中編
「ですが、私はあくまでも自動人形でしかありませんから……私の苦しみなど、誰も想像しないのでしょう」
彼はそう言って、厚みのない小さな四角い箱を差し出した。
「これは……?」
うっすらとつもった埃を払うと、サラはその正体を知った。
「先程見つけたものです。私の
「日記なんて……」
だが、これを使うのは当然のことながら、人間だ。自動人形が日記だなんて聞いたことがない。だが、ギルならばやりかねないとも思う。サラは、まるでギルの心を差し出されているような錯覚を覚えながら、それを受け取った。
「どうしてこんなものを?」
「さぁ……どうして、なんでしょうね? 私の人生、私の感情、私のすべてをいつか誰かに知ってほしかったのかもしれません」
ゆうに千年分の記憶は体内に記録しておけるはずのギルは、切なげな眼差しでサラの手の中にあるものを見つめた。
そしてサラは、優しくギルが導くままにソファーに腰をおろし、膝の上においた箱からのびた線の先にある吸盤をこめかみにはりつけ、目を閉じた。
ギルの記憶。ギルの感情。それをあっさりと渡されたことに驚きながらも、緊張で手のひらが汗ばんでくるのが分かった。
まず脳裏に現れたのは、白髪の美しい女性だった。
目ではなく、脳で直接『みる』その映像の片隅には、今からおよそ二百年ほど前を表す日付が刻まれている。
おそらくはギルの主人なのだろう。本を読む主人、こちらにむかって微笑みかける主人。長い時間の中の、切り取られた断片のように、様々な映像が巡ってゆくが、感情も記憶できるはずの日記にもかかわらず、これを記録した者の感情は、主人に対する見守るような優しさと、絶対的な『服従心』しか感じられない。他の自動人形がどうなのかは分からないが、これが自動人形のものだとまだ納得はできても、しかしギルのものだとは信じがたいくらいの冷淡さだ。
だがそれが変わったのは主人が亡くなった時だった。永遠に目蓋を閉ざすその最後の瞬間に立ち会っていた、彼女を見つめるこの日記の記録手。彼が感じたのは喪失感。それがはじめて彼がはっきりと感じた『感情』なのかもしれなかった。
そして映像は移り変わり、次の主、その次の主と幾人も主がかわり、それからも彼は何度も主人の最期を目の前にしてきた。そして時がめぐるうちに、絶対的な服従心はやがて忠誠心へと変化し、すべての映像――視点の感情には悲しみが混ざるようになっていった。終わりを知るものの悲しみ。
死なないで―――。私を置いていかないで―――。
そして主人が死ぬたびに、彼は哀しみ、絶望を深めていき、サラの前の主人である大叔母の時には、彼は強く自分の処分を、死を願っていた。大切な人を必ず失うこの苦しみから解放されたいと。
この哀しい日記は、長い、長い彼の歴史のほんの一部分。それは一億ページの中の一ページにも満たないものかもしれない。
すべての映像が終わると、サラは彼を見上げた。自分ならば耐えられないだろう。終わりなく何度も大切な人の死に必ずめぐりあう運命なんて。
彼の目にひそむ人間くさい悲しみの理由に、サラはようやくたどりついたような気がした。
「どうして私にこれを?」
「確かに私の中に記録は残っています。でもそれは記憶ではない。そのとき感じた思いまでは残りません。私がその時どう感じたか……苦しみも、喜びも、それを残しておきたかったのです。誰にも永遠に見せるつもりではなかったこれをあなたにお渡ししたのは……自動人形だからと言わず、あなたならこの苦しみを理解してくださると思ったからです」
「そして終わらせてもらえると?」
震える声でたずねると、穏やかな表情で彼はうなずいた。
そしてまるで愛を乞うようにサラの前でひざまずき、膝の上でふるえるサラの白くて小さな手をとった。
サラは彼に、こうしてひざまずいて愛を乞われ、一緒に逃げようと言われることをどれだけ望んだことだろう。サラが命令すれば彼は一緒にここから逃げ出しただろう。
しかし彼からそれを言い出してくれなければ意味がない。そうでなければ結局のところ、今のこの関係が変わることはないのだとサラは分かっていた。
だが、彼は決してそんなことを望まない。
彼がサラの手をとって願ったことはもっと別のことだった。
「……あなたの願いは叶えるわ。だいたい私が死んで、また次の女といちゃつくなんて私が許すと思う?」
逆光でよく見えないギルの瞳がきらめいたような気がした。
「私は自動人形ですよ。そんな発想をなさるのはあなたくらいのものです」
「あなたが私以外の人のものになるなんて許せないわ」
「えぇ」
分かっている、と言わんばかりの言い方に、ずっと表情を曇らせていたサラはようやく笑みを浮かべた。
「あなたがこれまでの主人をどれだけ慕っていたのかを知って、すごく嫉妬したわ」
「えぇ」
「しかも大叔母さままでの記録はあるのに、どうして私のがないのよ。ひどいわ」
責めると、サラの手をにぎるギルの手に力がこめられた。
「あなたのことも、はじめのうちは記録していました。ですが……途中から、あなたは決して過去にはならないと気づいたのです。だからあなたの分はすべて削除し、それから記録はやめたんです」
「過去にならない……」
サラの代で処分して欲しいという彼の決意は固いようだ。
「約束するわ。私が死んだら、あなたを処分するようにしてもらうと」
サラの提案に彼は頭をふった。まさにギルの望みどおりだと思ったのに、そうではないらしい。
「もう二度と、主人の死を見届けたくないのです」
「じゃぁ、私の死に際に引導を渡してあげるわよ。たとえ私が瀕死でもね」
「そんなことができるとは限らないじゃないですか!」
冗談のつもりで言ったのだが、かえってきた穏やかな彼らしくない強い口調に、驚いたサラは思わず身をこわばらせた。
ギルは立ち上がると、サラの髪にそっとふれた。
「ギル……」
「ヒトはもろい。あなたにもいつ死が訪れるか分からない。もしかしたらそれは明日かもしれないし今日かもしれない」
「なに、不吉なこと……」
「いつも考えるんです」
彼はサラから手をはなすと、何かをこらえるように拳をきつく握りしめた。その手をじっと見つめながら、感情など毒なのだ、自動人形はあくまでも人形のままの方がいいのだとサラはようやく気付いた。自分には感情があるのだと認識してしまったところからギルの不幸は始まったのだと。
「あなた達にはいつか死が訪れると知っているからこそ、あなたの死を想像せずにはいられない。この
ギルはそこで自分の胸に手をあてた。
「私には耐えられない。これまでは主人の死を前にただただ深い悲しみを覚えていました。でも今は、あなたは違う。あなたの死を考えるだけで、私は毎日が怖い」
怖い。それは先ほどの
「あなたがいなくなるその瞬間を、私は知りたくない。たとえあなたが息たえた次の瞬間に私が処分されることが確定していたのだとしても、一秒たりとも、あなたがこの世からいなくなったという現実を知りたくないのです。そして、そうなった時の恐怖を想像する毎日がとても苦しい」
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