第4話 お咎めなしは甘すぎる


 数日が経ち、稲塚さんの存在にも全員が慣れ始めて彼を悪く言う人は今やほとんどいなくなっていた。


 そして今度は、なんとか彼に気に入られようとする動きが見られるようにもなってきた。権力を前にした人間の行動は、単純で醜い。


「スーシェフ、ここ見ていただけますか?」

「場所空けてあります! 準備もできてます」

「昨日稲塚さんに言ってもらったこと、早速実践してて。すごくいい感じです」


 そりゃみんな、褒められたいし、いい仕事がほしいから。



「沢口さん、飾り上手くなってきたね」

「ほ、本当ですか!?」

「ほんとほんと。バランスがいい。はは。僕よりセンスあるよ」


 それは、そんな中でこんなべた褒めをいただいてしまったあとのことだった。


「追加のフルーツデコ、飾り一台やってみてくれる?」


「えっ…………はいっ!」


 デコレーションケーキの飾りを下っ端の私がやらせてもらえる。そんなまさかのこと。夢みたいだった。


 このお店のフルーツデコは使用するフルーツの種類と量は決まっているものの、その配置は自由。カットの形も必要に応じて変更可能となっている。


 つまりモロにセンスが問われる、というわけ。緊張……。だけど、大丈夫。落ち着いて。とにかく指定のフルーツを揃えてナイフでカットを始めた。


 さて、まずはイチゴだよね。用意した二粒。断面を見せるようにして飾ろうと半割れにした。一粒はヘタを取って、もう一粒はヘタ付きのまま。


 先輩たちがチラチラと見てくる気がする。うう。早くしないと。


 オレンジは皮を除いてくし切り。ペーパーで水分を取って……よし。次はキウイフルーツ。皮の細かな毛や硬い芯が残らないように注意して。


 いちばんのキモは薄く飾り切りをするリンゴ。これが下手だとケーキ全体が不格好に見えてしまう。慎重に、薄く。透けるように、均等に。……ふう。


 あとはラズベリーとブルーベリーを用意して。飾りチョコと飾り葉の準備もできた。


 ではいざ。美しく絞られた白いクリームの輪の中へ、カットしたフルーツを手際よく盛り付けていく。彩り、バランス。うん。おかしな所はない。はず。


 コンロにツヤ出しの透明ジャムを取りに行くとグツグツと沸騰していて慌てて火を止めた。え、こんなに強火にしてた? まさか誰かが……いや。そんなこと思っちゃだめだ。


 幸い焦げたり変色したりということはなかったのでよくかき混ぜて冷まして使った。冷めれば粘度が増すはずだから。うーん、やっぱり少し付きが薄くなったかも。もう少し冷まさないと……。


「ね、ツヤ出し終わった?」

「あ……、はい!」


 先輩に取られてしまった、なんて言い方はよくないよね。私みたいな下っ端が長い時間使えないのは仕方ない。


 チョコと葉っぱを飾って、とにかく仕上がった。よし。そっと持ち上げて稲塚さんのもとへ見せに行くと「うん。いいよ」とOKがもらえた。やった。


「ツヤ出しだけ上手く付いてないところがあるから。少し足してください。そしたら店に出していいよ」


「はいっ!」


 嬉しくてスキップでもしそうだった。だってこんなこと初めてで。私が飾ったデコレーションケーキがお店に並ぶなんて。そんなの何年も先のことだと思っていたから。


 嬉しい。嬉しい。これまで辛かった報いかな。これからは戦力になれるかな。その時だった。「あごめん」


 バスケの試合? そのくらいの衝撃だった。手から、ホールケーキが叩きが落とされるような感覚。弾かれた手は衝撃でびりびり痺れていた。ケーキは……床で無惨に潰れていた。ブルーベリーの粒がころころん、と作業台の下へと転がっていく。


 振り返ると洗い物をたくさん抱えた先輩が「あー、ごめんね」と片手間に言ってきた。


「見えなかったわ」


 うそだ。見えてないはずがない。こんな的確にケーキだけを狙ってきておいて。


「あーあ。邪魔んなるからさっさと片付けてね?」


 別の先輩が言う。「うわ、もったいないー」とまた別の先輩が。そして。


「ていうか沢口さん。飾りとかの確認はケーキを移動するんじゃなくて自分で誰かを呼びに行かないと」


 そう言うのは前まで現場を仕切っていた未村先輩だった。たしかにその通りだ。慌ただしい環境。ぶつかるリスクを思えばケーキを持ってふらふら動いていた自分の方が悪かったに決まっている。


 思わぬ正論に返す言葉が見つけられなかった。「すみませんでした」と頭を下げて、床の掃除にかかる。白い生クリームがべっとり。拭いても拭いても、べっとり。悲しいのと、虚しいのとで、泣けてきた。その時だった。


