49、花の命は短いのに知らず知らず散ってもいいのですか?
五月のゴールデンウイーク終盤、絶対安静の咲桜の代わりに、妹の玲奈が午後から【DARK LIGHT】を訪れた。
休日の宮隈東高校の空手部の練習は、午前で終わる。
顧問の翔の車に乗って、キックボクシングジムまで来たのだ。
「五月末に、インターハイ予選の県大会があるんです。堀田コーチ、ここで、姉の代わりに、特訓させてくれませんか」
と玲奈は龍一の切れ長の目を熱く見つめて頼んだ。
龍一が眉をひそめると、いかつい顔がさらにどぎつくなった。
「もしかして、さくらと同じ練習をしたいのか?」
咲桜そっくりの玲奈の大きな瞳は、山奥の湖のように龍一を深く呑み込みそうだ。
「ええ、ええ。わたし、空手は長いブランクがあったけど、才能は姉以上だと、父に言われてました。近い将来、キックボクシングのチャンピオンベルトを腰に巻くのは、姉ではなくわたしかもしれませんよ。でも、まずは空手で全国大会に出て、活躍しないと」
玲奈の顔は自信のオーラで輝いていたが、龍一は首を振った。
「さくらは、毎日毎日、ここまでランニングで往復して、強靭な足腰を鍛え上げたんだ。れなちゃんが同じ特訓をしたら、ケガして大会にも出れなくなるよ」
玲奈は食い下がった。
「大丈夫です。わたし、お姉ちゃんに負けません。負けられない理由があるんで。ケガしたら自己責任です。たとえ死んでも、化けて出ませんから」
龍一は鼻で笑い、ほくそ笑んだまま言う。
「さくらに負けない? さくらは行き帰りのランニング以外でも、毎日一キロダッシュをやっていた。三分以内に一キロダッシュ・・一分休憩をはさみながら、それを五ラウンド・・十五分休憩を入れ、その五ラウンドを四セット・・おまえにできるはずもねえだろ?」
「はん、そんなの余裕だよ」
と玲奈はなおも強がる。
「ほう? じゃあ、やってみようか。それができたら、突きや蹴りを指導してやるぜ」
「言ったね? 絶対だよ。嘘ついたら、ハリセンボンを呑まなきゃならないって、昔から決まってるんだからね」
「嘘は言わねえよ」
「でも、あんた、MEGUMIがさくら姉ちゃんに勝ったら、MEGUMIを指導するって約束したよね? あんた、もう、お姉ちゃんを見捨てて、MEGUMIのとこに行っちゃうの?」
「そいつは、海田めぐみの勝手な約束だけど、約束は守ろうと思う。めぐみがさくらに勝ったら、そうするつもりだ。でも、めぐみはさくらに勝っちゃいねえ。それをめぐみは分かっている。れなちゃんだって分かってるんだろ? ネットでも、再戦を望む声が多い。まだ、さくらがレフリーを殴り倒したことへの処分は決まっちゃいねえが、復帰したら、再挑戦できるんじゃねえかな」
「噂では、一年くらい試合の出場停止じゃないの? お姉ちゃん、もういい年だから、一年は長いよね? それより先に、わたしが世界タイトル獲ってもいいよ。だって、MEGUMIだって、高校生じゃない」
「ほう、たいした自信だな。でもな、さくらと同じメニューをやってから、大ボラ吹きな。じゃあ、今から走れる場所へ移動するから、ついて来な」
翔が龍一に声をかけた。
「あのう、おれ、用事があるので、失礼しますけど、浜岡のこと、よろしくお願いします」
「用事って、何よ?」
と玲奈が丸い頬を怒れる太陽のように膨らませた。
「ごめん・・行かなきゃならないとこがあるんだ」
目を合わせない翔を睨みつけ、玲奈は言う。
「ちぇ、どうせ止めても行くんでしょ? いいよ、行きなよ。わたし、さくら姉ちゃんみたいに、走って家まで帰るから、気にしなくていい」
「帰りは、迎えに来るよ。走って帰るには、遠すぎるだろ?」
「いいって言ってるだろ・・お姉ちゃん、毎日、行きも帰りも走ってるんだよ。しょうが来たら、どうしても甘えちゃうから。わたし、死んでも、お姉ちゃんには負けないんだから」
近くの小学校跡の運動場で、龍一は玲奈に三分以内の一キロダッシュを、計二十回やらせた。
自分の目に狂いがなければ、玲奈は必ず途中でギブアップすると、龍一は思い込んでいた。なのに玲奈はそれをやり遂げたのだ。
「こいつも、狂ってやがる」
と龍一は思わずつぶやいていた。
玲奈の目には、姉の咲桜の眼光に似た狂気があった。海溝のように深い絶望と、空も大地も引き裂くような烈しい怒りが、その狂気には感じられた。その闇と炎に、龍一は圧倒された。
走り終えた後、砂土の上に大の字に倒れ、ハアハア息を荒げていた玲奈が言う。
「これで分かったでしょ? わたしが、お姉ちゃんに負けないって」
それに応える龍一の声にも怒りが混じっていた。
「ばかやろう、これくらいでダウンしてちゃ格闘家にはなれねえぜ。さくらはな、サッカーボールを七十メートル以上蹴り飛ばすキック力を持ってるんだ。ここで、ボール蹴りの特訓をしたんだぜ。どうだ? 七十メートル以上蹴り飛ばすなんて、おまえには、逆立ちしたって無理だろう?」
玲奈は上体を起こし、龍一をめらめら睨みつけた。
「やってやろうじゃないか。七十メートルだろうが、七十万光年だろうが、遠い銀河の果てまで蹴ってやるよ。ちゃんと蹴り方、教えなよ」
「七十メートルキックは教えてやるけど、七十万光年キックの蹴り方はアインシュタインにでも聞いてくれ」
その頃、蒲団で寝ている咲桜のおんぼろ借家の玄関をノックする音が響いた。
絶対安静の咲桜は、居留守をしよう沈黙していた。
なのに玄関がガラガラ開く音が聞こえるではないか。
どろぼう? こんな貧乏臭い家に?
