第5話 夜の散歩は甘すぎる


「仕事は慣れた?」


 こっち、と手招きされてアパートと反対の方向に歩き始めた。空はもう暗く、星が出ていた。


「あ……はい」


 真夏だと思っていた気候はいつの間にか秋もとっくに深まっていたらしい。虫が美しく鳴いていた。この仕事を始めてから季節の変化がさっぱりわからなくなった。


つらいことはない?」

「な……ないです、全然」

「ほんとうに?」

「あ、あの」


 思わず立ち止まると、稲塚さんも合わせて止まった。すらりと高い背は、お父さんと同じくらいかもな。


「あ、今日はその、ありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げると「いや」と笑われた。


「僕はああいうの許せないんだよ。人の悪意もそう。防げたものを見過ごす行為もそう。若手が黙ってる時代なんかとっくに終わってる。実力があるんだから仕事を回されて当然だ。長くいるからって中身がないんじゃ話にならない……って、はは。ごめん、つい熱くなった」


「い、いえ。素敵な考えだと思います」


 答えると「ふ」と笑った。

「受け売りだけどね」


 つまり誰かが言っていたこと、ということ。一番に浮かぶのは稲塚さんのお父さんである巨匠の顔だった。


「オーナーシェフもそういうお考えだったんですか」


 訊ねてみるとキョトンとするからこちらもそっくりの顔を返した。するとその顔を見て稲塚さんが「ぶは」と噴いて笑った。


 大きく笑ってから、まだくつくつと肩を揺らして笑っている。そ、そんなに笑っていただかなくても。それにしてもなんてまぶしい笑顔!? これはほんとうに王子様だ。


「ごめん、あんまりにかわいくて」


 ……かっ!?


 途端に全身が沸騰するような感覚に襲われてどうしようもなくなった。穴という穴からしゅーっと煙が立ったと思う。


「あ、ああ、ちがうんだ。いや、違うわけじゃないけど。変な意味じゃなくて」


「い……いえ。えっと、嬉しい、です」


 照れくさくてはにかんだ。すると稲塚さんは優しく微笑んで「その顔」と言う。


「そういう嬉しそうな顔がもっと見たいよ」


 恥ずかしくなって俯くと稲塚さんは言う。


「うちの店はみんな怖い顔して働いてるでしょう。こんな」


 見上げたら眉間のシワがどこの谷間よりも深くて夜の暗さも手伝ってかなりの迫力だった。うああ。こ、これじゃ王子様というより悪役です……。


「……ぶっははは!」


 先に稲塚さんが笑いだした。キラキラ、とエフェクトがかかって見える。ああ、やっぱり王子様だった。


 つられて私も少しだけ笑った。あれ、笑うのなんて何ヵ月ぶり? すっかり頬の筋肉が衰えている気がした。


 稲塚さんはそんな私の硬い笑顔を見て「行こうか」と優しく促した。


 道端では銀色のススキが空へ伸びていた。その先には半月が白く光る。


「突然誘って、迷惑じゃなかったかな」


 思いもしない問いに大きく首を横に振った。


「少しでも気晴らしになれば、なんて思ったんだけど、考えてみたら僕は上司だもんね。余計なストレスにならないとも限らないね」


「いえ、あの……楽しい、です」

「あはは。気を遣わないでいいよ」


 さすがに楽しくはないでしょう? と顔を覗き込まれてまた熱い。涼しい秋のはずなのに。


「気晴らしがしたかったのは、僕の方かもしれない」


 え……。と見上げると月明かりのもとでまた優しく微笑んだ。


「さっきの電話。沢口さんにも聴こえていたでしょう。父から縁談の話が最近本当に多いんだ」


「受けないんですか……?」


 訊ねると弱く手を振った。


「稲塚さんって」

 おいくつなんですか、と訊きたかったのだけど。


「あのさ」


 声が重なった。更に思いもしない質問をされてしまって。


「沢口さん、『ガトー』って聞いて、なにか思い出さない?」


 瞬間、脳裏になにかが掠めた、気がした。だけどそれは全くうまく掴めなくて、すぐに記憶の彼方へと飛び去って消えてしまった。


「ガトー……?」


 ガトーと言えば、フランス語でお菓子のこと。だったら製菓関係のなにかのことなのかな。


 わからずに困っていると「ああ、いいんだ、ありがとう」とお礼を言われてしまった。「……な、なんですか?」


 訊ねても「なんでもないよ」としか答えてはくれない。「変なこと訊いてごめん。気にしないで」そう言われてしまい深掘りすることは叶わなかった。


 進んだ先にあった河原に着くと、少しだけその黒い流れを眺めて、乾いた秋風をふわりと浴びた。河辺の銀のススキが澄んだ風に流れて揺れる。虫がやたら元気に鳴いていた。


 稲塚さんが黙るから、私も一緒に静かに過ごした。


 そっとその横顔を盗み見てみる。


 川面を見つめる眼差しは、いつもの優しさを残しつつ、少し寂しげで、だけど凛々しくて……「ぅあっ」


 しまった、つい見すぎて気づかれたっ!


