎がひどくて通院中らしいんだよ。だから責任の伴う仕事はだめだそうで。辻井くんは来月退社予定だし」


「え……」

 あとの先輩は……あれ、もういない?


「適任と思うよ。最近の沢口さんは本当によく頑張ってるし。沢口さんになら安心して任せられる」


 僕の代わりを。と、その言葉が引き金だった。


 自分の中でなにが起こったのか、自分でもわからなかった。ただ、激しくなにかが溢れるような感覚があった。


 ぽたり。


 最初はなんの雫かわからなかった。だけど次から次から熱く湧いて頬を伝うから、ああ、涙、と理解した。


 理解すると同時に、ボロボロと止まらなくなってしまった。自分でも何が何だかわからなくてただ驚いた。


 ──行かないでよ!


 え。この声は、誰?


「……っ、沢口さん?」


 稲塚さんの戸惑う顔が、ぐんにゃり歪んで水中になった。


 ──行かないで、アトくん!


 アト……くん?


「だ、大丈夫だよ。そんなに責任を感じる必要はない。リーダーの雨宮あまみやさんもいるんだし、周りもサポートしてくれる。僕だってたまには顔を出せるし──」


 慌てて励ます稲塚さんに首を横に振って「ちがう」となんとか伝える。


「せ……せき、にん、とかでっ、なく、て」


 なんとか喋るけどコントロールも難しくて、またわんわん泣いてしまった。



 ぐちゃぐちゃになった私の心の中に、小さな女の子がいた。


 幼い頃の、私だ、とわかった。


 隣には3つ年下の弟の姿。まだよちよち歩きだ。だから私はたぶん4歳くらいだろう。


 ──「アトくん」


 またこの名前。

 ──「アトーくん」


 すると低い声がした。


 ──「『ガトー』だってば」



 はっとして意識を取り戻すと、いつもの厨房の隅にいた。稲塚さんが、心配そうにこちらを見ている。


「す、すみませ……私」


 ずる、と鼻水をすするとティッシュの箱を差し出してくれた。会釈をして何枚か頂戴して涙と鼻水を拭き取る。


 不思議な感覚だった。だってそんなはずはないから。だけど──


 ──「ガトーだってば」


 あの声は、たしかに。


「水だけど。よかったら」


 この声だった。


「あ……ありがとうございます」


 まだ目と鼻の奥がじんじん痛かった。こんなわけのわからない涙は初めてだった。


 だけど。妙な確信があった。


「……あの」


 だから迷いなく、訊ねた。


「稲塚さん。変なこと、訊くんですけど」


 するとメガネの奥の深い色の瞳がまっすぐこちらを向いた。


 ──アトくん。


「私と……ずっと前に会ったこと、ありますか」


 その瞳が、僅かに大きくなるのを見た。


「少し……外で話そうか」



 季節は秋も深まる頃だった。ふわりと頬に当たる風はもう冬の匂いを含んでいる。「今日は少し冷えるね」そう言われて頷いた。


「ちょうど二年くらい前だよね。最初に散歩に誘ったのは」


 優しい夜風の中で稲塚さんが言う。二年前、そうか。はじめて散歩したのもたしかこんな季節だった。二年……いつの間にそんなにも月日が経ったのか。


「あの頃はまだ新人で。油断するとすぐ目のかたきにされてたよね」


「私が生意気だったんです」


 答えると「違うよ」と笑われた。


「みんな嫉妬してたんじゃないの。沢口さんの実力に」


 畏れ多い言葉に大きく首を横に振った。すると稲塚さんはこちらを向いて微笑んでから、すら、と前を見る。


「……ちょうどそろそろ、話してもいいかと思ってたんだ」


 なにを……?


「20年前のことを」


 どきん、と胸が鳴った。

 毎日見てきた稲塚さんが、突然記憶の中の『あの人』と重なる。そんなはずない、と思っても、もう、そうでしかない。


 だけど、なんで?

 真実がわからない。


 20年前……。ああ、やっぱり。私は4歳だ。


「『アトくん』……」


 口にすると稲塚さんは弾かれたようにこちらを見た。やっぱり、そうなんだ。


「ごめんなさい、ちゃんとはよくわからないんです。でも、この呼び方がどうしてか頭に浮かんで」


 揺れるリズム

 背に触れる感覚


 ──「もっと高く! お空までビュンって」



「あの……教えていただけませんか。昔のこと」


 すると稲塚さんは立ち止まってまっすぐこちらを向いた。すらりと大きな、頼りになる上司。メガネがお洒落な、みんなの王子様。


「沢口さん」


「……はい」


「散歩ついでに、もみじ狩りなんてどう?」


 ふわり、冬の匂いが溶け込んだ秋の風。


「……もみじ狩り?」

 思わぬ誘いだった。


「そう。そこの公園。夜はライトアップされてるんだ」


「で、でも私、こんな格好じゃ」


 職場とアパートの行き帰りだけの外出。いつも通りコック服に薄い上着を重ねただけのなんの色気もない格好だった。ついでに勤務後で髪もぺたんこだし、メイクだってすっぴんに近い。


「着替えて来る? 待つよ」

「ええ!? そんな、わるいです」

「大事な話だから」


 驚いてその顔を見ると、稲塚さんはいつも通りに微笑んでいた。




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