と咲桜は思い、蒲団を撥ね退けて立ち上がった。彼女は上下ブルーのパジャマ姿だ。
見ると、一人の男が家の中に入って、しっかり戸を閉めている。上下黒い服の男の顎に、見覚えある濃い髭。
「あ、おまえは、おさだ」
咲桜は咬みつくように睨んだ。
長田は嬉しそうにお辞儀した。
「おお、名前を覚えていてくれて、嬉しいです。あなたにタマタマを潰された、長田さとるです」
「誰が入っていいって言った? 不法侵入で、成敗するぞ」
「あなたが心配で、お見舞いに来たんですよ。おれは、あなたの熱烈なファンの一人ですよ。プロの選手なら、ファンは大事にしてくださいよ」
そう言って、靴を脱いだ長田は遠慮もなしに部屋へ上がり、果物がはみ出した袋を差し出した。だけど咲桜が受け取ろうとしないので、仕方なく畳に置いた。
「へへっ、そんなに大きな目で睨まれると、もっと惚れちゃいそうだなあ。二人っきり、狭い部屋で、ゾクゾクさせないでくださいよ」
「はあ? 何がファンだ。このヘンタイストーカー野郎が」
と咲桜は罵る。
だが、自分が発した「ヘンタイ」という言葉に、なぜかゾクッと身震いしてしまったのだ。
長田はそんな言葉さえも嬉しそうにまくしたてる。
「今回も、あなたの試合、観に行ったんですよ。いやあ、凄かった。あなたの蹴りは男子以上だ。あんな空中殺法の蹴り合いは、特撮映画以外では初めて観ました。おまけに、勝ったはずのあなたを負けにしてしまったレフリーさえもKOしちゃうなんて、前代未聞、空前絶後に麒麟の一角・・・いやいや百足の龍レベルですよ。ユーチューブの再生回数だって、凄いことになってるじゃないですか。でも、試合後、MEGUMI選手だけじゃなく、あなたも病院直行って知って、気が気じゃなくて、こうしてお見舞いに来たんです。おれはあなたの大ファンですから、困ったことがあったら、何でもやってあげますよ。食事でも作りましょうか?」
咲桜は顔に能面を張り付けたように言う。
「だったら、あたしの願いを一つだけ、聞いてくれるか?」
「おう、おれにできることでしたら、強盗だろうが殺しだろうが、何なりとお申し付けください」
「あたしの願いはただ一つ、今すぐ、この家から出て、二度とあたしの前に、現れるな」
長田の笑みが引き攣って、片頬がヒクヒク震えた。
「一番難しい願い事を言いましたね。それはもう、ミッションインポッシブル、おれに死ねと言ってるのに等しいんです。いいでしょう・・おれはこの家から出て、二度とあなたの前に現れないことにいたしましょう。でも、それには、一つ、条件があります」
「条件?」
「この前言ったじゃないですか・・おれのタマタマ潰した責任、取ってくれって」
「責任?」
「お忘れですか? 要するに、一発やらせろってことですよ。すぐに済みますよ。さくらさんと一発やれたら、おれ、死んでも本望なんです。潰したあなたには分からないでしょうが、おれは、タマタマ潰されたあの日の悪夢から、解放されるんです。前にも言ったでしょう・・おれは、タマタマ潰れて子供は作れなくても、ビンビンに勃起するって。さくらさんを思い浮かべただけで、ビンビンなんです。病んでいますよね? そうです、病気なんです。恋わずらいと言うより、さくらわずらいなんです。一発だけでいいんです。カマキリみたいに、終わったら、おれを食い殺してもかまいませんから」
長田の食い入るような目を、咲桜は上目遣いに見返した。
「本当に、一発やらせたら、あんた、二度とあたしの前に現れないんだね?」
「ええ、ええ、風のように消え去りますとも。どんなにあなたを愛して、恋い焦がれようとも、二度と現れません」
長田の目が熱く見開き、一歩、二歩と、少しずつ近づいた。
咲桜の足も、一歩、二歩と、震えるように後退した。その足が、今まで寝ていた蒲団に触れ、頭の裏に警報が鳴った。するともう、反射的に右足が蹴り出されていた。サッカーボールをどこまでも蹴り上げるようなアッパーキックが、頭の上までブンッと蹴り上げられた。
長田はそれを予期してたのか、さっと身を引いて避けた。
「おっと、絶対安静と聞いてますよ。無理しちゃいけませんぜ」
「指一本でもあたしに触れたら、地獄まで蹴り飛ばすよ」
と咲桜は凄むが、首筋に冷たい汗が浮いている。
それを長田も感じているのか、圧倒的に話し続ける。
「おれも表向きはガードマンですけど、裏ではヤクザまがいのことやってるんですよ。あなたほどではないにしろ、格闘技だってプロ級です。手負いの今のあなたなら、組み付いて締め技で落とすこともできるでしょう。でも、そんなの嫌でしょう?
