第10話 これで辞めるには甘すぎる


 翌日からの柚木崎先輩は、まるで別人みたいだった。


「沢口さん。それ早くこっちに回してください」

「あ……はい」


 私のことは『沢口さん』と呼んで敬語で話す。まるで自分より先輩みたいな扱いだった。


 べつにいいですけど。


 そして退勤後は、私にずっとそうしていたように今度はかわいい後輩ちゃんに寄り添って帰るようになった。見せつけている気はないんだろうけど、まあ、見ていていい気がするものじゃない。


 すっかり居心地がわるくなってしまった。


 これを機に、辞める? 考えなかったわけじゃない。後輩が時たま見せる、勝ち誇ったような顔に耐えるのにも嫌気がさす。


 だけど。

 こんなことで辞めるなんて、悔しい。だってどれだけのことにこれまで耐えてきた? こんな仕事に関係のないことで辞めるだなんて絶対に嫌だ。だったら開き直って、仕事に打ち込もう、そう決意した。


「……そ。だっておもしろいじゃん。王子に勝てるなんて」


「ぶは! あんたほんっと最低よね」


 休憩室のドアをもう少し防音仕様に替えてほしいとよく思う。


 繰り広げられていた会話。ひとりは間違いなく柚木崎先輩の声だった。立ち聞きなんて悪趣味だとは思うけど、聞かずにいられなかった。


「つまりはなに、はじめから王子から奪うつもりで付き合ったの?」


「いや人聞き悪いすよ。あっちから付き合ってほしいって言ってきたんだよ?」


 私との話だ、とすぐにわかった。


「自分が気に入られて優遇されてんの全然気づいてないんだもん。王子も片思いなんて憐れだから。さっさと縁談に踏み切れるように俺が協力してやったって感じじゃん」


 感謝してほしーくらいよ。と。


「にしても知った時の王子の顔よね。ショック丸出し。あれが拝めただけでもあの子には感謝だわ」


 くふふふ。今でも笑える。


「あんたほんとクズ」

「あざす」


 聞かなければよかった、と思ってももう遅い。私は、どうしてこんなひとと付き合っていたんだろう。


 早くいなくなればいいのに。


 一瞬黒くなりかけた心を慌てて取り戻した。ちがう。私はこの人たちとはちがう。


「でも結果的には王子も無事に縁談受けたみたいだしよかったじゃないすか。話聞いたらあの子も王子とそんなん畏れ多いみたいだったしね」


「だからって用が済んだらポイはひどい」


「は。いいっしょ。お互いそろそろ飽きてたもん。ここらで若い子にチェンジよ」


 心の中は、もはや『無』だった。


 恋愛なんて、もういい。ちゃんと仕事と向き合おう。ケーキを、お菓子を、真剣に作ろう。私はそのためにここにいるんだから。


 それからは、無心で働いた。正確さとスピードの追求。周りをよく見て、足りていないところのサポート。整頓。清掃。気の利いた声掛け。


 おかげで少しずついろいろなことを任せてもらえるようになってきた。


「いちごちゃん」

「いちごさん」

「いちご先輩」


 呼ばれ方も、いつの間にかこんなふうに砕けて。そうするうちに、後輩がまた増えて。


 気がつけば、柚木崎先輩と後輩の子は、揃って退社をしていた。


「なんか地元のケーキ屋に二人で移ったらしいよ」

「そうそう。パティシエと販売員でね」


 ふうん。と思っただけだった。



「ありがとう沢口さん。さすがの出来だね」


 私が絞ったクリームを惚れ惚れ眺めて大きな笑顔を向けてくれるのは。相変わらずの王子様。


「いえ。まだまだです」

「はは。謙虚だね」


 ホットミルクを作ってくれたあの日以来、とくに進展はない。というか、私がもう恋愛モードじゃなくなってしまったから。前みたいに過剰に反応することもなくなっていた。


 そういえば縁談の話が結局どうなったのかは未だにわからないままだった。けれど結婚の報告などは特になく、今やそのことはすっかり忘れ去られた雰囲気だった。


「もっと自信持ってもいいのに」

「いえ。満足したら終わりですから」

「はは。参ったね」


 この笑顔は未だに素敵だなとは思う。だけどそれはもう以前のような恋愛感情じゃない。言うなれば『憧れ』みたいなものに近い。


 やっと吹っ切れた。そう思った矢先だった。



「みなさん。昨日父から正式に跡継ぎの話があって。これからはそちらに時間を割くことになるので今後しばらくの間、本店ここに来るのは月に一、二度くらいになりそうです」


 ある日の朝礼。まさかのことだった。


 稲塚さんがいなくなる。

 考えてもみないことだった。








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