第8話 その信頼は甘すぎる


 先輩とのお付き合いは平和で順調だった。パティシエらしく都内のケーキ屋巡りをしたり、時に普通のカップルらしく買い物や映画鑑賞といったデートもした。


 もちろん職場でも私たちのことはすぐに知られて……というか前から毎日一緒に帰ったりしてたもんね。「やっとなの?」とか「まだ付き合ってなかったんだ?」という反応をされた。


 そしていつも言われるのは「お似合い」という言葉。嬉しいような、くすぐったいような。


「先輩、手、痛そうですね」

「ああこれね。痛てーよ本気で。見て、血」


 職場では衛生手袋をつけるけど洗い場ではほとんど意味をなさない。むしろ手袋の中にまで洗剤液が侵入してきて手指の荒れを更に悪化させる。


 洗い場歴が長かった柚木崎先輩の手はもうボロボロだった。


「前に未村さんに勧められて病院行ったんだけど。『治すには辞めるしかない』って」


 は。と軽く笑った。


「べつにもう慣れて気にもなんないわ。感覚がイカレてんだろーね」


 言ってまた笑うから、そっとその手に触れた。


「なに」

「……なんとなく、です」


 すると、ふ、と笑って……キスをされた。


「な、な……」

 驚きすぎて言葉が出なかった。先輩は照れた様子もなくまた「はは」と軽く笑って言う。


「なんとなくだよ」


 好き、かどうか。考える必要なんてないのかもしれない。


 ──お似合い。


 そうなんだよ。

 庶民は庶民らしく。

 身の丈に合った恋をしよう。




「じゃあ俺の将来のこと教えるよ」


 ある秋の日のデート。ファストフード店のガラスに面したカウンター席で先輩は唐突にそう切り出した。


「地元でさ。昔バイトしてた店。そこそこデカいんだけど。戻って来ないかって言われてんだよね。結構いい待遇で」


 へえ。地元……どこだっけ、と思っていると。


「……いちご、一緒くる?」


「え」


 え。え!

 いきなりそんなこと言われても!


「わ、私は……」

 いきなり辞める、なんてそんなの。


「は。さすがにいきなりすぎ……ん?」


 すると会話の途中で柚木崎先輩の目線が窓の外の一点に止まった。反射的に私も倣うと、あ。そこに見覚えのある人がいるのに気がついた。


「あれ、王子じゃん?」

「ですね」


 ガラスの向こう、太い道路の向かい岸に稲塚さんの姿があった。お店は定休日だから今日は稲塚さんも休みのはず。私用かな。


「隣、だれ?」

「さあ……」


 見たことのない女の人と一緒だった。まさか、彼女……それとも、まさか。


「婚約者とか。有り得るよね」

「な!」


 驚いて先輩を見ると「あれ、知らないの」と軽く言う。


「縁談、ついに受けたらしいじゃん。今まで頑なに拒んでたらしいのに」


 よっぽど条件がよかったのかね? まあ王子は歳も歳だしね?


 まったくの他人事という様子で語る先輩の横で、ものすごくショックを受けている自分にはっとした。


 や。私、なに?

 私は稲塚さんのなにでもないのに、勝手にこんなショックを受けるのなんておかしい。


 もう恋もしてないのに。

 もう好きじゃないのに。

 もうただの上司なのに。


「つか知ってる? 稲塚さんって下の名前、『ガトー』っていうらしいよ」


「えっ」


 目を見開いた。え、待って。それって。


みやびに、のぼるで『ガトー』。すげーよね。いかにも〈巨匠の息子〉って名前じゃん? プレッシャーえげつない。ま、一応表向きは『まさと』って読めるようにしてあるらしいけど」


 先輩の話は聴こえながらも右から左へ流れていく。



 ──『ガトー』って聞いて、なにか思い出さない?



