50、彼氏できたんだね

 今日なら会いに行ける・・絶対安静の身体だから・・・   

 と翔は胸の中で自身に語りかけた。

 看護という、絶対名目があるじゃないか・・・

 本当のところ、さくらが心配で、他に何も考えられない。ただ、自分に叫ぶだけだ。

 会いに行かなくちゃ・・さくらが死んだら、おれだって息もできない・・何があっても、会いに行かなくちゃ・・・

 咲桜の住む借家目指して、オレンジのハスラーをぶっ飛ばす。

 さくらは、もう、おれのこと、忘れたか? 正月、酔って記憶がないけど、さくらの妹と、やっちまってから、タイトルマッチの日まで、ずっとさくらに会えなかった。会いたくて、会いたくて、胸が張り裂けそうだったけど、どうして会うことができただろうか・・でも、さくらは、どうなんだろう? あんなにかわいくて、心も美しい女性だ・・彼氏ができるのは時間の問題じゃないのか? ああ、そんなの嫌だ。さくらの幸せを願えないのは、愛じゃないって、分かり切ってるけど、おれの自己愛だと分かり切ってるけど、もう、彼氏がいるのなら、おれは、死んだほうがましだ。これまで、さくらに会うために生きて来れたのに・・夜逃げして、惨めな学生生活を送っても、さくらという希望があったから、がんばって生きて来れたのに・・ああ、だから、さくら、今日だけは会いに行っていいだろ? おれは、ただ、さくらと同じ空気を吸えるだけで幸せなんだから・・だから、ごめん、会いに行くよ・・・


 咲桜の住む古屋の前に、黒のBMWが駐車してあった。

 翔の車はそこへ入れなくて、路肩にハスラーを駐め、玄関へと歩いた。

 重厚な黒光りのドイツ車を見て、胸騒ぎを覚えながらチャイムの壊れた玄関をノックした。返事がないので開いてみると、鍵はかかっていない。

 そして彼は信じられない光景を目の当たりにしたのだ。

 畳の上に布団が敷かれ、そこで男女が絡み合っているではないか。

「あああ?」

 と翔の口から声が漏れた。

 縺れ合う二人も、玄関の翔に目を向けた。

 顎髭の男に抱かれる女は、スポーツブラのまぶしい胸をあらわにした咲桜に間違いなかった。彼女の瞳が大きく見開かれ、「ああ?」と悲鳴に似た声が溢れ出た。

「あああ」

 と翔の絶望も止まらない。

「しょう、どして?」

 と咲桜は問いかけていた。

 悲しみに身体じゅうを締め付けられて立ち尽くす翔は、しどろもどろ言う。

「さくら、ご、ごめん・・か、彼氏、できた、んだね・・」

「え? ち、ち・・」

 咲桜が「違う」と言うのを遮るように、長田が怒りの声をぶつけた。

「おい、おまえ、おれたちの秘め事を覗き見するんじゃねえぞ。おれたち、愛し合ってるのが見えねえのか? とっとと消えろや」

 熱い涙がどっと噴き出すのを見られぬよう、翔はとっさに背を向けた。

 そして涙の深海の底で息もできなく動くように、重く震える腕を伸ばして後ろ手に戸を閉めた。

 翔は断絶された。咲桜の生きる世界から、星より遠い世界へ。もう赤い血は流れない亡霊のようにふらふらと、涙の底を彼は歩いた。

 ハスラーに乗り込んだが、すぐに運転できる状態ではなく、声を押し殺して泣いた。

「ううう、ううう・・」

 と今にも死にそうなくらい苦し気に泣いた。


 古屋の中では、咲桜の上に乗っかる長田の顔面を、機関銃のような左右の突きの連打が蜂の巣にしていた。彼女の怒りが爆発したのだ。

 眼球をぶち抜かれて長田がこらえきれず離れると、咲桜はすかさず身体を回転させて立ち上がり、今度は蹴りの百連発を男の身体じゅうに浴びせた。

 やがて長田がダウンすると、咲桜は前が開いたパジャマのまま家を飛び出したのだ。

 外を見回すと、道の向こうの路肩にオレンジのハスラーが駐まっている。

「ああ、しょう・・」

 と咲桜が声を漏らした直後、ハスラーは動き出した。

 咲桜は追いかけていた。

 追いかけねばならなかった。なぜ、と問われても答えようがないが、追いかけなくちゃ、人生が終わるような感覚に咲桜はとらわれていた。

 絶対安静の身体で、長田との格闘でさらに弱った身体で、死に物狂いで走った。そしてノロノロ運転のハスラーに追いつき、右拳でリアガラスをドンドンと叩いたのだ。

 格闘家の拳は強烈で、軽自動車が揺れるほどの響きだった。

「え? 何?」

 泣きながら車を走らせていた翔は、涙をぬぐい、バックミラーを見た。誰かが映っている。

 ブレーキを踏み、車を飛び出た。

 間違いない、咲桜が翔のすぐ前にいる。

「しょう・・」

 と涙の混ざった声が翔に突き刺さる。

「さくら・・」

 と翔の声も潤んでいる。

 咲桜は翔に飛び込むように近づくと、いきなり彼の胸を両手でバンバン殴った。

「えっ?」

 と漏らしながらも、翔はその衝撃を受け続けた。

 咲桜は殴りながら、泣声を張り上げた。

「このバカ、何であたしが犯られそうなのに、行っちゃうんだよ。バカ、バカ、この世が滅んでも許さないんだからね。彼氏できたんだね、なんて、ふざけんたこと、言いやがってえ。あんた以外、愛せるわけねえだろ。このバカたれがあ」 

