48、敗者の帰路・・・姉妹はなぜ泣くの?

 救急車で運ばれたのは、タイトルを防衛した海田恵の方だ。

 勝者インタビューの前に、意識を失ったのだ。

 それがこの試合の凄絶を物語っていた。

 会場に悲鳴が飛び交い、レフリーを殴り倒した咲桜は、ダークーヒーローらしく、大観衆の非難を数万の毒矢のように浴びながら退場した。

 心身ともに傷だらけの咲桜も、強制的に翔の車に乗せられ、恵が救急搬送された近くの総合病院で、治療と精密検査を受けた。恵も咲桜も、頭部を含め全身内出血に侵されていた。


 絶対安静。

 さもなくば命の危険あり。


 というのが二人に下された診断だ。

 恵は入院。

 咲桜はそれでも翔の車で家へ帰った。

 オレンジのハスラーの運転席と助手席に翔と玲奈、後部座席に咲桜が乗って、敗戦の暗い帰路を揺られた。

 咲桜は前席の二人の会話が気になって仕方なかったが、眠りかけてるふりをしていた。しばしば翔がバックミラーで自分を窺うのを、ひしひし感じていた。

「ねえ、さくら、大丈夫? 気分悪くなったら、すぐに言って」

 と翔に呼びかけられても、わざと眠そうに答えた。

「うん、大丈夫。あたしのことは、気にせんとって」

 すると玲奈が振り向いて言う。

「お医者さんも言ったでしょ・・安静にしてなきゃ、死ぬかもしれないって」

「れな、ごめんね」

 と咲桜は言う。

「何よ? 何言いだすの?」

「れなを大学行かせるために、世界チャンプになるって約束したのに・・あたし、次は絶対勝つからね」

 玲奈はまた振り向いて首を振る。

「もう、いいよ・・お姉ちゃん、あんなに頑張ったじゃない。今日みたいな試合してたら、死ななくても脳に障害負うよ。だから、もういい・・わたし、大学行かないもん。大学行くより、高校卒業したら、しょうのお嫁さんになる方が百倍いいもん」

 咲桜はメデューサの光る眼を見てしまったかのように何も言えず、バックミラーに映る翔に心で訴えた。

 ねえ、しょう、何で何も言わないの?

