38、二度と前みたいな生活に戻らんと約束しなさい

「さくら、しょう先生の心に決めた人って、誰なの? 知ってるんでしょ?」

 新年の朝、咲桜の頬をパシパシ叩いて眠りから覚ましたのは。玲奈のその問いだった。

 咲桜はびっくりして飛び起きていた。見ていた夢も、一瞬にして無意識の裏へ消えた。

「何なの? れな、新年早々の第一声がそれなの?」

「気になって、眠れんかったのよ。教えてよ」

「どうしてあたしが知ってるのよ? 知らないよ」

「嘘だね・・嘘じゃないなら、ちゃんとわたしの目を見て答えなさいよ」

 咲桜は仕方なく玲奈の目を見ようとしたが、その瞳の真摯さに撃たれて、頬が燃えるのを気づかれる前に、頭から布団をかぶって寝込んでしまった。

「もう、知らない、知らない・・昨日までのトレーニングと試合で、疲れてるんだから、今日くらいゆっくり寝かせてよ」

 玲奈は布団をめくろうとするが、姉は信じがたい力でそれを阻止する。

「じゃあ、昨日言った、キスならしたわ、ってどういう意味よ? 何でお姉ちゃんがそう言うのよ? もしかして、しょうが心に決めた人って、まさか・・」

 布団の上から叩きつけてくる爆弾のような言葉に、咲桜も思わず声を荒げた。

「そんなわけないでしょ」

「そんなわけないでしょ、って、何がそんなわけ、なの? ねえ?」

 咲桜はサナギのように黙り込んだ。

 玲奈は布団をめくるのをあきらめて、狙いを定め、両手の指を布団の上から姉の身体へクネクネ食い込ませた。

「やっぱりそうなの? 昔みたいに、お姉ちゃん、しょうと仲良くなったの?」

「だから、そんなわけないって言ってるの。ちょっとやめてよ、くすぐったいよ」

「やめるもんか。お姉ちゃんが、ちゃんと目を見て話してくれない限り、くすぐり殺してやる。ほら、ほら・・」

 こらえきれずに咲桜は布団から飛び出した。

 立ち上がると、玲奈の顔を見ずに、

「新年だから、初詣に行かなくっちゃ」

 と咲桜は言うと、流しへ行って顔を洗う。

「お姉ちゃん、顔、トマトみたいに真っ赤じゃないか。やっぱり、そうなのか?」

 妹の問いを、

「ばか、こんな顔になったのは、あんたがメチャクチャくすぐったからじゃないの・・帰ったら、お雑煮作ってあげるから、待っててね」

 と咲桜はごまかし、寝起きの黒ジャージ姿のままそそくさ玄関へ歩く。

「逃げるのかあ? 初詣って、どこに行くのよ?」

 と玲奈は赤い頬を睨みながらついて行く。

「新樹大社まで」

「ばか野郎、お雑煮、作ってから行きなよ。どうせ新樹山までランニングで行く気だろ? 山登りも走りだろうから、四時間は帰って来ないね。おいおい、お腹をすかせた妹を見捨てて行っちゃうのかあ? やっぱり逃げるのかあ?」

 必死で呼び止める玲奈を、身体にまとわりつく重い鎖を引きちぎるように振り切って、咲桜は家を飛び出して走る。

 元日も、ランニングからのスタートだ。

 キラキラ波が揺れる大河をまたぐ大橋を渡り、朝陽に映える新樹山に向かって、走る、走る。

 絶望から希望へと、走る、走る。

 JRのガード下をくぐりながらつぶやいていた。

「元日、初詣のランニングなんて、刑務所暮らしではできんかった・・ああ、何て素敵なことだろう・・幸せだった昔のように、しょうと二人、走れたら、どんなにいいだろう・・」

