第7話 先輩男子が甘すぎる
それから、とくに変化はない。どちらかと言えば私の方が彼から距離を取ってしまっているのかもしれない。
もうこれ以上、好きにならないように。こわかった。戻れなくなりそうで。彼と会うのまで辛くなったら同時に仕事もできなくなる。
それでも稲塚さんはみんなにするように私にもちゃんと優しかった。だけど、なにかを察したみたいに散歩には誘ってこなくなった。
少し、さみしいと思う私は、とても勝手。
道端でぎゅうと抱きしめられたあの感覚が、今でも忘れられない。お店のお菓子の甘い香りと、飲んでいたコーヒーのほろ苦い香り。混ざって溶けて、切ない、彼の匂い。
幻なんかじゃない。
だけど、幻にすることにした。
そうしないと、苦しくて仕方ないから。
「稲塚さんって、ご結婚はされてないんですよね?」
ある日勇敢な先輩がそう口火を切った。その手元には、ウエディング用の特注の焼き菓子。なるほど、話題を振るのにまたとないチャンスだったんだ。
一斉に全員の意識が先輩と稲塚さんに集まるのを感じた。
「ああ、独身ですよ」
「ご予定とかはないんですか?」
「うん。ないですね」
ふ、と微笑んだだけだった。
……え。会話終了? ああ、と残念がるような空気が一瞬漂って、やがて何事もなく通常の厨房に戻る。と。
「父から縁談の話はいくつもあるんですけどね。どれも……こんなこと言ったら失礼だけど、ピンと来なくて」
まさかの詳細情報に再び全員の意識が集まった。もちろん、私も。体全部を耳にしていた。
「わあ……。縁談ってことは、やっぱり業界内でってことですか?」
いいぞ。いけいけ。聴こえないはずのみんなの声が圧として聴こえる。
答えは「まあね」だけだった。こういうのは秘密事項なんだろう。
業界内、か。それこそ、ここに負けないくらいの規模のケーキ店の有名シェフの娘さん、とか? あるいは専門学校のお偉いさん関係者とか。
そりゃ、私たちも一応は『業界内』の人ではあるけれど。きっと全然ちがうんだ、『格』が。
やっぱりね。
やっぱり。
稲塚さんは私たちとは住む世界のちがう人。
もう諦めようよ。
どうしたらただの上司として見れるかな。
芸能人と思えば。
いっそ既婚者と思えば。
私に別で好きな人でもできれば。
「沢口さん、最近変わったよね」
そんな日々を送る中でそう言ってきたのは、いちばん歳の近いパティシエの男性、
「そう、ですか?」
「うん。明るくなった。なんか本来の沢口さんが出てきた感じ」
明るく……。そうかな。こんなもやもや過ごしているのに。でもこんな、誰かに恋愛感情を抱けるほど現場の空気はまともになったんだ。今までだったら考えられないことだったから。そして現場をそうしてくれたのはほかでもない、稲塚さんなんだ。全部が彼のおかげなんだ。
「稲塚さんのおかげかも、ですね」
「ああね。俺も王子には感謝しかないわ」
帰るとこ? なら一緒に。と珍しく誘われた。いつもなら「お先」ってすぐにひとりで帰ってしまうのに。一体どういう風の吹き回し?
「えっ、先輩……家こっちですっけ?」
「いや。送るよ」
うそ。と固まってしまった。
「……なに。たまには先輩らしくしてもいいでしょうがよ」
「あ、ありがとうございます」
なんの話をするのかな、と思ったら案外仕事の話ばかりだった。それはそうか。そんないきなりプライベートに踏み込まないよね。
「沢口さん、飾りまじ上手いよね。王子にもよく褒められてるし」
「や。そんな」
うう。この手の話題はあの一件以来、未だに苦手だった。また生意気と思われないか心配で途端に小さく縮んでしまう。
するとそんな私に柚木崎先輩は「俺も難しいんだけどさ」と何気なく言う。
「『嬉しいです』って、素直に笑って言えるようになりたいよね」
はっとしてその顔を見ると「なに」と見下ろされた。
「じゃあ練習しとくか。ほら、言ってみ? 『嬉しいです』って」
「そ、そんなこと……」
「いいから。早く」
促されて、仕方なく言う。
「う……嬉しいです」
「笑って」
「うっ、嬉しいです!」
無茶を言うから絶対変な顔になっていたと思う。すると柚木崎先輩は「ふ」と笑ってこんなことを言う。
「は。かわいすぎでしょ」
な!? と反応したかったけれど声が出なかった。恥ずかしくて。そして信じられなくて。
「行くよ」
呆然としているとそう手を引かれた。……って、手!?
