パティシエ王子の溺愛フレジエ

小桃 もこ

第1章 甘さの加減は初級編

第1話 私の覚悟は甘すぎる



 ああ、まただ。

 またあの人を思い出してる。


 分厚くて大きな手

 優しい眼差し


 その『知らない人』に、幼い私はブランコを押してもらっている。


 揺れるリズム

 背に触れる感覚


 遠い記憶なのか、それとももしかしたらただの夢や妄想なのかもしれない。


 朧で。だけど妙に具体的なんだ。



 *



 一度溢れ出てしまったら、どうして今まで留めておけたのかもうさっぱりわからない。


「お父さんみたいなパティシエになりたいの。大学を辞めて、専門学校に通いたい」


 大きな背中に向かって宣言すると、お父さんは作業中の手元に目線を落としたままでぴくりと反応した。


 これまでずっと『手の掛からないイイ子』として人生を送ってきた私が、最強の魔王みたいに怖いこのお父さんに真正面からケンカを吹っかけたのはこれが初めてのことだった。


 場所は両親が経営する自宅を兼ねたケーキ店の厨房。お父さんはだいたいいつもここにいる。時間は夜。営業時間にこんな話を聞いてもらえるはずがないから。


「……は?」


 何言ってんの。バカかよ。という意味を含んだ低い「は?」だった。未だに視線は向けてもらえない。


 あの『イイ子』のいちごが親に反抗なんて。周りにとったら青天の霹靂だったと思う。せっかく受かった有名大学をわずか一年で中退。どれだけのことを無駄にして、棒に振る行為かは自分でもわかっていた。


 それでも一度溢れた気持ちはもうごまかせなかった。最強の魔王だろうと、屈してなんていられなかった。


「いい……ですか」

「世の中舐めすぎでしょ」


 おずおずと訊ねた質問に対して予想を超えた鋭いカウンター。これまで『イイ子』でやってきたやわな私が受けるにはあまりにも鋭すぎた。


「な、舐めてなんかないよ!」


 胴が痺れるような感覚。めまいを起こしそうになりながら、震える声でなんとか反論した。


 でも、いけないこと?

 ほんとうにそう?


 夢を持って、悪い?

 悪くなんかないよね!?


「やってみたいの。自分を試してみたい」


 伝われ。きっと伝わるはず。このお父さんにならきっとわかってもらえる。熱いこの気持ちを。これまでずっとフタをしてきた、私の中の溢れる気持ちを。


「ああそう。じゃあ出てけよ?」

「えっ」


 娘が涙ぐんでいようと魔王は容赦なかった。見てないから気づいていないのか、それともわかった上で……って、どこまで冷酷非道!?


「当然だろ。覚悟があんなら甘えるな」


 び、と向けられた冷たい視線と共に放たれた言葉に返すものが見つけられなかった。びりびりと痺れるような感覚は全身に広がって、もう後戻りはできないんだ、と脳で理解した。


 それにしても。このお父さんの子育てってワイルドすぎる。だってこんなの、「外に出たい」と訴えたらいきなり荒野にひとり放り出されたようなものじゃない?


 でも、それが私が望んだことなんだ。荒野なんだ。私がこれから向かうのは。



 ──覚悟。



 家を出て、ひとりで暮らす。右も左もわからない世界で、イチから築いてゆく。


 覚悟。

 あるよ。あるさ! それがなくてこんな行動起こせるはずがないでしょ!


 それから私は人生で初めて腹を括って、あえて地元から離れた東京の専門学校を選んだ。それはこの家からだと電車と新幹線を乗り継いで行くような遠いところ。


 見ててよ、お父さん。私、舐めてなんかない。自分の力だけで立派なプロのパティシエになってみせるから!



 そうして始まった学校生活は。


 ケーキ。ケーキ。ケーキ。


 毎日毎日、食べ切れない量のケーキを生み出しては食べ、また生み出す。本場フランスの味、伝統や文化に触れて、高度な技術も身につける。贅肉も身につける……。いやいや! たくさん知識をつけて、実践。国家試験にも挑むんだから、幸せに太っている暇なんかそんなにない。


 そんなケーキ漬けの毎日は過酷ではあったけど、とても充実していて、気がつけば私はどんどんのめり込んでいた。


 いつかお父さんに認めてもらう。『自慢の娘』になってみせる。


 そんな想いを胸に、がむしゃらに成績を伸ばした。学生コンテストで受賞だって果たした。


 ──みんな沢口さわぐちを見習いなよ

 ──さすがはケーキ屋の娘

 ──将来有望だねぇ


 ね、どう? お父さん。学生部門で金賞だよ。私、すごいでしょ?


「はあ、そう」


 お祝いも、労いもなかった。コンテストの詳細すらも聞かないの? ねえお父さん。もしかして……私に興味ない?


 ショックだった。悲しかった。がんばりを認めて欲しかっただけなのに。ただひと言「すごいじゃん」と言って欲しかっただけなのに。


 ああ、そうか。わかったよ。

 まだ足りないんだね? そう。だったら。


 ──先生。ここ、募集ありますか。

 ──え、ここ? ここは……大変だよ?



