第2話 スーシェフさまは甘すぎる
「今日からスーシェフとしてこの店を任されました。
はきはきとした話し方。出来る男を醸し出す細メガネに、鼻筋の通った、精悍な顔立ち。メガネの奥の瞳は力強くて、黒色でも茶色でもない、深い色だと感じた。
フランス帰りの、オーナーシェフの息子さん。ちなみにスーシェフというのはシェフの次に偉い人のこと。
「スーシェフといっても実際はシェフとかわらない仕事をしますので。以後そのつもりで」
そういえばオーナーシェフの姿は面接の日以来一度も見ていない。現場はいつも古株の
それも巨匠の実の息子だなんて。
「あのそれ、こっちでやれません?」
「んん。効率が悪い気がするな」
「そっちの人はこれ出来ないの?」
いきなり来た『スーシェフ』という立場の見知らぬ人物。しかも巨匠の息子とあればおいそれと反論はできない。よく知りもしないのに現場を掻き回すその存在を先輩スタッフたちが歓迎するはずもなく、当然現場は大混乱。厨房スタッフの不満は見る間に募った。
ある日の仕事終わり、先輩たちが休憩室で稲塚さんのことを「アイツ」呼ばわりしているのを廊下から聞いた。
なんにもわかってないお坊ちゃん。
フランス語しか通じないんじゃん?
先輩が仕切ってた方が上手くやれてましたよね。
そもそもなにしに来たのかね。
いらないですよね。
人って恐ろしい。そんなことを学びたくてこのお店に来たわけじゃないのに、嫌でもそれを見せつけられた。
ああ。また頭痛がしてきた。
あの人が新しい風を吹かせてこの地獄のなにかが変わるかと淡く期待したけど、結局職場の空気は更に悪くなった。これでは私は前よりももっと小さくなって過ごさなくちゃならない。どこにとばっちりがあるかわかったものじゃないから。
──帰ってきてもいいからね?
電話でお母さんが言っていた。
──お父さんいつもあんな調子だけど、いちごのことすっごく心配してるんだよ。
──ほんとだよ? 精神的にどうかなる前に連れ戻してもいいかもねって。
バカ言わないでよ、と反論するほどもう心に元気はなかった。
『精神的にどうかなる』ほんとうに、その通りだった。
でも……悔しい。
私はここで、まだなにもやれてない。
まだお父さんの『自慢の娘』になれてない。帰りたくない。だけどもう────
頭痛でくらくらする頭を片手で押さえて、悪口に満ちていて入れない休憩室の前でうずくまろうとしたところだった。大きな人影が近づいてきたのを感じて顔を上げた。
「具合わるい? 大丈夫?」
「あっ…………ひえっ!?」
状況が信じられなくて悲鳴を上げそうになるのを必死で堪える。だって! 心配そうに私を見下ろしていたのはまさに今、悪口を言われているスーシェフの稲塚さんだったから。
「だだっ、だっ大丈夫、ですっ!」
なんとか返すけれど全然生きた心地がしなかった。だって。こんな下っ端の汚い私がスーシェフ様なんかと会話するなんて有り得ない。予想だにしない展開にどうしていいのかわからなくなった。
大、混、乱!
「す、すみませんっ!」
ここにいると邪魔になる、と咄嗟に察して慌てて頭を下げて逃げた。すると。
「あ、
うしろから名前を呼ばれて本当に飛び跳ねて驚いた。な、なんで、名前を? 心臓がもうひっくり返りそう! 胃と位置がぐりん、と入れ替わったかもしれない。
「家、近く? 送りますよ」
「いっ……!?」
な、ななな、なんで!? うそ、うそだ、こんなの! 心臓とか胃とか考える余裕もなくなった。もはや一瞬白目になった。
「け、けけ、結構ですっ」
「でも具合わるいでしょ」
「わ、わるくなんか……なくて」
そう、わるくなんかない。これは単なる拒否反応だから。治すには、仕事を辞めるしかないから。わかってる。そんなことわかってるんだよ。
稲塚さんははっきりしない私に困り笑顔で小首を傾げ、それからおもむろに目の前の休憩室のドアを開いた。
途端にまぶしい光がその姿を照らす。縁の細いメガネがキラ、と白く光を反射した。瞬時に場が静まり返った。
「みんなも早く帰ってください。あとこの際言うけど、朝は一律7時出勤に固定。それより早くの出勤は如何なる理由でも禁止します。もちろんイベント時も。退勤もできる限り早く。それと」
言いつつその目がちらりとこちらを見る。
「今後新人の下働き期間はひと月までとします。それ以降は勤務年数に関わらず全員実力勝負。僕が判断して仕事を渡します。各所の掃除は当番制に。毎週定休日前の月曜は『全員で』床磨きを徹底」
休憩室の先輩たちの騒然とした反応を感じる。私もその場に固まった。
「文句があるなら陰でこそこそ言ってないでいつでも直接僕にどうぞ。嫌ならよそ行って。以上です」
そして先輩のひとりに「沢口さんの荷物どこ」と訊ねると、それを受け取ってこちらに戻ってきた。ひ。
「諸用で外します。すぐ戻るから最後の人電気
言うと、私の返事も聞かずに肩に手を添えてそのまま一緒に外へ連れ出した。ひえええっ!