「先輩、あのっ」
「家どれよ? アパート多いねこのへん」
「ま、まだもう少し先で……」
あ、あのあの、それよりも、手! 手繋いでます! 顔がもう熱くて大変だった。
慌てている私に気がつくと先輩は「ん、顔赤いよ?」とからかってこんなことを言う。
「沢口さん、おもしろいね」
くく、と笑うとすんなり手を離してくれた。途端に少し肌寒い春の夜。
「もうこの近く?」
訊ねられて、こくりと返す。すると「そっか。それじゃあ気をつけて」と案外あっさり手を振った。
てっきり家まで、なんなら部屋番号まで知られてしまうと思っていたからなんだか拍子抜けだった。
だけどそれから、柚木崎先輩の私への態度は明らかに変わった。
先輩が言う「最近変わった」のは私よりもむしろ先輩の方だと思う。
「休憩一緒いい?」
「メシなに。弁当派?」
「お。俺も今あがり。帰ろうぜ」
そうして、気づけばほとんど毎日先輩と一緒に帰るようになっていた。
「いちごはさ」
呼び方も、いつの間にか名前になっていて。
「はい」
こちらの敬語はもちろんそのままですが。
「この先のこと考えたりしてる?」
「え」
それでもお互いのこんな踏み込んだ話まで平気でするほど心を許す存在にはなっていた。
「まさかずっとあの店にはいないでしょ?」
お店にはこの春新たに二名の新卒パティシエが入社。つまり私にとって初めての後輩ができた。稲塚さんからは『教育係』を任されて、仕事はますます忙しくなっていた。
稲塚さんが来てからもうすぐ一年。いろいろなことがずいぶん改善されたけれど、それでも辞めていく人は多い。それだけこの仕事は過酷なんだ。転職や、結婚を機に辞める人、身体を悪くする人もいる。リーダーをしていた未村先輩もついにこの春、べつのお店に移っていった。そしてそれを『息苦しくなくなった』と喜ぶ声も、嫌でも聴こえてきた。
「ここにいても、なかなか上へはあがっていけないからね」
「先輩もどこかへ移るんですか?」
見上げると「あれ、恋しい?」と調子づくから「あ、そんなんじゃないです」と急いで返す。
先輩は「ふ」と笑って、それから少し真面目な顔になると「まあいずれはね」とぬるい夜風の中で言う。
「今のあの店はもう昔とは違う。どう違うか、わかる?」
どうもなにも。
「私は昔を知らないですから」
「だよね」と言ってくつくつ笑いだした。もう。先輩って笑い所がよくわからない。すると「俺が新卒で入社した時はさ」と話し始めた。
「まだいたんだよ。『巨匠』が現場に」
あ。と目を見開いて止まった。
「二年目の途中でいなくなったけどね」
そう話す柚木崎先輩は今年で五年目。
「そっから未村さんが仕切り始めて、以来ずっと洗い場よ。まあ途中から計量とかもさせてはくれたけど、こっちとしては詐欺じゃん、って思ったよね。巨匠の店で、巨匠から学べると思って入社したんだから」
笑いつつ「はーあ」と夏の星座を見上げた。「正直、かなりの年月無駄にしたよね」
そんな笑って言う話かな。と思うけれど、この人にとったら笑えることなのかもな、とも思う。
「王子が来て、仕事をいろいろ回してもらえるのはほんとよかったけど。それでも巨匠がいた頃みたいに立て直るわけじゃない。パティシエとして腕を上げたいならこんな廃墟さっさと棄てて他の店に移る方が早いっしょ」
廃墟は言い過ぎでは。
だけど二年目になるともうそんなことまで考えないといけないんだ。今まではとにかく日々に耐えることで必死だったけど。
「今はまだ『有名店』として稲塚ブランドは生きてるから、その本店での勤務は経歴としては悪くない。だから移る気があるのなら早いとこ次を考えないと」
「先輩は……どうするんですか?」
訊ねてほしいのかな、と思って訊ねたのに、「ふ」と笑われた。「教えない」
「え」
なに。なんで?
「手の内は明かさない。彼女にでもなってくれるんならまあ話はべつだけど」
…………へ。
「ぶは! 冗談だよ」
ひとしきり笑うと「さ、行くよ」と先へ進む。
「どうせおまえも王子ひとすじなんでしょ。そういう意味でもほんとつまんねー職場だよ」
その後ろ姿が、妙に寂しげで。毎日なんとなく楽しく一緒に帰った日々の記憶が甦って。
「先輩」
「……は?」
稲塚さんを忘れるため、じゃない、とは言い切れないけれど。それでも私は、ちゃんと目の前のこの人のことを見ていた。
「べつに、いいですよ」
好きかどうかは、正直まだよくわからない。けど少なくとも嫌いではなかったから。
だけど。
「は。いいの? あんなに溺愛されてんのに」
そんな驚くべきことを言われてしまった。
「えっ、そんなことないですよ!」
どきりとしながら返す。すると柚木崎先輩は「憐れな王子」と愉快そうにくつくつ笑った。
「でもま。それもおもしろいかもね」
そうひとりで納得すると、「じゃあよろしく」と手を差し伸べてきた。
そっと、その手を握る。かさかさで、ささくれと赤切れがたくさんある、私とよく似た手だった。
その瞬間、ああ、そうだよね。と妙に納得した。
雲の上の存在の稲塚さんを追って痛い目をみるよりも、同じ苦労を味わっている同志の柚木崎先輩とのほうが私には合ってる。
変に気を使うこともない。背伸びもしなくていい。そのままでいられる。だから気持ちもきっとラクだ。きっとそうだ。
そうだよね?
初夏の夜は気温はいいけどじめじめと湿度は高かった。
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