やさしくしますから、どうか身体の力を抜いてください。おれは、一途にさくらさんを愛し、求めているのですから。さくらさんだって、もう、こんなに大人な身体なんですよ。身体は男を求めているんです。それが人間の欲望なんです。永遠に二人っきりの秘密にします。分かっていますとも・・あなたの好きなあの男は、あなたの妹といい仲なんでしょう? あなたは、あの男を吹っ切らなきゃなんでしょう? さくらさんを心から愛するおれにしか、それはできないんですよ。さくらさんも分かっているはず・・花の命は短いってことを。こんなに熟しているのに、あっという間に、散ってしまっていいんですか? 花の命は短いのに、知らず知らず、散ってもいいのですか?」
咲桜はもう一度右足のアッパーキックを蹴り上げた。かわされることが分かっている蹴り方だったが、ブンッという音が重苦しい震度で部屋の空気を震わせた。
「何と言われようが、あたしはあんたを愛せないから、死んでも身体を許せない」
顔面をえぐるパンチのような咲桜の睨みを、長田はなおも笑みで受け流した。そして熱い抱擁のように見つめて口説き続けるのだ。
「愛せない? やっぱりあなたは処女なんですね? おれの経験では、セックスして娘は女に変わるんです。セックスして、何度も男女一つに結合して、女は男を愛するように変わるんです。身体も心も変わるんです。アオムシがチョウになるくらい変わるんです。おれだって、学生の頃はウブだった。こんなヤクザな仕事をしてますけど、おれ、ちゃんと大学出てるんですよ。奥手だったけど、これでも大学では結構モテたんです。そしてその頃は、愛こそすべて、だなんて思っていた。だけど女を知るにつれて、変わっていった・・愛というのは、人間の本能である性欲から生まれるもんだとね。永遠に生き続けようとする遺伝子の絶対欲求が、愛であり性欲なんです。理科の授業で習いませんでした? おれもあなたも、身体じゅうの細胞の遺伝子に無意識で支配されてるんです。おれはセックスの才能はあるらしくて、女と寝れば寝るほど女に愛されたんだ。でもね、前にも言ったけど、処女はさくらさんが初めてなんですよ。誓って、初めてです。だから、やさしくします。処女でも痛くないように、それどころか最高に気持ちいいように、ゆっくり、ゆっくり挿入します。何もかも忘れて天国へ行けるように、身体じゅうに濃密なキスをしましょう。さくらさんは、もう、処女を卒業しなきゃの身体なんです。そしておれがその最高のパートナーなんです」
いつのまにか長田の顔がキスしそうな危険距離まで迫っていることに気づき、咲桜は思わず左拳を彼の口あたりへ突き出していた。
その瞬間、咲桜にわずかな隙ができていた。
長田はすかさず頭を下げて避けながら、咲桜の身体にタックルした。長田の頭が咲桜の乳房に食い込み、太い両腕が背中にがっしり組まれた。
咲桜は「あっ」と漏らして身をよじろうとしたが、物凄い力で左右に振られ、蒲団の上に組み倒された。
しまった・・・
と咲桜の脳裏で何ものかが叫んだ。
相手が肉食獣なら食われてしまうというような叫びだ。
男の声が耳奥を舐めるように響いた。
「満身創痍なんだから、抵抗しないで。言ったでしょう・・今のさくらさんを締め落とすのは簡単だって。でも、危険ですし、死ぬかも、ですよ。だから、ほら、力を抜いて。おれに身をゆだねて。おれにすべて任せて。こんなに愛してるんだから」
そう言いながら、唇を奪おうと顔を寄せる。
「嫌だあ」
咲桜は死に物狂いで顔を振って避ける。
すると長田は顔を離し、ブルーのパジャマの前ボタンを一気に引きちぎるように怪力の両腕で引き開いた。そのブチッと弾け飛ぶ衝撃に、咲桜の思考は一時停止した。間髪入れず、太い両手が彼女の肌着を首まで引き上げた。そしてもう、白いスポーツブラからはみ出る乳房に、顔を深くうずめていたのだ。男の顎髭が女の敏感な部分をザリザリ刺激した。
「やめろおおお」
と胸奥からの悲鳴が、熟れた唇の間から溢れた。
ピンクに染まりかける乳房に浮き出た青い血管に、咲桜の心臓が怒涛の血液をほとばしらせた。
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