「あ、あのっ」
「家どっち? ひとり暮らしでしょう」
「そう……ですけど、あの」
「いいよ。送らせて」
どうしていいのかわからなくて、ただ並んでとぼとぼと帰路を歩いた。スーシェフさまだよ。私、スーシェフさまと歩いてるんだ。やばい。こわい。どうしよう。「沢口さんは」
「は、はいっ!」
「あはは。緊張しないで」
そんなの無理な話。きょどきょどと視線を彷徨わせる私を稲塚さんはまた笑った。
「どうしてうちの店に?」
「えっ……と」
どうして、って。
いちばんは、東京で修行していたお父さんに近づきたかったから……? いや、ほんとうはもっと単純で、私はただ誇ってほしかったんだ。うちの娘、有名店で働いててすごいんですよって。だけどそんなの全然叶わなかった。それに稲塚さんへの答えとしてもそれじゃきっとだめだ。
「ま、学びたかったんです。その、有名な稲塚シェフの、お店で……」
これも嘘ではないから。
すると稲塚さんは「ああ」とため息のように声を出して言う。
「それなら、幻滅したでしょう」
そんなことは……。だけど、そうかもしれない。華やかな売り場に反して、その裏側の酷さは言葉にできないくらいのものだった。その上現場に肝心の巨匠の姿は欠片もない。同じ空間にいることさえも叶わなかったんだ。
「よくここまで頑張ってきたね」
「え……」
「辛かったでしょう」
あまりのことに、声が、出ない。喉の奥がぐっと詰まるように苦しくなって、息もうまく出来なくなりそうだった。
こらえて。涙はこらえて。泣いたらだめ。泣かないで。なにかの呪文のように心の中で繰り返す。それでも目は潤んで、力を込める下まぶたは少しの衝撃だけでも簡単に決壊しそうだった。
「これからは、僕が大丈夫なようにするから。安心して。いちごちゃんの良さを、ちゃんと出していけるように、そういう店にしていくから」
あれ? と顔を上げた。その拍子に涙がぽろりと地面に落ちた。
「どうして、名前……」
すると稲塚さんは涙のことは見えていないように目線を外して「ふは、しまったな」と明るく笑う。
「口が滑った。ごめんなさい、『沢口さん』」
「い、いえ」
突然馴れ馴れしく名前呼びだった、とかそういうことじゃなくて。
スタッフは、たくさんいる。パティシエだけでも10名は超える。その名前を入ってまだ数日で全員分覚えたの? それとも名簿でも見て予習してきた? まさか。
下っ端の私なんかいちばん関わらない存在のはずなのに。
沢口 いちご。
フルネームで知られていた。
「父は自分勝手な人だから。突然『現役はもう引退』なんて言い出して店を放り出してしまって。シェフ不在では現場は大変だよ。僕がすぐに帰国できたらよかったんだけど、なかなかそうもいかなくて。だから去年と今年の入社の子たちは、可哀想なことになってしまった。有名店だと期待して入ってきてくれたのに……沢口さんを含めて、皆、ね」
そうだったんだ、と思うと同時に、もう巨匠から直接学ぶことが叶わないとわかってがっかりもした。
「僕は父の代わりにはなれないけれど、それでも出来ることは精一杯やるつもりだから」
ふ、と見上げると、目が合ってしまって慌てて俯いた。頬が熱い。脈が速い。
「辛い思いは、もうさせないから」
優しい言葉に、また目が潤んでしまった。いっそ抱きついて泣きたいくらいの衝動に駆られて、慌てて心を鎮める。
バカか。私は。相手は雲の上の人だよ?
だけどあの地獄にこんな思いやりのある人が現れるなんて。一見厳しそうにも見えたけど、稲塚さんにはお店とスタッフへの愛がちゃんとある。人の温かさがある、と感じた。
そんな人、初めてだった。
アパートの前でたくさんお礼を言って、ペコペコと頭を下げると「いいのいいの」と笑ってくれた。笑うとこんな優しい顔をするんだな。ああ、なんて素敵な人だろう。
いつか振りに心がホワホワと温かくなって、見えなくなるまでその大きな背中を見送った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます