39、酔わせて身体を奪う大作戦はセイコウするの?
新樹山の神社横の展望台から、咲桜は故郷の町を遠く眺めていた。
山の下には中学校や高校、そして大学も見える。離れた所にはショッピングセンター、さらに遠くに私鉄の駅、市役所のビルが見え、その向こうにJRの駅・・・大河の向こうの咲桜の借家は、もう霞んで見えない。
「やっぱり、さくらだ・・」
と不意に声をかけられた。
同時に肩も軽く叩かれ、咲桜はビクッと震えた。横を見ると、翔が嬉しそうに笑っている。
「晴れ着で着飾っている女性も多いのに、上下黒のトレーナーだから、遠くからでも一目で分かったよ」
と言う翔は、裾の長い紺のコートを着ている。
大好きな笑顔が朝陽に映えるのに、咲桜の顔はこわばっている。話しかけられただけで、泣きそうなのだ。
「寝起きのままの格好で、ここまで走ったからね。汗臭いから、近寄らないで」
と咲桜が言っても、翔は目の前で笑顔を止めない。
「知らなかったの? おれ、ずっと昔から、さくらの汗の匂い、狂おしいほど好きだと」
「この展望台から、山のふもとまで、蹴り落してやろうか」
と咲桜がつのを出した時、ピンクのウインドブレーカー姿の玲奈が駆け寄って来た。
「しょう先生、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いしまーす」
玲奈は満面の笑みでそう挨拶しながら、怯む翔の胸へ飛び込んで、腕を捕獲した。
「え? ああ、れなも、さくらも、明けましておめでとう。今年もよろしくね」
と翔も姉妹の目を交互に見ながら挨拶した。
玲奈はすぐに絡めた腕を引いた。
「しょう、お参りしよう・・わたし、しょうの幸せ、お願いするからね」
あたしが世界チャンプになることをお願いするって言ったじゃない・・・
と咲桜は心で叫んだが、黙って二人について行った。
手水舎で手を清め、門をくぐって本殿の賽銭箱へ小銭を投げ、玲奈が鈴を鳴らした。
そして咲桜は玲奈の、玲奈は翔の、翔は咲桜の幸福を祈ったのだ。
境内の門から出ると、翔が咲桜に聞いてきた。
「正月は、何するの?」
咲桜は翔の顔を見れない。
れながいるのに、あたしに話しかけちゃダメなのに・・・
と心でつぶやき。冷たく言い放つ。
「三日まで仕事が休みだから、ジムで練習に決まってるだろ」
横から玲奈が口をはさんだ。
「あら、今日は、ジムは休みなんじゃない? 帰って、お雑煮、作ってくれるんだよね?」
「今日だけ、ランニングで終わりさ。そうだね、早く帰って、お雑煮、作らなきゃ。先に行くから、二人はゆっくりしていいよ」
と言って、駆けだそうとする咲桜の腕を、玲奈が慌ててつかみ、翔から離れた場所へ引っ張った。
「え? 何?」
と問う咲桜に顔を近づけ、玲奈が言う。
「お姉ちゃん、お願い・・わたし、これから、しょうと二人ドライブして、三社参りしたいの。だから、わたしの自転車、乗って帰って・・ランニングなら、午後からでもできるでしょう?」
圧倒的な目力に押され、咲桜は後ずさっていた。
「分かったよ・・鍵のナンバーは・・そうだ、1715だったよね? じゃあ、ゆっくり帰ってきな」
そう言って、涙が溢れる前に背を向け、階段を駆け下りた。
獣のような速さで下りの人道を疾走する咲桜に、参拝の人々が驚きの声を次々にあげた。
妹の自転車で借家に帰り着くと、咲桜は鍋に水を入れ、火にかけ、三日前に買っておいた乾燥スルメと昆布を細く切って入れた。鰹節とだし汁を入れ、シイタケを入れ、小松菜を入れ、蒲鉾を入れた。あとは玲奈が帰ったら、餅を焼いて入れるだけだ。
どうせ玲奈は遅く帰るだろうと思い、咲桜はお餅を一個だけ焼いて食べた。
食べながら、新樹山の上で出会った健という中年男性を咲桜は思い出していた。
「あの野郎、れなを何回抱いたんだろ?」
と独り言を発していた。
「なのに、あたしを誘いやがった・・ああ、何て汚い男なんだ。れなとハワイ旅行に行きたいだってえ? れなはどうしてあんな男を、特上、だなんて言う? ほんと、サイテー男なのに・・だけどれなには大好きなしょうがいるから、淫らな生活には戻らないんだよね? それで、いいんだよね? それしか、ないんだよね?」