 翔もちらちら咲桜をミラーで見ている。

 玲奈が続けて言う。

「それに、レフリーを殴り倒して・・お姉ちゃん、どうなるの? もう、二度とタイトルマッチに出れないかもよ」

「あ、忘れてた・・あたし、あやまることさえ、できんかった」

 と咲桜は泣き出しそうな声で言った。

「でも、お姉ちゃんの気持ち、分かる‥今日の試合、お姉ちゃんの勝ちだったもん」

 玲奈の言葉に、咲桜の声色が一変、情緒不安定なヒバリのように乱高下した。

「そうなの? やっぱり、そう? あたしもそう思ったの・・でも、観客たちは、あたしを悪者にして、非難ごうごうだったわ・・めぐみさんのファンが大多数だったから」

 翔が口をはさんだ。

「さくらのファンもいたさ・・おれを含めて」

 あんたがあたしのファンだと言うなら、世界中の誰もがあたしのアンチでもかまわないけど・・・

 と咲桜は言えない言葉を胸の内でささやいていた。

 それでも、あんたのその言葉、あたしには、もろ刃の剣なんだよ・・この胸を突き刺して、真っ赤な血を噴き出させるんだよ・・・

「わたしとしょうとで、お姉ちゃんのファンクラブを創っちゃおうか?」

 なんて玲奈が提案する。

 咲桜はすぐに拒絶した。

「うわあ、やめてよ・・妹がファンクラブの設立者なんて、みじめすぎるよお」

「じゃあ、しょうがファンクラブの創設者であり、会長ってことにするよ」

 と玲奈が言うと、翔が赤信号でブレーキをかけながら首を振る。

「だめだめ。おれは、だめ」

「どうして? しょう、お姉ちゃんのファンって言ったじゃない」

「おれ以外のファンを、おれは応援できない」

「あらあら、迷惑なファンだなあ」

 そう言って、玲奈は運転手の頭をコツンと小突いた。

「痛っ、おまえなあ、空手の選手の拳は、凶器なんだぞ」

 と翔は隣を睨んで、肩を小突き返す。

 咲桜がそんな二人に火を噴いた。

「ちょとお、あんたら、夫婦喧嘩は、あたしのいないとこでやってよ」

 玲奈が振り返って目を丸くした。

「お姉ちゃん、何で怒るの?」

「え? 怒ってなんかいないよ」

 と咲桜は言うが、口調に棘がある。

「顔まで赤くして」

 と玲奈が言うと、翔まで振り返った。

 咲桜は涙が漏れ出ぬよう、しかめっ面で二人を睨んだ。

「ばか、いっぱい殴られて、腫れてるだけだよ。しょう、後ろ向いちゃダメだろ。信号、青だよ」

 翔は前に向き直ったが、信号機はまだ赤だ。

 目の検査もしたのに・・・

 と翔は胸でつぶやき、直視できない咲桜の顔を、バックミラーで熱く見つめた。

 それに咲桜も気づいた。玲奈も前に向き直ったので、咲桜はミラーが割れそうなくらい、ビリビリ男の目を見つめ返した。

 しょう、また、何で何も言わないの? 夫婦喧嘩って言葉、言いたくなかったのに、あたし・・・

「しょう、信号、青になったよ」

 と玲奈が言って、翔の肩を手のひらで叩いた。

「あっ」

 と発して翔はアクセルを踏んだ。

 街の照明がしだいに減り、車は山脈のふもとの道に入った。 

 咲桜は窓の外に目を移した。十三夜の月影に吞まれながら、漏れてしまった涙をこっそり拭いた。

 誰にもあたしの心など、言えやしない・・・

 と咲桜は胸でつぶやいていた。

 でも、あんたにだけは、分かって欲しかった・・いいえ、違う、あんたにだけは知られたくない・・いいえ、違う違う、それも違う・・・

「さくら、泣いてる?」

 と、いきなり翔が問う。

 咲桜はミラー越しにまた翔を睨みつけ、尖った声で言い繕う。

「負けたのが悔しいんだよ」

 玲奈があきれ顔で振り向き、言う。

「会場が洪水になるくらい泣いたのに、また泣くの? この車まで涙で埋もらせないでよ」

 この涙、あんたらには、死んでも見られたくないのに・・・

 と咲桜は唇を噛む。

 なのに涙が勝手に出てくる。咲桜はその蛇口を閉めることができずにいる。

「ちくしょう、あたしのことは、ほっといてよ。お天道様だって、泣くことあるでしょ」

「お天道様が泣いてもほっとけるけど、さくらが泣いたらほっとけるもんか」

 なんて翔が言う。

 涙の蛇口を閉めるどころか、全開にしそうだ。

「あんたあ、わざとそんなこと言って、隣のれなに、嫉妬させたいの? この女たらしが」

 と咲桜はもう一度ミラーに映る翔を睨み、低い声で言う。

「女たらしでも、何でもいいけど、さくらが泣いたら、ほっとけないだろ」

 と翔は暴走する。

「わあ、れな、こいつ、きざなセリフばっかり。絶対こいつ浮気者だよ。早くしょうを殴っちまえ」

「ばか、今殴ったら事故っちゃうよ。みんな、天国行きだよ」

 翔がそう注意しても、咲桜は泣き混じりの怒り声で言う。

「天国じゃなくて地獄だろ? この男、女の嫉妬を甘く見てる。嫉妬の角で車を突き破って、三人一緒に地獄に堕ちようぜ」

 ふいに玲奈も泣き出した。

 声を上げて泣く玲奈の急変に、翔は押し黙ってしまった。

 咲桜は自分の涙を拭いて、半泣きの声をかけた。

「れな、ごめん」

「何で、お姉ちゃんがあやまるの?」

 と玲奈も裏返った声だ。

「あたしが、変なこと、言ったから」

「変なことって?」

「あ?」

「わたしがなぜ泣くか、分からないでしょう? ううん、分かるの? 分かるのね?」

「え?」

 身を引き攣らせ病的にむせび泣く妹に、咲桜は漏れ落ちる涙をもう拭きもせず、

疑念を巡らせた。

 そして思わず、こう問いかけそうになったのだ。

『れな、しょうと幸せじゃないの? ふたりに、何があったの?』

 翔も大声で泣きたかったが、押し黙ったまま帰路を急いだ。追いかけても追いかけても届くことのない十三夜の月影を、夜風を突き抜け、超えるようにアクセルを踏んだ。もうすぐ満ちようとしている月が、どんなに泣き叫んでも届かない月が、今、闇の中、すぐそこに見えている。

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