「え? え?」

 翔の目が大きく見開かれ、潤んだ虹彩がとび色の秘めた輝きをあらわにした。

 それを見つめる咲桜の濡れた目も同じように開かれ、黒い瞳が驚いたように揺れた。ふくよかな唇がゆがみ、悲痛な声が漏れ出た。

「あ? あれ? あ、ち、違う・・今のは、嘘。あんたなんか、嫌いなんだから。しょうなんか、この世で一番、嫌いなんだから。え? え?」

 近づく男を、咲桜は避けようとしなかった。それでも、抱きしめられると、身をよじって抵抗しようとした。が、しかし、男の力は本気だった。決して離すまいと固く抱きしめた。やがて咲桜は脱力して身を任せた。するともう、ずっとこらえていたものがどっと決壊したのだ。うおううおうと、世界を揺るがすような泣声が翔の胸で沸騰した。近所の人々が、驚いて家から出てくるような、信じられない大声だ。それを受け止めていた翔も我慢できなくなり、もう泣声を押し殺すこともせず、声を震わせて一緒に泣いた。いつしか咲桜の両腕も、翔をぎゅっと抱きしめていた。二人、一つになって泣けるように、翔にしがみついていた。そして二人の泣き声は、突然止んだのだ。翔の唇が咲桜の唇をふさいだから。予期せぬ口づけに、咲桜は何が何だか分からなくなっていた。ただ、号泣している場合じゃないということは身体じゅうで感じ取れた。唇を吸われている。目を開けると、眼前の翔は目を閉じている。何年も夢見てきた瞬間なのに、何が何だか分からない。それでもほぼ無意識に咲桜も目を閉じ、愛しすぎる唇を吸い返していた。近所の目など気にならぬくらい、咲桜の身体じゅうの血潮が真っ赤にたぎり出していた。世界がバラ色に回る表現を、ドラマで見た記憶があるが、それが現実にあるんだと初めて知った。立っていられなくて、さらに翔にしがみついてキスを続けた。このまま離れたくない。今日ずっとこうしていられたら、明日死んでもかまわない。

 それなのに、翔は唇を離し、熱く見つめて言う。

「さくら、愛してる。これまでも、ずっとずっと愛してたし、これからも、ずっとずっと愛してる」

 咲桜の心が叫ぶ。

 あああ、あたしも、愛してる・・ずっとずっと、しょうだけを・・でも、そんなこと、言っちゃだめじゃない・・あんた、れなとやっちゃったんでしょ? れなを不幸にして、あたし、生きていけないんだよ・・でも、あたし、だめだ・・このまま離れたくない・・それでも、だめだだめだ・・・

 アスファルトを叩く靴音が近づいて来た。

 殺気のようなものを感じて、咲桜はその音に目を向けた。

 長田だ。

 闘牛のように突進して来て、いきなり翔の頭を叩くではないか。

 そして鼻息荒くまくしたてるのだ。

「おい、おまえ・・おまえはこの娘の妹の恋人だろう? 何で姉と二股かけやがる?     

このゲス野郎があ」

 翔は長田を見つめ、咲桜に目を戻した。

「さくら、この男に、おれとれなのこと、話したの?」

 と翔は咲桜に問う。

 咲桜は首を振り、

「ううん、こいつは、あたしのストーカーで、あたしのこと、いろいろ嗅ぎまわってんだ」

 長田は悪びれず、

「ええ、ええ、おれは確かにさくらさんのストーカーですよ。さくらさんが、好きで好きで仕方ないんですから。でも、だったら、この男だって、同じストーカーじゃないですか? 知ってますとも・・去年の暮れまで、ほら、あのあたりで毎日深夜にさくらさんの帰りを待ち伏せしていたでしょう?」

 道の先の方を指差し、それから翔を睨みつけ、続けて言う。

「それでも、さくらさんには、まったく相手にされませんでしたけどね。おれも、同じようにさくらさんを愛するストーカーだから、ずっと見ていたんですよ。でも、おれとおまえには、決定的な違いがある。それは、おまえが、さくらさんの妹の恋人だってことですよ。これはもう、致命的でしょ? それに対して、おれはさくらさん一途だ。だからね、さくらさんを幸せにできるのは、おれの方でしょ? 違いますか?