 いつしか彼女の耳奥に、足音が聞こえていた。翔の軽やかな足音が。それは幻。それでも咲桜に生きる力を与える。

 息遣いも聞こえた。翔のやさしい息遣いも。それも幻聴。それでも咲桜の身体じゅうに真っ赤な血を駆け巡らせる。

 すぐ隣に、翔の走る姿も感じていた。横を向くと、温かく微笑んでくれる。それも幻影。それでも咲桜の手を取ってどこかへ導こうとする。

「しょう、ここに来ちゃだめじゃない」

 と咲桜は叱る。

 街の中心に東西に伸びる大通りの歩道でも、元旦の早朝は人通りがまばらだ。

「一緒に走ろうって、さくらが言ったんだ」

 と翔は言う。

「でも、二人で走ってるとこ、れなに見つかったら、誤解されちゃうよ」

 通りすがりの母と男の子が、咲桜の独り言に思わず振り返る。

 翔は言う。

「誤解なもんか。おれの心に決めた人は、ただ一人なんだから」

「だめだってえ。それを言っちゃだめ」

 咲桜は涙目で首を振る。

「どうしてだめなの? さくらだよ・・おれがずっとずっと好きなのは、さくら、ただ一人だよ」

「だめだって、言ってるでしょ」

 と叫ぶ咲桜の背を、突然、後ろから玲奈の声が襲った。

「お姉ちゃん、誰と話してるの?」

「キャッ」

 衝撃のあまり、咲桜は雷に撃たれたように腰を抜かしてしまった。

 しゃがみ込んだ咲桜の横に、自転車で追いついた玲奈が停まった。玲奈は上下ピンクのトレーニングウェア姿だ。

「ああ、やっと追いついた。お姉ちゃん、走るの速すぎ。でも、どうしてそんなに驚いてるの? わたし、お化けじゃないよ。あら、泣かなくてもいいじゃない」

 咲桜は、差し出された妹の手を取らずに立ち上がった。

「れな? あんた、本物?」

「何、それ? わたしを幽霊みたいに言わないでよ。怖いじゃない」

「どうしてここにいるの? ビックリさせないでよ」

 そう言いながら、咲桜は黒い袖で涙をぬぐう。

「むかしむかしの話だけど、わたしら、家族で初詣に行ってたじゃない。わたしが一緒じゃイヤなの?」

 咲桜は笑顔を作って首を振った。

「ううん、一緒に行ってくれるのね。嬉しいよ」

「じゃあ、レッツゴー新樹山。世界チャンプになるために、わたしについて来な」

 そう言って、玲奈は先に自転車で走りだした。


 私鉄の駅前繁華街を越え、スポーツ公園を過ぎ、図書館横を通り、大型商業施設を抜け、高校や中学校の塀沿いを走り、遠くに見えていた山地がしだいに大きくなっていった。


 山道は歩道と車道に分かれている。どちらの道も、初詣の人が多かった。

 玲奈は自転車を空き地に留め、スマホで誰かに電話していた。

 それから咲桜と二人、歩道を駆け上った。

「ねえ、お姉ちゃん、しょうも、初詣、来てくれるって。一緒にお参りしていいでしょ?」

 と玲奈は言う。

「家族で初詣って、言ったじゃない」

 と咲桜は声を荒げる。

「何で怒るのよ? わたしが彼と結婚したら。しょうも家族になるよ」

 姉を睨んだ玲奈が、不規則に並んだ岩につまづいて、転びそうになる。

 咲桜がとっさに手を差し出して玲奈を支えた。

「ちゃんと前を向いて走らなきゃ、ケガするよ」

「ケガしたら、しょうに手当てしてもらうから、それもいいかも」

 咲桜は突き放すように手を離した。

「はあ? 顔から岩に突っ込んで、妖怪みたいな顔になって、しょうにふられろ」


 たくさんの登山者たちを、二人は先を争うように追い越していった。


 山の上の新樹大社の近くには、初詣客目当ての出店がいくつも並んでいた。

「お腹減ったよ。しょうが来るまで、何か食べようよ」

 と言って、玲奈が咲桜の顔をつぶらな瞳で覗き込む。

 咲桜は首を振った。

「財布、持って来てないよ。帰って、お雑煮作るんだから、それまで我慢しなさい」

「財布、ないって・・お賽銭、どうするの?」

「あ、それ、忘れてた。れな、持ってるなら、貸してくれる?」

