37、その歳で処女なんて悲しいでしょ?
控室から飛び出した咲桜を、近くで見張っていたのか、一人の男が慌てて追いかけた。三十歳くらいの顎髭の男だ。咲桜と同じように上下黒っぽいウインドブレーカーを着ていて、茶色の帽子をかぶっている。
咲桜は見えない魔物に追われるように東京ドームを駆け出て、どこまでも走って行く。男も体力があり、息も切らせず追い続ける。
駅まで走り、咲桜は一人で帰りの切符を買った。
ホームで駅ソバ屋を見つけ、運命に導かれるように中に入った。
かき揚げソバの食券を買い、食べた。
「キスならしたわ」
と思わず告白してしまったこと・・そのことが咲桜の心を内部分裂させるように炎上させていた。
夢の中だと思って翔の唇を奪った長いキス・・忘れることができない永遠のファーストキス・・それを思い出すたびに咲桜は気が変になる。
「ああ、あいつは言うのね・・おれには心に決めた人がいると・・」
ソバを食べながら、ぼそぼそ独り言を言った。
「だから、れなとは、セックス、してないと・・ああ」
近くで立ち食いソバをすする男が、聞き耳を立てながら咲桜にすり寄った。東京ドームから追いかけてきたあの男だ。
咲桜は彼が目に入らない。
「でも、あたし、どうしたらいいの? ああ、れなを裏切ることなんて、絶対に許されないのに・・ああ、それでもあたし・・」
ふいに隣の男から話しかけられた。
「さくらさんも、一人で年越しソバですか?」
「えっ?」
咲桜が横を向くと、茶色い帽子をかぶった三十歳くらいの濃い顎髭の男が笑いかける。
「おれも、一人年越し、なんです。よかったら、これから、もっとおいしいもの、食べませんか? ごちそうしますよ」
咲桜は首を振りながら怪訝な目を男に向ける。
「何であたしの名を知ってる?」
「まさか、おれのこと、お忘れですか? おれは死んでも忘れないのに・・さくらさん、何度もおれの夢に出て来て、おれを苦しめているのに」
と男は言って、くわっと目を見開き咲桜を見つめた。
咲桜も負けずに目を見開いた。
「あっ、おまえは、山田さだおの部下の、あの茶髪だった・・」
「お、さ、だ、ですよ。そう、茶髪でした。今はこんな黒髪に黒髭ですけどね。あなたにタマタマを潰された、長田です」
ギラギラした目で笑う。
咲桜は眉をひそめる。
「何でここにいる?」
「何でって、年越しソバを食ってるんですよ。そしたら、偶然にさくらさんに出会った。大晦日に、こんな偶然あるでしょうか・・わたしとさくらさんは、もしかしたら、運命の相手かもしれないですね。この出会いは、もしかしたら、奇跡の出会いなのかもしれない。そう思いませんか?」
咲桜はなおも首を横に振った。
「思うわけねえだろ」
男の笑みは消えない。
「だって、三年後、おれたちは仲の良い友人になってるかもしれない。もしかしたら、仲の良い夫婦になってるかもしれない。おれは以前、さくらさんを一目見た時から、そう感じたんですよ」
「ふざけんなよ。あたしの処女を奪おうとしたくせに。それに、あたしには、運命の人が、すでにいるんだよ」
と男の目を睨みつけ、咲桜はきっぱり言った。
それでも男は「あはは、あはは・・」と声を出して笑う。
「そうですよねえ・・あなたみたいな魅力的な女性にお相手がいないなんてありえないですよね・・お相手は、あの、山上しょうという、教師ですか?」
咲桜の頬がヒクヒク引き攣った。
「な、何で、そのことを?」
「さくらさんのことは、いろいろ調べさせてもらったんですよ。何せ、おれの大事なものを潰した人ですから・・今日の東京ドームの戦いも、観戦させていただきましたよ。凄すぎる闘いでした。山上先生も、リングサイドにいましたよね。二人は、いい仲なんですよね? ただ、さきほど、さくらさんの独り言が耳に入ってしまって・・訳ありみたいなので声をかけさせていただきました。わたしでよかったら、相談に乗りますよ」
「はあ? あたしの独り言?」
咲桜は頬が熱くなるのを感じた。
「へへっ、聞こえちゃったんですよ・・妹のれなさんと、三角関係なんですか?」
上目づかいに笑う長田の目が咲桜の心を覗き込む。
「おまえ、また、タマタマ潰されたいのか?」
長田は反射的に自分の股間を手のひらで覆い、恨めしそうに咲桜を見た。
「やめてくださいよ。もう、両方とも潰されてますよ。あの時は、地獄の痛みで、心臓が止まりかけたんですから・・睾丸破裂で、緊急手術で、本当に死にかけた・・さくらさん、もう少しで、二度目の殺人罪に問われるところだったんですよ」
殺人罪、という言葉に、咲桜の頬がまた震えた。
「そ、そうなのか? でも、だいたい、おまえたち、刑務所にいるって聞いてるのに、何でここにいるんだよ?」
長田はまた笑ったが、その頬も引き攣っていた。
「へへっ、そうですよ・・社長も、仲間たちも、さくらさんの両親を殺した罪で捕まってますよ。でも、おれは、三年前に山田社長の部下になったんで、罪はないでしょう? 殺した話は聞いていましたけどね」
