34、玲奈の夢は? キスさえしてないのね?

 そんな日がずっと続いた。

 雨の夜も、雪の夜も、風邪をひいて高熱で倒れそうでも、翔は懲りずに咲桜の帰りを持っていた。暗い夜道でただ一人。たったひと言でもいい、「さくら」と呼びかけるだけでもいい、星のように遠く遠く離れてしまった咲桜に、一歩でも近づけるのなら。

 どんなに逃げられても、罵られても、時にはプロ格闘家の蹴りをくらって闇に叩きつけられても、翔は感じていた。咲桜の隠された本心を。咲桜の秘められた涙を。毎夜深くなっていく、ふたりの涙の湖を。ずっと昔から深いところでひとつに繋がっていた二人の心・・・引き裂かれて離れ離れになっても、やっぱり深いところで熱烈に求め合っている。ひとつに戻ろうと、悲しいくらい呼び合っている。


 一方玲奈は、あの手この手で翔をデートに誘っていた。

 もちろん翔は応じない。

「言っただろう、おれには、心に決めた人がいるって」

 と断った。

 まさか、その人って、昔、仲が良かったお姉ちゃんじゃないでしょうね・・・

 そう思って、玲奈は鎌をかけた。

「お姉ちゃんが、しょうをクリスマスイブに家に呼びなさいって言うの。ごちそうするからって」

 それでも翔は首を横に振った。

 翔は玲奈には極秘で、毎晩、咲桜の帰りを待っているのだ。そして、一瞬ではあるが、毎晩咲桜に会って、一言二言、声をかけているのだ。だから玲奈の嘘が切実に分かるのだ。

 彼は悲しいストーカー。それが現実だ。イブの夜も、クリスマスの夜も、咲桜に罵られ、足蹴にされた。


 そしてついに、大晦日決戦の日が来た。咲桜にとって、初めての東京ドームだ。初めての五万人の大歓声の中での決戦なのだ。


 咲桜と龍一と凛子は電車で向かった。

 玲奈は当然、翔を誘って、彼の車に乗った。

 どうしても咲桜の試合をすぐ近くで観たい翔は、咲桜陣営のスタッフとして行く玲奈を連れて行くしかなかった。

 彼とのドライブで上機嫌の玲奈を助手席に乗せ、愛する人の決戦の場を目指し、オレンジのハスラーでハイウェイを走り続けた。

 玲奈は高校一年だった頃の咲桜によく似ていた。そしてあの頃の咲桜以上に積極的だ。外形も、あの頃の咲桜にも増して華やかで、女性的なプロポーション、特に乳房の豊満さは明らかに上だった。殺人者の妹と知られ、学校では孤立していたが、玲奈が本気になれば、同学年の男子たちを手なずけるのはたやすいことだっただろう。

 この日も、

「今年の終わりに、しょうといれて、わたし、幸せ」

 と嬉しそうに言って、運転する翔の肩に頬をあずけた。

 甘い髪の香りが翔の胸に入ってきた。いつのまにか、細い指が翔の膝でピアノを弾くように遊んでいた。

「あんまりくっつくと、事故っちゃうよ」

 と翔は注意した。

 玲奈は男の首筋に唇を擦らせるプロの技で顔をあげると、耳内を熱い息がくすぐるようにささやいた。

「しょうといっしょなら、死んでもいいよ」

「おまえ、将来の夢とか、ないのか? お姉さんと同じように、格闘家を目指すとか・・」

 と、翔はぐっとこらえながら話を逸らすが、声はうわずっとぃた。

 玲奈の「うふふ」という笑い声が、翔の耳たぶを舐めた。

「わたしの夢? わたしの夢は、ただひとつ。昔のような、仲のいい家族との、明るくて、幸せな家庭・・」

 再び頬を男の肩にもたれさせ、悲しげに、そして夢見るように言う。

「小さな家でもいいの。昔、突然奪われた、あの幸せだった家庭・・愛する人と結婚して、子供を二人産んで、今度こそ絶対絶対、壊れない家庭を築くの。そして、そこに、しょうがいてくれたら、わたしの隣にいつもしょうがいてくれたら、わたし、何だってするよ。わたし、しょうの子供を産みたいな。なんだったら、今すぐ子供を作ってもいいよ。今日の帰り道、どこかのホテルに泊まって、ふたりで新年の朝を迎えましょうよ」