たった一個の焼き餅が、なかなか喉を通らなかった。
それから約一時間後に、玲奈は翔の車で帰って来た。
そして玲奈は、当然のごとく翔を家に上げた。
おせち料理も買ってきていた。
それだけじゃなく、日本酒も一升瓶で買ってきていた。
咲桜は玲奈の腕を引いて聞いた。
「何でお酒なんか、買ってくるの? あんた、未成年だし、あたし、飲めないし、しょうだって車だから、飲んじゃダメでしょ?」
玲奈は逆に咲桜の腕を取って、さらに翔から遠ざかり、玄関の外まで出て、言う。
「お姉ちゃん、一生のお願い。協力して・・翔を酔わせて、今夜、うちに泊めたいの。今日が、わたしの人生最大の勝負なの」
「はあ? あんた、何言ってんの?」
拒絶反応の咲桜を残して、玲奈は翔の元へ、いそいそ戻っていく。
咲桜も是非もなく家の中へ戻り、餅を焼いて鍋に入れ、雑煮を煮込んだ。
玲奈は卓袱台におせちを乗せ、コップに日本酒を注ぎ、さっそく翔に勧める。
「おれは、車だから、酒はだめだよ」
と翔は言うが、
「お正月だよ、しょう、酔ったら、泊っていけばいい」
と玲奈は引かない。
「えっ? いいの、泊っても?」
翔は咲桜を見るが、彼女は背を向けて無言だ。
玲奈が笑いながら言う。
「もちろん、しょうならいつでも泊っていいよ。わたしらウエルカムだよね、さくら姉ちゃん」
咲桜はお椀に入れた雑煮を卓袱台に運んだ。なおも言葉を失ったままだ。
玲奈は咲桜にもコップ酒を注いだ。
「さあ、お姉ちゃんも、ここに座って、お酒飲んでよ。じゃないと、しょうが飲めないでしょ」
咲桜は言われるまま、翔の正面に座った。そしてコップ酒を手に取ると、透明な液体を悪魔を見るような目で睨んだ。
翔が問う。
「さくら、お酒、好きなのか?」
咲桜は揺れる液体から視線を動かさずに言う。
「知らない・・飲んだことないから」
斜め横の玲奈が右手を差し出して勧める。
「今日はお正月よ。最初の一杯は、一気に飲み干さなきゃダメなのよ。さあ、飲んで。お姉ちゃんが飲まないなら、わたしが飲んじゃうから」
咲桜の身体は長距離を走って水を欲していた。
うん、これは水だ・・あたし、とても喉が乾いてるんだ・・・
そう自分に言い聞かせ、飲んだ。
液体が口に入った瞬間、水でないことが舌から頭、そして胸へと痺れるように広がった。すぐに吐き出したくなったが、やけになって、ごくごく飲み干した。
「フハー」
と声を漏らし、コップを卓袱台に置いた。
人は何でこんなまずいものを飲むんだよ?
と思っていると、喉も顔も胸も温かくなって、しだいに気分がポオーと揺らいできた。
「さあ、今度は、しょうの番よ。飲まなきゃ、正月、始まらないんだから」
と玲奈が言う。
「また。意味の分からないことを言う」
と翔は言ったが、頬がピンクに染まっていく咲桜を見つめながら、コップ酒を一気に飲んだ。
「うわあ、二人とも、イケるじゃない。すごーい・・じゃあ、お姉ちゃんと、しょう、どっちがお酒強いか、勝負だね。負けた方が、勝った者の言うことを聞くことにしよう」
と玲奈が提案して、二人のコップに酒を注いだ。
咲桜は注いでる途中で拒否した。
「あたしは嫌よ。お酒、飲んだことないって、言ってるでしょ」
「あら、しょうに勝つ自信ないのね。だったらいいよ・・わたしがしょうと勝負するから」
玲奈の手に握られたコップ酒を、咲桜は奪い取り、宣言した。
「冗談じゃない、あたしがこんなやわな男に、負けるわけないだろう」
やけのやんぱち、妹を恨むような目で睨んで、ぐ、ぐ、ぐいーと飲み干した。
「おー、すごーい、さくら姉ちゃんの勝ちかな?」
と玲奈は翔を横目で見る。
翔は咲桜を見つめて首を振り、黙って一気飲みした。
すかさず玲奈は二人のコップを酒で満たす。
・・・・・・・・・・・・・・・・
どんな思いが二人をこんな泥仕合にのめり込ませたのだろう。一升瓶が空になると、玲奈はタンスの奥に隠していたウイスキーをコップに注いだ。
