33、格闘女王南美波、悲しいストーカー
「大晦日決戦の相手は、聞いて驚くなよ、格闘技界の女王、ミナミナだ」
と、決戦の三週間前、龍一が鼻息荒く駆け寄って言う。
「ミナミナ? 変な名前。誰だ、それ?」
と咲桜は問う。
龍一は細い目を丸くする。
「ミナミナ・・・南美波、大晦日決戦の常連だよ。もう五年連続で大晦日決戦に出てる。今年で六年目だ。フライ級の選手で、一階級上だが、こんなチャンス二度とねえから、受けるよな? それにしても、超人気の美人格闘家なのに、知らねえのか? K-1女子の人気に火をつけた、人気ナンバーワンの大スターだよ。ほら、スポーツドリンクのCMにも出てるじゃないか。ルックスがいいから、テレビドラマにもちょくちょく出てる。南美波を知らねえなんて、キックボクサーとは言えねえし、日本人とも言えねえな」
咲桜は大きな目で龍一を睨んだ。
「ミナミミナミ・・・覚えやすい名前だけど、あたし、ずっと刑務所暮らしで、観たことないし、そもそもテレビは見ないんだ」
龍一は咲桜を熱視線で見返した。
「とにかくだ、さくらの今度の試合は、日本中の注目を浴びるってことさ。華々しく勝つことができたら、さくらも一躍有名になれるぞ。これがほんとの人生逆転・・その最大のチャンスを、逃すんじゃねえぞ」
「それで、ミナミナって、強いのか? どんな相手なんだい?」
「強いのなんのって、大晦日K-1決戦、負け知らずだ。左右のフックとハイキックが強烈で、KOの山を築いている。特にパンチ力は男性ボクサー級で、ボクシングに転向しても、世界チャンピオンになれると言われてる。ジャブだけでも異次元の速さだ。だから、パンチの打ち合いで勝負したら、勝ち目はないね」
「ってことは、キックなら、勝てるってことか?」
龍一の目が光を増した。
「そうよ、ミナミナがジャブを撃つより先に、ローキックや前蹴り、横蹴りなどで相手を引かせるんだ。さくらのキック力は、世界レベルの男子さえ超える天性のバネを持っている。長い足はムチのようにしなるし、威力も半端ねえ。拳はフェイントとブロック防御に徹底して、ミナミナのパンチの届かない距離で戦えば、必ず勝てるさ。そこで、これから三週間、ローキックの連打、ローキックの軌道からのブラジリアンキックの連打、前蹴り横蹴りの連打、回し蹴りからの後ろ回し蹴り、三日月蹴りからのアッパーキックからのかかと落とし連打、それでも相手が強引に中に入ってきたら、ボディーや顎への膝蹴りの連打、さらに飛び膝二段蹴り、これらを変幻自在に組み合わせて三分間止めどなく蹴り続ける・・名付けて【キックの百連発機関銃】の特訓を行うぞ」
「キックの機関銃? しかも百連発だってえ? うわあ、面白そう」
「そうだよ、誰も見たことのないキック、キック、キックの嵐で、観客を夢中にさせるんだ。キックも極めれば、すげえ面白いと、テレビの向こうの視聴者たちを仰天させるんだ。そして一躍有名になるんだぞ。それには、三分間蹴り続けれる超人的なスタミナと運動能力を身に着けなくちゃいけねえ。だから、これから三週間、特訓、特訓、特訓の嵐だぞ」
龍一の情熱のまなざしに、咲桜は怒れる魔人の顔でうなずいた。
しょうを忘れるためには、決戦に向けて、死に物狂いで練習するしかない・・・
そう咲桜は心の底から思っていた。
じゃなきゃ、心が壊れて、気が狂いそうだ・・しょうが、これからあたしに何と言おうと、もう迷わぬように、もう泣かないように、れなも泣かさないように、あたし、キックのマシンになる。そしてキックの魔人になる・・・
手始めに、ブラジリアンキックの連打から特訓した。極真空手時代に父の安藤典道に教わった経験もあり、長い足が百八十度開いて高く上げれる能力もあり、咲桜はみるみる上達した。ローキックの軌道からのブラジリアンキックだけではなく、前蹴りや横蹴りから足をムチのように回転させる彼女独特のブラジリアンキックも次第に威力を増していった。百連発撃つ前に、一発でも急所に当たれば相手が失神するような、そんな凄まじさだ。
見守る龍一や凛子も、これほど危険なキックボクサーを見るのは初めてだった。
女を捨てるどころか、完全に人間と決別した鬼の顔で咲桜は練習に没頭していた。サンドバッグに百連発のキックを撃ち込んでは力尽き、死んだようにぶっ倒れ、一分後には、ゾンビのように立ち上がり、また血走った眼を剝き出しにして百連発・・その繰り返しだ。誰がこんな地獄の練習に耐えられるというのか。人間どころか、命さえ捨てたような悲愴なまでの怒れる眼で彼女は蹴り続ける。気を失うまで蹴り続け、倒れて意識を無くしても、なおも蹴ろうと身体をヒクヒクさせる。
ジムの二階のベッドに寝かせ、凛子が濡れタオルで身体じゅうを拭いて介抱する。
目を覚ますと、