 そう誘うと、玲奈は翔を上目遣いに熱く見つめた。

 運転中の翔は玲奈を一瞥もせずに、

「ムリ」

 と一言。

 玲奈は彼の表情を読み取るように見つめたまま、問う。

「また、おれには心に決めた人がいるから、って言うのでしょ? でも、それって、わたしを近づけないための嘘、でしょ? だって、わたし、しょうをずっと見てるけど、そんな人の気配もないじゃない。しょうの恋愛の相手なんて、ほんとはいないんでしょ?」

「嘘じゃない・・おれには、その人だけが、ただ一人の女性だ」

 と、まっすぐ前を向いたまま翔は言う。

 車は法定速度いっぱいで、ハイウェイを走り続ける。

「じゃあ、その人も、しょうのこと、ただ一人の男性だって、思ってるの?」

 と玲奈は大事な核心に迫る。

 しょうは口ごもってしまう。

 玲奈は指先で翔の左胸をつついた。

「あら、やっぱり・・しょうの片思いなの?」

 翔は首を振った。

「その人も、おれのこと、ただ一人の男性だと思ってる・・と、おれは信じている」

 玲奈は今一度、左胸の敏感な個所をつついた。

「信じてる? って、何? その人から、直接、愛の言葉をもらってないの? わたしは、何度も何度も、愛の告白をしてるんだよ。もしかして、その人と、キスもしてないの?」

 翔はまた口ごもった。

 玲奈は男の左耳に口づけながらささやいた。

「やっぱり、そうなのね? キスさえしてないのね? わたしとしょうは、キスしたよ。雨の日、この車の中で、熱い熱いキスしたよね? あれがしょうの、ファーストキス、だったんだよね? やっぱり、その人より、わたしの方が、しょうの運命の相手だよ。しょうが今はまだムリって言うのなら、わたし、待つよ。いつまでも待つよ。あと二年たったら、わたしも十八・・大人だし、結婚もできるし・・わたし、しょうとじゃなきゃ、幸せになれないから」

 翔は震えるように首を振って、耳から唇を遠ざけようとした。なのに、玲奈がいきなり耳たぶを噛むものだから、「ギャッ」と叫んでしまった。

「な、な、何で噛む?」

「ごめん。目の前でおいしいエサがプルプル動いたので、つい」

 翔がやっと玲奈に目を向けた。

「おれの耳は、エサじゃない」

「ごめん、わたし、肉食系だから」

 翔は視線をフロントガラスの前方に戻して言う。

「それに、れなだって、二年たったら、きっと変わる。おれより好きな男ができて、そいつに夢中になってるかもよ」

「わたしは変わらない。今まで、たくさんの男たちと付き合ってきたけれど、誰も好きにはなれなかったもん。好きになったのは、しょうだけだよ。ほんとだよ。子供の時も、しょうが大好きだった。だから、誓うわ・・死ぬまでしょうだけを愛していると。女の子の愛の誓いは、信じていいものよ」

 そう言って、玲奈はまた、翔の左肩に右頬を密着させた。彼女の指が、彼の左腿に戻って遊んだ。夢見るように遊んだ。

 翔の胸に、娘の髪の甘い香りが再び入り込んで揺れた。

 今、れなは、確かにここにいる・・・

 と翔は思った。

 奇跡のようにキラキラここにいる・・だけどさくらは、遥か遠い星の彼方だ・・それでもおれは、今、さくらへと、こうやって車を走らせている・・いつの日にか、さくらに、たどり着くために・・・

 大晦日の昼下がり、大都会に突入すると、ハイウエイの周りのビルディングがしだいに巨大化していった。東京の冬の低い雲にも届きそうなくらい、高層化していった。


























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