36、キスならしたわ

「今夜は、さくらの勝利の祝いだ。大金も入ったし、さくら、焼き肉でも寿司でもカニでも、好きなもの、食べるぞ。何がいい?」

 と控室で龍一が言う。

 黒いウインドブレーカーを着た咲桜は、満月のような目で龍一を睨みつけた。

「ばかコーチ、あたしが欲しいのは、ごちそうじゃなくて、お金に決まってるだろ。でも大晦日に食べたいものはあるよ。七年間、刑務所での年越しそばは、インスタントのカップ麺だった。だから、今年こそ、本物の手打ちの年越しそばが食いてえな」

 龍一の細い目が三日月のように笑った。

「おお、年越しそばか。大晦日だし、そいつは食わなきゃな」

 凛子がすぐにスマホで近くの蕎麦屋を捜した。

 会話に聞き耳を立てていた翔が、申し訳なさそうに言う。

「あのう、おれも、ご一緒させてもらっていいですか?」

 それを聞いた玲奈が首を振る。

「だめよ、わたしたち、コンビニでカップ麺のそばを買って、ラブホで年を越しましょう」

 翔は眉を吊り上げて玲奈を見た。

「な、何てこと、言い出すの?」

「だって、行きの車で言ったでしょ・・わたし、しょうの子供が欲しいって・・帰りに子作りしようって」

 と玲奈が平気な顔で言うものだから、翔は頬を燃やして咲桜の顔色を窺った。

 咲桜の目が火を噴いた。

「しょう、あんた、れなにそんなこと言ったの?」

 翔はぶるぶる首を振った。

「おれが、言うもんか。この子が勝手に言ったんだ」

「れなのこと、悪者にするのね?」

 と咲桜は目からさらなる炎を飛ばす。

 翔はそれに撃たれて声を震わせる。

「おれは、おれはいつもれなに言ってるよ・・おれには、心に決めた人がいる、と」

 咲桜の顔色も怒りで赤くなった。

「はあ? あたしの妹とアレしたくせに、何言ってるのよ? あんた、れなをもてあそんだら、あたしが許さないよ」

 翔は狼狽した目で咲桜を見た。

「アレって・・な、何で知ってるんだよ?」

「れなに聞いたんだよ」

「アレ、は、一方的にされたんだ。狭い車の中で、おれ、経験がなくて、逃げれなかった」

「はあ? あんた、車の中でもやったのか? それなのに、毎晩毎晩・・」

 怒れる声で咲桜がそう言うと、玲奈が口をはさんだ。

「お姉ちゃん、毎晩毎晩って、何のこと?」

 咲桜は、

「あ・・」

 と小さく漏らして妹を見た。

「な、何でもないよ・・」

 と動揺を隠せずに言う。

 翔が叫ぶような目をして問う。

「車の中でもって、どういうことだよ? おれは、れなと七年ぶりに再会した日、その日しかキスしてないのに」

 咲桜の眉間に苦悩の縦じわが寄った。

「キス? しょう、あんた、れなと会って、いきなりキスしたの?」

「だから、一方的にされたんだ」

「でもね、あたしが言ってるのは、キスじゃなくて・・アレだよ、アレ」

「アレって、キスじゃないなら、何なんだ?」

「アレは。アレじゃないか。そうだよ、アレだよ。ええい、ちくしょうめ、セックスだよ。あんた、あたしの家で、れなとセックスしたくせに、何とぼけてやがる」

 耳まで真っ赤になる咲桜を見て、翔は目を丸くした。

「セックスって? もしかして、おれが、れなと、セックスしたって・・そんなこと思ってるのか? するわけないだろ。おれには、心に決めた人がいるのに」

 咲桜は涙ぐんだ黒い瞳でじっと、翔のとび色の目を見つめた。

 そしてそこに嘘がないことを実感すると、悲しい目で玲奈を見つめた。

「れな、しょうと、セックス・・・したって言ったよね?」

 玲奈はその悲しすぎる目が怖くて、思わず後ずさりしていた。

「ごめん、しょうと、一つになろうとがんばったけど、拒否されちゃった。でも、このわたしが失敗するなんて、ありえないから、嘘ついちゃった」 

 一歩、二歩、妹に詰め寄る咲桜の腕がプルプル振るえた。

「して、ないのね?」

 声も痛いほど震えた。

 玲奈は追い詰められた小動物のように必死で言った。

「でも、しょうは、その、心に決めた人とは、キスさえしてないんだってよ。キスしたわたしの方が、しょうにふさわしいでしょ?」

「キスならしたわ」

 と咲桜は思わず言ってしまった。言ったとたん、自分の言葉に自爆して、顔を引き攣らせた。

「え?」

 と玲奈と翔が同時に発した。

 玲奈は食い入るように咲桜を見つめ、

「キスした? しょうが? 心に決めた人と? 何でお姉ちゃんが、しょうのこと、知ってるの?」

 と低く重い声で問い詰める。

 翔までも驚きの目で問う。

「おれ、その人とキスした? 本当に?」

 咲桜は穴があったら地球の裏側までももぐりたい気持ちだった。

「あれっ? あたし、ありえないこと、言っちゃった? ごめん、今の言葉、永久に忘れて」

 声を震わせる咲桜を、玲奈は凶悪犯に直面した刑事のように睨みつけ、

「はあ?」

 と詰め寄った。

 翔も燃える瞳を咲桜にぶつけ、

「そんな顔で、そう言われると、永久に忘れられないな、おれは」

 なんて言う。

 もう咲桜は壊れる以外なかった。

「あは、あははは・・」

 と奇妙な笑い声を発しながら後ずさりすると、ドアを開け、流星のような勢いで駆け出て消えたのだ。

「何だ、あいつ? 蕎麦屋、行かないのか?」

 と龍一が首を傾げた。

 翔と玲奈は、追いかけたくても身体が固まり、危険な瞳で見つめ合っていた。

 凛子がそんな二人を黙って見つめていた。

 












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