第3話 優しい言葉が甘すぎる


 乳成分を含んで悪臭を放つようになった雑巾が私のロッカーやカバンに投げ込まれるようになったのはその翌日からのことだった。


 ぷん、と不快に臭うそれは少しだけ浮上しかけていた私の気持ちをあっさりと地の底に叩き落とした。


「くさ。なに? 早く片付けてよ」


 え、イジメ? ですか。

 あまりに幼稚で唖然とした。

 大人の世界でもこんな行為が存在するなんてなんとも虚しい話だった。


 だけど。


 ──これからは、僕が大丈夫なようにするから。


 期待……してもいいのかな。信じてもいいのかな。もう少し、がんばれるかな。この場所で。


「スーシェフに媚びるとかほんとこわいわ、あの子」


 あなたたちの方がよっぽどこわいです。私は絶対にあんな先輩にはならない。固く心に誓って、ぺこりと頭を下げて臭い雑巾片手に休憩室を出た。



「いきなり来て何も知らないでそんな無茶ばかり言われても私たちも困ります!」


 雑巾を片付けてからいつも通りのトイレ掃除を済ませて厨房に戻るとそんな怒声が。驚いてびくりと肩が震えた。


「はあ、無茶ですかね。僕は彼にもナッペ(クリーム塗り)をやらせてみたいって思っただけなんだけど」


「彼は洗い場と計量。それが仕事で」

「んん。あのさ、それは本人の希望?」

「えっ……」


 強い口調はこの間までリーダーとして場を仕切っていた未村みむら先輩だった。


「はは。それ、あなたが仕事取られたくないだけなんじゃない?」


 言うと未村先輩からナッペの道具のパレットナイフをひょいと取り上げて洗い場にいた柚木崎ゆきざき先輩へと渡す。


「下手でもいいからやってみて。とりあえず一台。できたら見せて」


「は、はいっ……!」


「それと沢口さん」

「えっ……はいっ」


 蚊帳の外だと思っていたから突然呼ばれたことに飛び跳ねるほど驚いた。咄嗟に返事をして棒みたいに硬く直立した。


「代わりに洗い場、よろしく」

 対して稲塚さんは柔らかく笑っていた。


「は……はいっ」


「もう、稲塚さん!」

 未村先輩が食らいつく。


「なに。ああ未村さんはそれでは、発注、お願いします」


「そんなの5分で終わりますよ」

「毎回同じではダメですよ」

「な……」


「なにがよく出るのか、出てないのか。ロスはどのくらいか、作りすぎはないか、逆に足りてないものはないか。当然そのへんまでちゃんと見て発注かけてほしいんですよね。もちろんフルーツだったら完熟になる日数の計算までできてるとありがたいですね。気温とかまで考慮して。最高の糖度でお客様に提供できるようにしてください」


 何も知らない、なんてとんでもない。彼のスーシェフとしての腕がたしかなのは下っ端の私から見ても明らかで、誰がどれだけ文句を言おうとこうやって簡単に黙らされてしまった。しかも。


「うんうん。悪くないよ。もう少し練習すれば店にも出せる」


「は……はい! ありがとうございますっ!」


 若手にとにかく親切丁寧で、優しい。こんな空気を纏う人、この職場で初めて出会った。


 そう思うのは当然私だけじゃない。


「スーシェフ、いいよね」

「私、就職してから初めて褒められました」

「俺もです」

「この前なんて手荒れ労ってくれたよ」


 未だに彼を気に入らない先輩は数名いるものの、日毎にその支持者は増えた。


 そうしていつしか陰での彼の呼び名はこんなぴったりのものになっていた。


 『王子』


 言えば言うほど、たしかにそう見える。メガネの奥の優しい瞳に、何人の先輩たちが心を奪われたことか。


「沢口さん」

「はいっ」


 心地よい声に呼ばれる度に、耳が喜んだ。心に栄養がもらえた。


 ああ、まるで魔法だ。

 みんなが彼を好きになる。

 だって救いの神だもん。


 これって、まさか恋なのかな。

 一瞬そう思いかけたけど、すぐに違う、と考えを改めた。


 恋なわけない。だって彼はみんなの『王子様』なんだから。いちばん底辺にいる私なんかが気安く想いを寄せていい相手じゃない。



「従業員ロッカーに鍵を付けます。先日勝手に他人のロッカーを開けるという信じられない行為を確認したので」


 ある日の朝礼で珍しく怖い顔をしていると思ったらそんな話だった。もちろん私から雑巾のことを言うはずはない。きっと本当にたまたま稲塚さんが現場を見かけたんだ。そういえば今朝からひとり、姿が見えない先輩がいる。


「あの子。スーシェフに辞めさせられたよね。絶対」


 どこからともなくそんな声を聴いた。


「ひ。権力こわ」

「嫌われたら最期さいごだね」

「さすがは巨匠の息子」


 ほんとうにそうなのかな。いくらオーナーシェフの息子だからって、スタッフを勝手に辞めさせたりなんかはできないんじゃないかな。


「い、稲塚さん……」


 こんな気軽に話しかけていいものかわからなかったけれど、私が関係していたことは明らかだったから。


 退勤後の人のいない厨房で、その横顔に話しかけていた。


「ああ、お疲れ様です。沢口さん」

「お、お疲れ様です!」


 すると、なにかな? というように軽く首を傾げられてしまい困った。いや、困っているのは稲塚さんの方だよね。なにか話さないと。


「あの……ロッカーの件で」


 どう言えばいいのか。考えてから話しかければよかった、と後悔してももう遅い。


「あの、その、あ、ありがとうございました」


 すると稲塚さんは「いや」とだけ答えて少し心配した顔になる。


「なにかあったらいつでも言って」


 ひ……。


「あの……その……」


 犯人はどうなったのか、なんて訊けるはずはない。稲塚さんはそれを察してかはわからないけど「ふ」と小さく笑った。


「僕はエンマ大王かなにかかと思われているの?」


「や! そ、そんなつもりは」


 あたふたすると稲塚さんは笑いながらハタハタと手を振った。


「自主退社だよ。引き止めたんだけどね」


「自主、退社……」

「気にする必要はないよ。だけどこういうことがもしまたあったらすぐに知らせてほしい。僕がしっかり沢口さんを守るから」


 答える言葉が出せなくて、少しの間呆然としてから勢いよく頭を下げてその場から逃げた。


 優しくされることに不慣れな私は、稲塚さんの優しさに戸惑うばかりだ。


 だけどどうしてそんなに優しくしてくれるんだろう。


 まさか特別扱い、なんてわけはない。だとしたら……そうだ。きっと「かわいそう」と思われているんだ。


 憐れみ──。


 するとなんだか複雑な気持ちになった。




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