第9話 ホットミルクは甘すぎる
わけがわからない私に「これを」とカバンを差し出してくれた。忘れたはずの私のカバン。
「……どうして」
訊ねると、優しく微笑んだ。
「店に施錠をしようと思ったら、微かにスマホの振動音が聴こえて。探したら、沢口さんのロッカーからみたいで」
スペアキーで勝手に開けてしまいました。ごめん。と謝った。
「と……とんでもないです。あ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げると、「いや」と言われて。それからは沈黙になってしまった。
どうしよう。さすがにあんなことを稲塚さんに話すわけにはいかない。だけどこのまま帰ってもらうのも、失礼なのかな……?
「……訊ねないほうがいい?」
稲塚さんはなにかを察したみたいにそう言ってきた。ああ、なんて大人な対応。
「…………お仕事とは、関係ないので」
申し訳ないです、と俯く。すると。
「少し、歩きませんか」
そんな提案をされてしまった。
「……え、と」
私が困ると、「ね。少しだけ」と跪くようにして優しく手を差し伸べた。
ほ、本物の王子様だ。
「はい……」
口が勝手に答えたみたいだった。
冷え切った私の手を差し伸べられたそこに載せると、「寒かったね」と王子様は微笑んだ。目の奥がじんと痛んだ。
初めて握る稲塚さんの手は、大きくて、分厚くて、暖かかった。どうしてか少し懐かしい気持ちになった。優しさがじんわり沁みた。
また散歩かな、と思っていたら職場に戻ってきただけだった。
「誰もいないから安心して」
たしかに中は真っ暗。稲塚さんが電気を点けると、見慣れたいつもの景色が見えた。
なにをするのかな、と思いながらあとに続いていくと、丸椅子を二脚取り出して作業台のところに置く。
「どうぞ」
「あ……すみません」
こういうことは私がすべきなのに、と咄嗟に謝ると「いいんだよ」と。
「今日は沢口さんがお客様だからね」
どきん。久しぶりに心臓が跳ねた。まだ幻の中なのかもしれない。
「え、稲塚さん……?」
小鍋を取り出して牛乳を注ぐ。少しの生クリームを足して、火にかけ、木べらでゆっくりとかきまぜる。
乳成分の甘い香りが漂い始めた。
鍋の縁がふつふつとし始めたら火を止めて、蜂蜜を少々。それから「仕上げに」と洋酒を取り出した。
目分量でほんの数滴。それだけで驚くほどによい香りが立つ。
「マグがあるんだ。知らないでしょ」
いたずらっぽく笑うと、売り場の戸棚からコロンと可愛らしい形の茶色のマグを二つ持ってきて注いだ。
「はいどうぞ」
あまりに手際よく進んでゆく作業に唖然としていたら、いつの間にか目の前にマグが置かれていた。
ふわん、と甘い香りが立ちのぼる、真っ白いミルク。
特製のホットミルクだった。
「冷めないうちに」
「は、はい……いただきます」
こっくり、濃くて、優しく甘い。数滴だけの洋酒が効いて、抜ける香り華やか。幼い頃の眠れない夜に飲ませてもらったものによく似ている気がして、懐かしい。
「……美味しい」
じいん、と、沁みた。
「それはよかった」
稲塚さんは自分の分を少しだけ口に含むと、うん、と頷いて器具の片付けに戻ってしまった。
訊かないんだな。
ホットミルクは冷えた身体だけでなく、心の底まで温めてくれるような気がした。
からになったマグを持って洗い場の稲塚さんのもとへ行く。「ごちそうさまでした。あの、代わります」
さすがに稲塚さんに自分が使ったものまで洗っていただくわけにはいかない。
すると「今日は甘えて」と。そんなことを言われてしまって。いよいよどうしていいのかわからない。
「あの……でも」
「それかして。すぐ片付けるから、少し待ってて。座って」
逆らうのも違う気がして、大人しく椅子に戻る。稲塚さんが洗い物をしているところなんて、初めて見た……。
思うのと同時に自分がなんて恐ろしいことをしているのか、と居ても立ってもいられなくなる。
「あの。やっぱり」「もう終わったよ」
「…………へ」
凄腕シェフは洗い物を片付ける手際もとてもいいらしい。普段やらないのになんで?
「遅くなったね。送るよ」
もはや抵抗もなにもなかった。
この幻みたいな時間に、ただ癒されよう。
たとえ本当に幻だとしても。
【別れる?】
届いていたのは簡単な文面だった。
ちなみに稲塚さんが聴いたらしい着信は該当者からではなかった。
【別れてください】
先輩と過ごした時間は、苦痛だったわけじゃない。ちゃんと楽しめたし、デートだって嫌々行っていたわけじゃない。どんな服で行こうかと毎回ちゃんと考えたし、少しでもかわいくなろうとメイク道具を新調したりもした。
だけど。
──浮気じゃないですよね?
──だったら怒る?
──そりゃ怒りますよ。
──ほう。なんで?
──だって私たち…………付き合ってるじゃないですか。
あの時、「好きだから」という言葉がどうしても出てこなかった。
どうしてなのか、わかってる。
だって私は、あの人のことをほんとうは好きになっていなかったから。
涙はもう出なかった。
朝までよく眠れたのはたぶん、稲塚さんのホットミルクのおかげだ。
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