「なーんだ、これ? あはあ、もう、これ、絶対水の色じゃないじゃない」
と琥珀色の液体を虚ろな目で見ながら咲桜は言う。
「水よ。水。お姉ちゃん、酔っちゃって、目が悪くなったの?」
と言って、玲奈はウイスキーを勧める。
「はあ? 酔ってにゃんか、にゃいわ」
と猫語も混ぜて咲桜は言い、一気に喉に流し込んだ。日本酒より、さらにまずくて、強烈だった。
玲奈が、翔が、部屋が、斜めに回った。それでも「へへへ」と笑いながら耐えていた。
それから、翔もその琥珀色を一気飲みするのが見えた。その翔がぼやけて二人になり、三人になり、どの翔もふらふら酔い潰れそうだった。
へへへっ、あたしの勝ちにゃあ・・あたしの勝ち・・・
そう笑う咲桜の手に次の一杯が渡された。そして咲桜は、それを飲む途中で意識が途絶えたのだ・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
どれくらい時間がたったのだろう。
胸を突き破るような吐き気で、目を覚ました。
何だ、これ? トイレで吐かなくちゃ・・・
と思ったが、世界がぼやけ、ゆっくり回って、立ち上がれそうにない。
我慢できず、必死にうつ伏せになって、畳に吐こうとした。だけど胸奥につかえて吐けない。ただ苦しいだけだ。
ああ、にゃんだ、こりは・・・
目の前がぐにゃりと動転する中で、何か気配を感じる。本能のようなものが何か危機を感じている。
どうにか横向きになって、目を凝らした。
カーテンがすべて閉じられ、薄暗いが、まだ昼のようだ。
ぼやけている視界の奥に何かが揺れている。
誰かの背中のようだ。
咲桜の身体がピクッと震えた。
ベッドの上にいるのは自分ではないか。
そうかあ、こりは、夢にゃあ・・・夢で、あたしがあたしを見てるのにゃあ・・・あれっ? どうしてあたし、服を脱ぎだすの? ああ、いけない、あたしも、ベッドまで行かなくちゃ・・・どうしても、行かなくちゃ・・・
そう身体じゅうに電気が走るように感じたが、立ち上がれそうにないので、シャクトリムシのように進んだ。
ベッドの上の女は、下着も脱ぎ、豊満な肌をさらけた。
彼女の下には、全裸の男も仰向けに横たわっていた。
ふいに女は振り向き、幽霊を見るように目を見開いた。
「うわ、さくら、びっくりさせんでよ。起きたの? ねえ、邪魔だから、どっか行って? え? ねえ、どうしてあんたも脱ぎだすの?」
と彼女は言う。
「うふっ、うふふふ・・」
と奇妙な笑い声を漏らし、咲桜は黒のトレーナーを脱ぎ、シャツも脱ぎ、下着もすべて脱いでしまった。
「うわあ、お姉ちゃん、どうしちゃったのお? もしかして、酒癖、最悪?」
「お姉ちゃんって、あんた、あたしにゃんでしょ? これ、あたしの夢よね? この男、誰? もしかして、しょう? うわーい、しょうもはだかだあ。はだかのしょうが、いっぱいいるう」
そう言って、咲桜はピンクに火照らせた身体を、ベッドに這い上がらせた。
玲奈は咲桜へ向き直って、両肩を抑えた。
「お姉ちゃん、酔ってるのよ。これは夢じゃないわ。わたしの人生最大の大作戦なの。だから、邪魔しないで。今すぐ消えて」
玲奈を見る咲桜の目は、恐ろしいほど据わっている。
「にゃーんだってえ? あたし、酔ってにゃんかにゃいにゃい・・えへっ、あたしも、人生最大の大作戦を、実行いたすのにゃあ」
咲桜の左拳が一閃した。突然の左ジャブに不意を突かれ、玲奈はまともに顎に食らってしまった。酔っぱらいの左ジャブでも、プロのパンチは凄まじく、玲奈はベッドから転げ落ち、壁に頭をゴンッと打ち付け、意識が飛んだ。
「うふっ、うふふふ・・」
と笑う咲桜の視界の中で、たくさん見えていた翔の裸体が一つになった。
「わーい、しょうだ、しょうだあ・・しょう、大好きー」
と発すると、咲桜は怒涛となって翔に覆いかぶさり、その勢いのまま唇にキスをしていた。
長く続く熱烈すぎるキスのあまりもの息苦しさに、翔の目が叫ぶように見開いた。
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