「本当なのか? 本当に、あいつら、あたしのお父さんとお母さんを殺したのか? そうなんだな? ちくしょう、必ず仇を討ってやる」
目が血走ってきた咲桜を、長田はフッと息を吐いて笑う。
「かたき討ち、ですか? 山田社長は、あなたに息子を殺されたかたき討ちで、あなたの両親を殺したんですよ。まったく戦争は戦争を呼ぶってやつですね? まあ、社長だって、刑務所から出てきたら、またさくらさんを殺そうとするでしょうけどね。まったくこの世は戦場だ。でも、だったら、おれだって、タマタマを潰された仇を、さくらさんに討っても、許されるんですか? さくらさん、おれに悪夢を見続けさせ続けている責任、とってくれますか?」
毒を吐く寸前の蛇のような目で、長田は咲桜を睨みつけた。
「責任って・・あたしは、おまえに犯されそうになって・・正当防衛じゃないか」
「おれはね、あなたと、一発やりたかった・・あなたに惚れてたからね・・もっと言えば、あなたと子作りしたかったんだ・・もう、かなわぬ夢だけどね。でもね、子作りはできなくても、性欲はあるし、勃起もする。あなたがびっくりするくらい、りっぱに勃起しますよ。試しに触ってみますか? だから、せめてこれからは、おれと仲良くして欲しいんだ。そしていつか、おれに一発やらせて欲しいんだ。それができたら、おれ、死んでもいいくらいだ。それができたら、おれの悪夢も消えるかもしれないし」
咲桜は長田を殴りそうな目で睨みつけた。
「あんた、いつかあたしの、喉を掻っ切るかもしれないのに、仲良くしろと? そのの上、一発やらせろと? はあ? 懲りない男だな」
長田は少しもひるまずに咲桜の目を真っ直ぐ見返している。
「へへっ、さくらさん、さすがに賢いですね。そう、確かにおれは、恨んでる。その美しい喉を掻っ切って殺したいほど恨んでる。でもね、へへっ、殺したいほどあんたが・・おれはあんたが好きなんだ。だいたい、さくらさん、いくら長年女子刑務所にいたとしても、その歳で、処女なんて、悲しいでしょ? そんなに身体は熟しているのに、そんなにエロい身体をしてるのに、経験しなくちゃ分からないこともありますよね? おれなら、妊娠の心配もないし、安心して処女を卒業できますよ。それだけじゃない。おれのテクニックはプロ並みだから、さくらさんを、夢中にさせてあげれますよ。そしたら、一つ大人になって、妹さんとの三角関係で、悩まなくてよくなるはず・・ふっきれるはず・・後悔はさせませんから」
長田の目が咲桜の瞳の奥に燃えるように食い入った。そして、臆病な猫を撫でるように、そおっと伸ばした右手で咲桜の左手の白い指に触れてきた。
咲桜の指から肩がピクッと震え、逃れようとしたが、男のごつい指が瞬時に絡んで離さない。
「あ?」
とだけ声が漏れ、何かの術にかかってしまったように、咲桜は言葉を失っていた。
指先から伝わる熱が、身体の力も奪い、身動きも奪われていた。
男は微かに微笑み、絡んだ指をすっと引いて、濃い顎髭に触れさせた。白い指の甲が髭にこすれ、ザワザワした電流のような刺激に咲桜は身をこわばらせた。
「おれの髭も、エロいでしょう? 女を狂わせるために伸ばしたんですよ」
長田はそう言うと、指と指との隙間へ突然舌を突き入れた。
その瞬間、指間から背筋への電流は稲妻となって咲桜を突き抜け、「ウワー」と悲鳴に似た叫びが彼女の口から漏れていた。だが、それより先に、彼女の右足が反射的に男の左脛を蹴り砕いていたのだ。鍛え抜かれたローキックの想像を絶する威力に、長田はもつれた指を一瞬で離し、この世も終わりというような悲痛なうめき声をあげながら撃沈した。
涙目でのたうつ長田を、咲桜も涙溢れそうな目で睨みつけ、
「気安く触るんじゃねえよ、この痴漢野郎・・今度、あたしの前に現れたら、次は地獄まで蹴り落してやるからな」
と唾を散らしていた。
咲桜は全身から炎がほとばしるようだった。酔ったようにふらつきながら、駅蕎麦屋から逃げ出し、ホームに停車している下りの急行電車へと入って行った。
座席はほぼ人で埋まっていた。
列車内に続々と人々が乗り込んで来て、咲桜を取り囲んだ。
電車が動き出す前から、周りの男たちが痴漢に見えた・・斜め前の髭面の男も、正面のスキンヘッドの男も、その左のりっぱなスーツ姿の紳士も・・・咲桜は鋭い牙で咬みつくように睨みつけた。その目は地獄を見るような怖い目つきになっていった。
電車が動き出しても、咲桜の首から頬、頬から耳まで、ピンクに染まったままだった。
誰か触ってきたら、キックの百連発で、地獄に蹴り落そう・・・
と咲桜は熱病にうなされるように心に決めた。
思い出したくないのに、長田の言葉がいやおうなしに胸から頭へ次々フラッシュバックされる。
揺れる吊革を握りしめる左手に、脂汗がにじんだ。
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