「えっ、〈pâtissierパティシエ Tadanobuタダノブ Inazkaイナヅカ 〉? その本店……って、本当に!? 超有名店じゃない!」


 電話口でお母さんの声が高くなる。


「そう。面接受けることにしたから。当分そっちに帰るつもりはないよ」


 見てて。お父さん。今に『自慢の娘』になってみせるんだから。



「はは。うちは厳しいよ?」


 笑顔で言うその白ひげのおじいさんは、このお店のオーナーシェフであり、かつて世界でも活躍した有名パティシエ。


〈巨匠〉稲塚いなづか 忠宣ただのぶ


 今でこそ現役を退しりぞいているものの、過去にはテレビにも頻繁に出ていたようなすごい人。ご本人にお目にかかれただけでも大興奮だった。


「がんばります!」


 意気込むと「気負わず」と微笑んで肩を叩かれた。



 有名店への就職。さすがのお父さんも誇ってくれるのではと期待したけれど、その反応は相変わらず薄く。ついに「がんばれ」のひと言もなかった。


 それでもめげなかった。記念すべきパティシエ人生の第一歩。それがこんな有名店で踏み出せるんだもん。こんな光栄なことってない。


 そう。まだ始まってもないんだ。お父さんに認めてもらうのは、もっと実力をつけてからだよね。



 そうして迎えた春。

 文字通り、目が回るような日々だった。『戦場』と呼ばれる有名店の調理場の下っ端、もちろんある程度の覚悟はしていたものの、その日々は私の覚悟なんか軽く超えた、あまりに壮絶なものだった。


「ちょっと、当たんないでよ」

「邪魔だよ」

「なにぼっとしてんの」


 専門学校で学んだ知識を活かすどころか、ケーキにさわることさえさせてもらえない。材料の計量や洗い物といった雑務さえも先輩の仕事だった。最下層の私がやれることと言えば、床掃除、冷蔵庫とオーブンの掃除、トイレ掃除にゴミ出しと害虫駆除。その上邪魔だのとろいだの、浴びせられる暴言の数々。もちろん先輩より先に出勤しなければならないし、退勤も夜遅い。三人いた同期の一人目の男の子が辞めたのは、入社わずか十日でのことだった。


「ここは……異常だよ」

 亡霊のような白い顔だった。


 そして二人目の女の子は。

「なんか精神病んだらしいよ」


 入社からひと月あまり経った頃、先輩から軽くそう告げられた。同性だし仲良くしていたから確認しようとしたけど、すでに連絡も着かなくなっていた。


 あっという間に、残るは……私ひとり?


  ツギハオマエ

  ハヤクイナクナレ


 無言の圧に潰されそうだった。


 えっ、待って!

 なんでこんなことになった!?


 これじゃ、本当に魔界の荒野だよ!

 いや、荒野というより…………地獄?


「ね、こんなとこでぼさっとしないでよ」

「邪魔! どいて」


 あれ? 私、どうしてこんなところに来たんだろう。


 私はなにがやりたかった?

 ケーキ……?

 ケーキになんて、いつ触れるんだろう。


 私の夢って、なんだっけ。

 私はなにを見て、なにを思い描いて、ここに来た?


 ケーキ。ケーキ。ケーキ?


 ケーキなんか、もう見たくないよ。


 嫌になるほどいつも同じの甘い香りにいよいよ頭痛がし始めた頃、私にとどめを刺すかのようにひとりの先輩が言い放った。


「あんたン、ケーキ屋なんだって? こんな仕事しかさせてもらってないなんて親が知ったらさ、悲しむだろーね」


 ね、なんで実家手伝わないの?

 こんなとこでなにしてんだか

 とんだ親不孝娘じゃん


 砕けるくらい歯を食いしばった。


「外、掃いてきます」


 精一杯そう返して、その場から逃げた。


 ぽたぽた、と雫が歩道の敷石に濃い色を付ける。滲んで薄くなる前に、またぽたぽたと落ちてゆく。


 どうしてこうなった? どこで間違えた? 考えてもわからない。私はただお父さんに認めてもらいたくて、お父さんみたいなパティシエになりたくて、それでここまで精一杯がんばってきたのに。


 なのになんで?


 やがて涙も枯れて、ただ無心に沿道の朽ちたツツジを掃き続けた。


 勢いよく車が通って、ざ、とぬるい風を巻き起こす。せっかく集めた山が跡形もなく撒きちらされた。ああ、なんて無意味なんだろう。


 もう辞めよう。

 いつ辞めよう。

 次の休みで。

 それとも月末まで?

 いや、次のイベントが済んでから……。


 頭が痛い。

 足が重い。

 胃がきもちわるい。


 アパートにひとりでいると、なんでもないのにハラハラと涙が止まらなくなる。


 悪夢に汗だくになって飛び起きる夜。


 ないはずの甘い匂い、幻聴ではなく『幻臭』を感じてしまう。


 ああ、体がもう限界なんだ。


 空が白む早朝の通勤途中で立ち止まってしまった足を、なんとか再び動かしてお店に向ける。


 いやだ。行きたくない。


 ああ。

 もうなにも考えないことにしよう。


 まるで機械みたいに。お掃除ロボットだ。そうだ、ロボットでいいじゃん。こんな仕事。


 もしかしたらお父さんは、こうなることがわかっていたのかもしれない。だから「がんばれ」って言わなかったのか。


 おとなしく地元にいたら、もっと違ったかもしれない。


 カスタード作らせてもらってるよ。

 私は飾り任されてる。

 フルーツカット、褒められたの。

 シューのクリーム詰めとかもね。

 俺はプリン毎日やってる。


 田舎のケーキ店に就職した専門学校の同期たちがどんどん腕を磨いている。その間に私が毎日磨いているのは床と便器だけだった。


 なんじゃそら。


 私だって出来るのに。ちゃんと習ってきたのに。トップの成績だったのに。有名店に就職したのに。


 なんでよ。悔しい。


 ああ、私、もうだめだ────そう思った。そんな時だった。


 『その人』は、なんの前触れもなく晩夏のある日突然お店に現れた。





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