「す、すすすみませんっ!」

 目が合って、かあっと頭に血が上る感覚。あ、熱い。どうしよ。


 稲塚さんは「いや、僕の方こそ黙ってしまってごめん」と謝ると「冷えてきたね」と私が思う反対のことを言う。


「戻ろうか」と来た道を引き返すことにした。


「さっき、なにを言いかけたの?」


 訊ねられて「えっ」と戸惑う。なんだったか、と記憶を辿ると、たぶん年齢を訊きたかったんだ、と気がついた。だけど、改めて思うとそんなことを訊ねるのは失礼かな、と心配になって口ごもる。


「ええと……」


「じゃあ僕から話そうかな」


 ああ、本当に優しい人だな。

 その顔を見上げると再び目が合った。メガネの奥の優しい瞳にどきん、とまた心臓が跳ねる。


「僕にはパティシエの恩師みたいな人がいるんだ」


「恩師……?」


 繰り返すと「そう」と頷いた。


「さっきの『受け売り』は、その人からのものだよ」


「オーナーシェフじゃなかったんですね」


 私が言うと稲塚さんは「ないない」と笑った。


「父とはほとんど同じ職場にいたことがなかったから。じかになにかを教えてもらったこともほぼないんだ」


「そうなんですね……」

 息子、なのに?


「だから僕が尊敬してるのは父よりも、その恩師の方なんだよね。こんなことを言ったらその人は怒るだろうけどね」


「恩師……いいですね、そういうの」


 単純に憧れた。私の見てきた先輩たちの中には恩師になるような人はいたかな。うーん……。


 蹴落とし合い、隙があれば相手を陥れ、影で罵り、嫌がらせを……。あうう。


「なかなかいないよ。そういう人って」


 稲塚さんは私の心を読んでかそんなことを言って笑った。


「だから大切なんだ」


 そして少し改まったようにこちらを向いてこんなことを言う。


「沢口さん、また一緒に散歩してくれないかな」


「えっ」


 どうして、なんだろう。この王子様は。


「迷惑でなければ」

「…………は、はい。もちろん。あでも」



 ──ここで長く働きたいならあんま贔屓ひいきされない方が身のためだよ。



 先輩の言葉が、こんなところで甦った。


「あの……。ええと、わ、私ばっかり、あんまり、その……よくしないでください」


「え?」


 ふわり、秋風がぬける。どこかでまた虫の声がさわぐ。


「いろいろ、思う人もいると思うので……」


 ああ、私、バカ。せっかく誘ってくれたのに。せっかく仲良くなれるチャンスかもしれないのに。


 ん。仲良く……? まさか。そんなこと思っていい相手じゃない。私なんかにおいそれと手の届く相手じゃ。


 すると稲塚さんは「はは」と少し笑って「そうか、それなら」と夜空を見上げてからその視線をゆっくりこちらへ下ろした。


「二人だけの秘密だね」


 またどきん、と心臓が跳ねた。顔が赤くなっているのか、地にちゃんと足が着いているのか、もうよくわからない。


 だってこんなの────妄想だ。


 そうだよ、こんなのってない。

 ああ、そうか私、ついに変になったんだ。ストレスで見る、幻覚。きっとそれだ。間違いない。じきに視界がぐんにゃり曲がって、はっと目を覚ましたら自宅のベッドかどこかの床にいるはずだ。


 絶対そう。そうでしょう?


「沢口さん?」

「あ……はいっ」


 そこは変わらず、稲塚さんの隣だった。地面に足はちゃんと着いていて、ちゃんとさっきの続きだった。


 妄想……じゃない?

 じゃあ一体、これはなに?


「あ、あのっ、なんでそんなに私のこと……構うんですか?」


 思わず訊ねると、稲塚さんはキョトンと私を見下ろしてから、ふ、と素敵に笑った。


「あれ。そう見えた? 結構他の人にも気を配ってるつもりなんだけど」


 それはたしかに。でもそれは勤務中の話ですよね? まさか順番にこんな散歩に誘ってるわけがないでしょう?


「いえ……えっと、でも」


 いや、でもこの人に限っては、それも有り得る……? 


 だって、王子様だから。


 王子様はみんなに平等のはずだから。


「まあ……そうだね。沢口さんは、特別だから」


「…………へ」


 ふんわり、優しい秋風が火照る私の頬を撫でていく。


「いちごちゃんは、特別なんだ」


 なんで……?


 稲塚さんは微笑んで、立ち止まってしまっていた私を「行こうか」と促した。






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