第6話 微糖のくせに甘すぎる
それからの私は、どうにもおかしくなってしまったみたいで。
勤務中も退勤後も、稲塚さんのことばかりを考えてしまうようになっていた。
どこに住んでいるのか。どんな暮らしをしているのか。オーナーシェフの息子さんだから、もしや豪邸暮らしなのかもしれない。や、だけどさすがにひとり暮らしか。
ネットで彼のお父さんであるオーナーシェフの公式プロフィールを見ると年齢は75歳だった。その息子さん……ということは、やっぱり40歳は超えているのかな。ひとり息子なのか、ほかにきょうだいはいないのか。どんな人生を歩んできたのか。
想像するほど、庶民でヒヨっ子の自分とあまりにかけ離れていることがわかるばかりで虚しくなった。
だけどどうしてそんな雲の上の存在のような人が、地底にいる私なんかに構ってくれるのか。
──いちごちゃん。
親しく呼んでくれるのか。
嬉しい反面、恐ろしくもあった。なにか裏があるんじゃないか。だけど私は、とくに思い当たるものはなにも持ってなんかない。笑顔でさえもついこの間まで忘れていたくらいなんだから。
「使う粉の種類、変えてみようか」
「原因は温度でしょ。最近急に気温が低くなったから」
「卵の仕入先が変わったからね。色味が少し薄くなったんだ。問題ないですよ」
「もっと優しく混ぜてあげて。気泡をなるべくたくさん残すように」
稲塚さんはパティシエとしての実力もすごかった。〈巨匠の息子〉という重い看板を背負っていながらここまで登り詰めるのはたぶん並大抵の努力では済まなかっただろう。
まだ駆け出しの私なんかとは、やっぱり全然ちがう。そもそも、住む世界がちがうんだ。
そう自分に言い聞かせるけど、目は彼を追ってしまう。呼ばれると耳が喜ぶ。笑いかけられると胸が踊る。どんなに仕事が辛くても、身体が疲れていても、彼が職場にいると思うだけで出勤できた。気づけば頭痛もしなくなっていた。
だけどそんな人は、私以外にもたくさんいた。
「稲塚さん、いいよね」
「褒められるとね」
「惚れますよね」
「って、あんた男じゃん!」
「ははん。男でもっすよ」
当然だよね。だって彼はみんなの王子様なんだもん。
ああ、切ないな。
届かない恋なんか、しない方がいい。
傷つくだけだもん。
それなのに。
「あ、沢口さん」
どうして。
「散歩に行かない?」
「あ……はい!」
外は前に散歩をした日よりもずっと寒さが厳しくなっていた。それもそう。壮絶なクリスマスの日々を越えたばかりだから。
「クリスマス、お疲れ様でした。沢口さん大活躍だったね」
うん。これもきっとみんなに言ってることだ。
「い、いえ。足でまといにならないようにって、ただ必死で」
それと目立ちすぎないように、生意気に思われないように。とにかく先輩たちに嫌われないように必死だった。
稲塚さんは「そう」と微笑んでから大きく頷いた。「無事に越えられてよかったよ」
「年末は帰省するの?」
「あ、いえ。予定はないです」
お母さんからは「どうしてよ?」と嘆かれたけど、帰るのはまだな気がしていた。まだ、『自慢の娘』になれてない。
「ご両親はお元気?」
「あ、はい。元気です」
「よかった」
すると稲塚さんはいきなり「ああ」と声を漏らす。なにかと思ってその顔を見上げた。
「コーヒーでもご馳走したいと思ったんだけど、この辺は全然お店がないんだね。ごめん、そこの自販機でもいいかな」
「……や! わ、わるいです!」
いきなりなんてことを言うのか!
心臓が止まるよっ!
稲塚さんは時々、何を考えているのかよくわからない。だって、どうして私なんかにコーヒーを?
「遠慮しないで。あ、そもそもコーヒー飲める? 無理しないでね、なんでもいいよ」
微笑まれると、私は弱い。というか王子様からのご厚意を断ることなんて絶対に有り得ない。
「す、すみません、ありがとうございます……」
「なにがいい? いろいろあるけど」
「あ……じゃあ微糖のコーヒーで」
「お。僕も微糖が好きだよ」
もう、いちいちドキドキさせないでください!
近くのベンチに座って、はい。と手渡された缶コーヒーは、ほかほか温かで。冷え切った私の手にじんわり温度を与えてくれる。
少し、赤切れに滲みるくらいに。
「……稲塚さん」
「ん?」
こんなこと言ったら、嫌な気持ちにさせてしまうかな。だけど、このままじゃ私。
きっと止められなくなるから。
「やっぱりこういうの、よくないです。みなさんに、悪いです……」
クリスマスにがんばったのは、私だけじゃない。
稲塚さんのことが好きなのは、私だけじゃない。
稲塚さんは私から目線を外して真冬の星空の果てを見上げると、手元の缶コーヒーにその視線を落として、ぐい、と飲んだ。
動いたのどぼとけに、またドキドキしてしまって。そんな自分が嫌になる。
少し黙って、そして改めてこちらを見た。
目が合う。どきん、と、もう胸が苦しい。
「嫌だったかな」
そんなこと、訊かないで。
「そうじゃないです、けど」
もう目は見られない。
真実を悟られたくないから。
独り占めしちゃ、わるいから。
あなたはみんなの王子様だから。
少しの間、会話はなく。風もない冷えた空気の中で、ただ細かに瞬く星たちに見下ろされながら並んで座っていた。「飲んでね」と促されて、私もコーヒーの缶をそっと唇に当てる。
甘くて苦い、微糖の味。微糖と言う割に、結構甘い。あたたかな温度が、唇から全身に染みてゆく。
「家まで送るよ」
飲み終えると稲塚さんはそう言ってまた微笑んだ。今度はすんなりお礼を言う。すると相手はどこか寂しげにその目を細めた、ような気がした。
またしても会話はほぼない。やっぱり嫌な気分にさせてしまったかな。なにか話すべきか。だけど、私から話しかけていいものか。
「あ……その、コーヒーご馳走様でした」
ぺこり、というよりぶん、ぶん、という感じで何度かお辞儀をしてお礼を言う。
「美味しかったです。すごく温まりました」
ちゃんと笑えているかな。わからない。
すると私のすぐ隣を一台のバイクが通りかかった。と────「危ない」
瞬間のことだった。稲塚さんに手を引かれたかと思うと、大きな身体に────
えっ……?
あまりに驚いて全身が硬直した。だって、私。
稲塚さんに、包み込まれてます!?
バイクはとっくに過ぎ去った。なのに。
「あ、の、稲塚さん……?」
声をかけるとようやく「ああ……ごめん」と優しく腕を解いてくれた。
え。なに、これ。少女漫画?
周りの音が聞こえないくらいに心臓がうるさい。頬がかんかんに熱い。さっきの缶コーヒーよりずっと熱いと思う。
「行こうか」
「…………はい」
何事もなく、また歩き出す。
幻みたいな夜だった。
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