 姉を見つめる玲奈の目に角が立った。

「賽銭箱には、葉っぱでも投げときな」

「あたしゃ、タヌキかい? いいよ、しょうに借りるから」

 玲奈の目が錐のようにとんがったが、やがてポーチから小銭入れを出し、五円玉を姉に差し出した。

「ちぇ、仕方ないなあ。あげるよ。ほら、まだ酸化してないピカピカの五円だから、ご利益あるよ」

「ありがとう。神様には、ちゃんとれなの幸せ、祈るからね」

「わたしの幸せは、五円かあ・・じゃあ、わたしは、十円で、お姉ちゃんの世界チャンプをお祈りするよ。十円で世界チャンプになれたら、お姉ちゃん凄いよね」

 神社の本殿の方へ歩いて行くと、向こうから歩いて来た男の目が驚きに輝いた。

 嬉しそうに近づいて来て、玲奈に話しかける。

「みくるちゃん、わあ、みくるちゃんだあ。おれだよ、けん、だよ・・」

 茶髪だが、高級スーツを着た五十代くらいの紳士だ。

 玲奈は立ち止まり、頭を下げた。

「あら、けんさん、明けましておめでとうございます」

「ああ、明けましておめでとうございます。ずっと会いたくて、連絡していたのに、どうして返事をくれなかったの?」

 じっと瞳を覗き込む健を、玲奈も見つめ返した。

「けんさん、ごめんなさい。じつはわたし、彼氏ができて・・今、彼氏にぞっこんなんです。だから、今は、けんさんとお付き合いできないんです」

 健は少し眉をひそめたが、すぐに笑顔を作り、

「そうかあ。残念だなあ。この正月、みくるちゃんとハワイにでも行きたかったのになあ。じゃあ、もし、彼氏と別れたら、おれと二人で旅行してくれる?」

 玲奈は瞳を輝かせた。

「わあ、もちろんですよ。彼氏と別れたら、すぐに連絡しますから」

「ところで、お隣さんは、お姉さん?」

 と、健は一緒に立ち止まっている咲桜に問う。

 黙ったまま男を睨む咲桜の代わりに、玲奈が答える。

「ええ、姉です。似ているでしょ? 姉は今、彼氏いませんから、わたしの代わりにお付き合いされます?」

 健の瞳が咲桜を熱く見つめた。

「ああ、よく似てらっしゃる・・そうだ、思い出した・・一度、おれの電話に出られましたよね? お会いできて、嬉しいです。みくるちゃんもああ言ってますし、ここで会ったのも何かの縁・・もしよかったら、一度、お食事しませんか? 今からでもどうです?」

「今から、お参りしますので」

 と咲桜は断った。

 男は笑って、

「もちろん、お参りの後で」

「お参りしたら、家に帰って、お雑煮作らなきゃ」

「お雑煮ですかあ。いいですねえ、じゃあ、また今度・・」

 健は軽く頭を下げ、人込みの中へ去って行った。

 玲奈がつまらなそうに言う。

「お姉ちゃん、あの人と付き合えばいいのに。あの人、特上だよ・・マンションだって何でも買ってくれるし、そしたら毎日風呂付の部屋で快適に暮らせるし、わたしの学費だって払ってくれるし、セックスだって上手だよ・・あっ」

 バチッと音がして、玲奈の頬が赤くなった。咲桜が叩いたのだ。

 周りの人々が姉妹に注目した。

「痛えなあ。正月早々、何してくれるんじゃい?」

 と玲奈が憎悪の目を姉に向ける。

「あんた、二度と前みたいな生活に戻らんと約束しなさい」

「戻らんよお。わたしにはしょうがいるもん」

 玲奈は咲桜を叩き返そうと手を上げて、止めた。姉の目が本気すぎた。

 妹のプルプル震える右手を見て、咲桜は言う。

「いいよ、叩き返して・・身体を売るような生活には、絶対戻らないと約束するなら、思い切り叩き返して、さあ」

 玲奈の前に丸い左頬を差し出した。

 なのに玲奈は頬を膨らませると、ぷいと背を向けて歩き出したのだ。そして本殿へ続く長い石段を、人々を追い越しながら先に登った。


 












 














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