だから、おまえは、妹さんと幸せになればいいんだ。妹も姉も両方なんて、一夫一妻制のこの国じゃ、許されないことなんですから」

 翔も長田の睨みから目をそらさなかった。そしてゆっくり首を振り、言い返した。「あなたも、本当は分かっているんじゃないですか? さくらを幸せにできるのは、おれだけだと。おれがさくらだけを愛していると」

 長田は薄ら笑いを頬に浮かべた。

「へへっ、さくらさんはどうなんですか? まさか、妹の恋人を愛してるなんて言いますか?」

 翔は、さっきの咲桜の言葉を思い出し、長田を見据えて言う。

「さくらも、おれだけを、愛してる。おれたちの想いは、一つなんだ」

 そして確認を求め、咲桜を見た。

 だけど咲桜は唇を噛んで、首を横に振るだけだ。

 それを見た長田はなおもほくそ笑む。

「ほらね。おまえもおれと同じ、片思いのストーカーじゃないか。それに、さくらさんの妹はどうするんです? 女の子を泣かせちゃ、いけませんぜ」

 翔は咲桜を見つめたまま告げた。

「れなは、おれが責任もってケアするよ。れなだって、おれの気持ち、とっくに気づいているはずなんだ。このままだったら、れなも、おれも、そして何より、さくらだって不幸になる。いいや、さくらはもう、ずっとずっと不幸じゃないか。だから、おれが、れなに正直に何もかも話す。将来、三人とも幸せになれるよう、おれが必ずケアしていくよ。だって、三人とも笑顔になれる日が来るためには、それしか道はないじゃないか」

 咲桜はぶるぶる震えるように首を振った。

「あたしが、不幸ですってえ? あたしのせいで、れなは小学校の時からずっと地獄を渡り歩いてきたのよ。れなの方が、ずっと不幸なのに。あんたが、れなの、ただ一つの希望なのに」

 長田が翔の目を見入って口を出した。

「そりゃそうだ。山田社長の息子をさくらさんが殺しちまうから、山田社長は、妹のれなさんを、まだ小学生だというのに犯っちまったんですよね? そんな罪があるのに、さくらさんがおまえと付き合えるはずもない。おれはその事件には関わっちゃいませんが、その後、山田社長の下で働いて来たから、おれもおまえと同じようなもんだけどな。そこでだ・・ごちゃごちゃ言ってても、らちが明かないから、おれとおまえ、同じ悲しいストーカー同士、決着をつけませんか?」

 翔は長田をじっと見返していた。

「決着?」

 長田の唇の右端がつり上がった。

「そうです。決着です。知っていますとも・・おまえは、れなさんの、空手部の顧問なんだろ? 空手経験者、じゃないのですか?」

「大学の時、空手部だったけど」

「ほら、じゃあ、試合にも出られたんですよね? だったら、問題ない。おれと、タイマン、しませんか? 負けた方が、さくらさんのストーカーをきっぱりやめる。どうです? 男と男の勝負です。ごちゃごちゃ言ってるより、手っ取り早いでしょ?」

 咲桜が食って掛かった。

「はあ? 何、勝手言ってやがる? そんな勝負、勝っても負けても、あたしはどちらとも付き合わないからな」

 なのに翔は太い声で言うのだ。

「本当に、おれが勝ったら、さくらの前に、もう二度と現れないのか?」

 長田は唇をぷるぷる震わせ、声のトーンをあげる。

「ええ、ええ、約束しますとも。その代わり、これは男と男の勝負です。おまえが負けたらさくらさんの前に二度と現れないって、誓ってください」

「だけど、あなた、片目がそんなに腫れて、顔じゅうアザだらけじゃないか。さくらにやられたんだろ? そんな身体で、戦えるのか?」

 翔の問いを長田は笑い飛ばした。

「だから戦えるんですよ。へへっ、いくら空手経験者だからって、シロウト相手にハンディなしじゃ世間体が悪いし、さくらさんも納得されないでしょう? さあ、男だったら、勝負しろや。どっからでも、かかって来いやあ」

 叫びに似た長田の挑発に、咲桜が非難の声をあげる。

「あんたら、いい加減にしろや。ここは裏道だけど、車だって通るんだ。近所の人も見てるじゃないか。しょう、あんたも、もう、ガキじゃないんだから」

 なのに翔を見ると、見たことのないほど目の色が変わり、ギロリと長田を睨みつけているではないか。

「なるほど、あなたはシロウトじゃないってことか。だとしても、おれは死んでも、あなたには負けねえぞ」

 と声をたぎらせ言い放つと、翔は空手の基本形の構えを作るのだ。

 それに合わせ、長田も両腕をガードに上げた。

「地獄を見せてやるぜ」

 長田の唇の右端が吊り上がり、蒼アザの頬がヒクヒク笑った。それは長いこと地獄を渡り歩く鬼の笑いに他ならなかった。

「え? ええー?」

 と咲桜は漏らしていた。






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咲桜、散る? ピエレ @nozomi22

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