 あの日、稲塚さんは私に一体なんの確認がしたかったんだろう。自分の名前を、どうして私が知っているかと思ったんだろ────「いちご」


 呼ばれてはっとすると、すぐ目の前に先輩の顔があって驚い──唇が触れた。


「はー。こんな油ぎった口でとか」


 自分からしておきながらそんなことを言ってくつくつと笑いだした。


「おまえ、あいつのこと本気で好きだったっしょ」

「えっ……そ、そんなわけ」


 否定するけど顔は勝手に熱くなる。キスのせいだけではなく。


「障壁は『格差』と、『年齢差』ってとこ? ……へーえ」


 なんて答えればいい? 困っていると、顔を覗きこまれた。迫る瞳からは逃れられない。


「今、俺の彼女だよね?」

「……はい」

「『うん』にして?」

「……う、ん」

「よそ見禁止ね」


 そんなことを言って更に熱いキスをしておきながら。


 この男はあっさり私を裏切った。



「ごめん。今日用事ある」


 始まりはそれだった。


 クリスマスを終えたばかりの年末。

 曜日は決まって月、木、土。「なんの用なんですか?」と訊ねてみても「ひみつ」と。


「浮気じゃないですよね?」


 訊ねてみると「はは」と笑って「だったら怒る?」とそんなことを言う。


「そりゃ怒りますよ」

「ほう。なんで?」


 え。この人なに。そう思い始めたらもう疑いは濃い。


「当たり前じゃないですか、だって私たち」

「俺たち?」

「…………付き合ってるじゃないですか」


 言わされて恥ずかしくて顔を伏せると、先輩は「しょうがないな」と肩を抱いてきた。


「明日は一緒に帰ってやるよ」


 嬉しい、とはもちろん違って。そこにあるのはなんだか落ち着かない感覚だけだった。


 ああ、たぶん、浮気、されてる。


 直感で思った。



 一方で稲塚さんに対しては、もう前みたいに恋焦がれる存在とは思わなくなっていた。


 あの日稲塚さんと一緒にいたのはすごく綺麗な女の人だった。ちんちくりんで田舎育ちの私とは全然違って、年齢も、たぶん育ちも、私なんかと比べ物にならないくらいに彼にお似合いの人なんだと思う。


 どこからか「破談になったらしい」と聞いたこともあったけれど、また別のところからは「順調で挙式の日取りまで決まっている」とも聞いて真実は結局謎。謎だけどその話題には触れてはいけない、という暗黙のルールが徐々にできていった。


 勤務中の稲塚さんはとくに変わりなく、私にも、他の人にも、新人たちにも優しかった。


 その姿は、ああ、ほんとうに王子様だな、と今でも思う。


 だけど『王子様』なんてものは、おとぎ話の中のものだからね。


 身の程を知った、なんて言うのは悲しいけれど、早い話がそういうことだった。



 そんな日々の中で、ああ、ついに事件が起こってしまった。


 年明けすぐの冷える夜。退勤後、厨房の隅のゴミ箱に付いた汚れがふと気になって、きれいにしていたらいつもより遅くなってしまった。後輩ができてこういう掃除は任されなくなったけど、今でも気がついたら自分でやる習慣が身についていた。


 まあ今日は月曜日。柚木崎先輩は用事の日だから帰りはひとりだし気にすることはない。


 そう思いながらロッカーのある休憩室のドアを。



 開けた。



 まず目が合った。


 彼だ、と認識すると共に、閉めなきゃ! と気持ちが急く。


 でも手が震えて動かなかった。


 見たくないのに、目が離せなかった。


 相手の黒い瞳は、焦りの一切ない至って冷静なものだった。あれ、いたんだ。そんな声が聴こえそうなほど。



 柚木崎先輩が後輩の女の子とキスをしているところだった。



 そのまま走って逃げたから、カバンがないことに気がついたのはアパートの玄関でカギが必要になってからだった。


 途方に暮れて、エントランスのオートロックドアの前でしゃがみ込んだ。


 しゃがみ込んだら力が抜けて、寒さも手伝ってじんわりと涙が湧いた。


 なんだろう。この感情。嫉妬なんかじゃない。悲しみ、とも違う。


 ああ。そうだな。

 悔しいのかもしれない。



 どのくらいそのままでいただろう。すっかり冷えきった身体。手足の感覚はもうない。爪が紫色に見えた。お腹はすいていなかった。すいたことを感じなかった、が、たぶん正しい。


 目が霞むから、伏せて瞑った。このままここにいたら朝には死んでいるかもしれない。カバンもなにもないから私がどこの誰だかわからないかもな。お店のコック服着てるから、わかるか。お店に迷惑かけちゃうかな。驚くだろうな。


 そんな私を先輩は……「バカなやつ」って笑うのかな。あの子と一緒に────


 大きな人影が近づく気配がして、はっと顔を上げた。


 あれ。こんなこと前にも……?

 妙な既視感があった。


 だけどそれは、きっと幻。だってそんなことが起こるはずがないもん。これは絶対に、死ぬ前に見る幻だ。


「大丈夫ですか、沢口さん」


「…………いっ、稲塚さん?」


 目をどれだけしばたいても、幻は消えなかった。





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