「あとは僕がやっときますよ」


「…………え!?」


 隣に屈んできた相手を確認して、尻もちをついた。まさかまさかの、稲塚さんだった。


「だ、だっ、大丈夫ですっ」


 私が答えるよりも先に「いえ私が」と何名もの先輩が寄ってきた。すると稲塚さんは、す、とその目を細めてゆっくりと立ち上がった。


「全員ケーキへの意識が低すぎる。当たっておいて『ああごめん』だけで済むのはおかしいでしょ」


 ね、と話を振られたのは先程私にぶつかってきた先輩だった。洗い場で濡らした手からぽたぽた雫を落としたまま、顔色をなくして直立していた。


「ここはプロが集まる職場のはずでしょう。幼稚なやっかみは見たくない。腹を立てるなら未熟な自分に立ててほしいね。潰れたケーキが邪魔になると思うならあなたも片付けを手伝えばどう。そしたら早く片付きますよ? それから彼女は慌ただしい現場に不慣れな新人だ。わかっているなら前もってケーキの扱いを教えておけばどうですか」


 ひとりひとりの目を順に見ながら、稲塚さんは話した。そして最後に私を見る。


「二度と同じことは起きない。起こさせないから」


 お咎め……なし?

 だけど未村さんの言うことは正しいから、覚えておいてね。と、優しくそれだけ言って「各自作業に戻って」と手を打ち鳴らした。



「な。あんたスーシェフとどういう関係?」


 退勤後にロッカーの前で訊いてきたのはいちばん歳の近い、柚木崎ゆきざきさんという男性の先輩だった。どうって……どうでもないはずですが。


「この前も帰り送ってもらってたっしょ? なんなの?」


「な、なんでもないですよ」

「なくないだろ。なに、付き合ってんの?」

「まさか!」


 そんなわけない。先輩もすぐに「なわけないか」と否定した。


「わかんないけど。ここで長く働きたいならあんま贔屓ひいきされない方が身のためだよ。この間の雑巾のことと言い、あんた悪目立ちしすぎ」


「そんなこと言われても」


 私はなにもしてないし、全部周りが勝手にしてきたことなのに。


「ま、雑巾は俺も去年までめちゃやられてたからね。あの人いなくなってくれてほんとよかったよ」

「そんな言い方……」

「なんで。ほんとにそうだろ? 死ねよってあんたも思わなかった?」

「お、思わないですよっ」

「は。うそばっか。ここに長くいるとさ、思考まで腐ってくんだよね。死ねよとか殺すとか、普通に思うもん」


 心の中だけなら、自由っしょ? と。


 悲しいけど、わかる話だった。そのくらいにここはどうかしている。人を歪める。こわいくらいに。


「俺なんてもう何人心の中で殺してきたか。でもさ、今度のスーシェフは……ちょっといいかもなって思ってるよ」


 やっぱりそうなんだ。たしかに稲塚さんが来てから厨房の空気が大きく変わった。悪い空気を生み出す人が格段に減ったんだ。そりゃ、まだ多少はいるにしても。


 『王子様』


 みんなに優しい。輪の中心の人。


「あんた、いい時に入社したかもね」


 ふ、と微笑んで柚木崎先輩は「お先」と休憩室を出ていった。



「不要です。というか店にまで電話してこないでくれませんか。迷惑ですから」


 帰り支度を済ませて最後に休憩室を出ると、がらんとした厨房の奥で電話をしている稲塚さんの姿が見えた。


 今日は助けてもらったのもあるし一応挨拶をしてから出ようかと思っていると、電話に応える声が聴こえてしまった。


「──今後もそう言ったは一切受けるつもりはありません。父さんからも断ってください」


 な、縁談……?

 『父さん』ということは電話の相手はオーナーシェフだ。そうか、巨匠の息子さんだから……そうだよね。縁談、つまりお見合いの話があるんだ。


 っていうか稲塚さんって何歳なんだろう。縁談の話がある、ということは独身なんだ。見た目はそこそこに若い。口調はいつも敬語っぽい穏やかな感じで、その点では若い雰囲気はあまりないけど。髪は黒い。白髪はある? よく見ればある?


「ああ……沢口さん。おつかれさまでした」


「わっ、あ、す、すみません! なにも聞いてませんっ!」


 うおお、慌てすぎて余計なことまで言ってしまった!


 すると稲塚さんは「はは」と軽く笑って「沢口さん、この後少し時間ある?」と思いもしないことを言ってきた。


 当然というか「あ、え、ええと!」と慌てた私に「少し散歩しませんか」と彼は優しく微笑んだ。


「え!」


 夢か、と疑いたい。

 だってそんなことなんて有り得ない。庶民は王子様と散歩になんて行けるはずない。


「どう?」


 訊ねる笑顔にどきん、と心臓が跳ねた。


「お、お供させていただきますっ!」


 すでに生きた心地がしなかった。稲塚さんはそんな私を「ふは、堅いな」と笑った。





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