「まだまだやれるぜ」
と意気込む咲桜に凛子が言い聞かせる。
「今日は、もうダメよ。さくら、今にも死にそうな顔じゃない。死んだら、試合もできないのよ」
「あたしなんか、生きてていい人間じゃないんだ。死んだ方がいい人間なんだ」
そう言って、ベッドから出る。
寝室から出ようとする咲桜の前に凛子は仁王立ち。
「バカ言ってんじゃないよ。わたしもりゅういちさんも、さくらに人生懸けてるのよ。あなたにすべてを懸けてるの。さくらだって、妹さんを、高校や大学に行かせたいんでしょう?」
「れなは、きっと、あたしがいない方が、幸せになれるんだ。しょうと、ふたり、幸せになれるんだ」
「しょう? しょうって、この前の試合を見に来てた、れなちゃんの先生のこと? 彼、あなたを凄い熱い目で見てたし、凄い声で応援してた。昔からの知り合いなんだよね? プライベートに干渉したくないけど、この前の試合、最初あなた、隙だらけでダウンを奪われたのは、彼のせいじゃないの?」
凛子の厳しいまなざしを受けて、咲桜の頬はすぐに熱く火照った。
うわっ、この人、プロの目を持ってる・・ごまかせない・・・
そう心で叫んでいたが、咲桜は負けじと見返していた。
「二度と、あのような失態はしないと誓うよ。今後、あいつとは会わないんだから、あいつのことは、二度と聞かないでくれないか」
咲桜の声が気味悪いほど怖かったので、凛子は後ずさりしていた。
凛子が作った特製野菜果実ジュースを飲み、シャワーを浴びてから、咲桜は家までランニングで帰った。
真夜中頃、咲桜と玲奈が暮らす借家の手前、五十メートルほどの暗がりの車の前に、一人の影が立っていた。
咲桜が帰り着く前にランニングのスピードを落とした時、その人物が闇から飛び出し、彼女の前に立ちふさがった。
「さくら・・」
と声をかけてくる。
翔の声だ。
格闘家世界一を目指す咲桜は、真夜中の不審者など怖くないのだが、翔だけは別だ。
もう会わないと決めた男なのだ。
無視して、彼の横を駆け抜けるしか思いつかなかった。
引き止めようとする手を払いのけ、暗がりを疾走した。
「さくら、おれだよ・・しょうだよ・・」
指名手配の凶悪犯を追う刑事のように、翔は全力で追って来る。
三十メートルほど走って、咲桜はいきなり止まり、彼の顔面へ拳を突き出した。ほぼ寸止めで手加減したが、驚いた翔は吹き飛ぶように道に倒れていた。
「ストーカー規制法違反で、逮捕してもらおうか? その前に、あたしを追いかけられないように、あんたのその足、蹴り砕いてあげようか?」
そう咲桜は吐き捨てると、翔の言葉も待たず、疾風のように走り去り、借家に入って鍵をかけた。
玲奈はベッドで寝息を立てていた。
妹を起こさないように、静かに押し入れを開け、畳に布団を敷いた。
れなにだけは、泣声を聞かれちゃいけない、絶対に・・・
咲桜は布団を頭からかぶると、身もだえしながら泣いた。声が溢れそうになると、唇を噛んで耐えた。幸い、どんなに苦しすぎても、悲しすぎても、山のように重い疲れに圧し潰され、深い眠りに落ちていた。
翌日の夜、【DARKU LIGHT】のリングの上で、ヘッドギアなどの防具を着け、咲桜は龍一とスパーリングを行った。
龍一は、大晦日決戦の相手の南美波と同じスタイルで、打撃中心で攻めてきた。
咲桜のローキックをかわすと同時に龍一は間合いを詰め、素早い左ジャブから強烈な左右のフックを浴びせた。咲桜は固いガードでジャブはブロックしたが、左右のフックがグローブの両側からヘッドギアを叩いた。
龍一はスパーリングを止めて言う。
「そんなんじゃ、ミナミナ得意のフックの餌食になるぞ。いいか、フックが当たる距離に詰められたら、殺されると思え」
「あたしのローキックをかわしながら入って来られちゃ、パンチの打ち合いに応じるしかないんじゃない?」
と咲桜は問う。
龍一はニヤリと笑って首を振った。
「たとえば今の左のローキックがかわされた瞬間、その左足を反転させて、おれのみぞおちやのど元へ突き出したらどうなってた? チャンスと思って前に出たおれにカウンターの蹴りを刺すことができたんじゃないか? 昨日特訓したブラジリアンキックを進化させるんだよ。今回の課題を忘れてないよな? キックの機関銃だよ。それをやられちゃ、おれもミナミナも、パンチの当たる距離まで、簡単に間合いを詰めれなくなる」
「なるほどね・・」
咲桜はスローモーションで、左のローキックを龍一の左足へ放った。そして龍一がそれをかわすとすぐに、左足を反転するようにくねらせた。そしてカウンターパンチを撃ち込もうと詰め寄った龍一のみぞおちへ、つま先を突き刺した。
「こうかい?」
「今のを、高速でやってみろ」
「ちゃんと防御しなよ」
不敵に笑う龍一相手に、咲桜は目にもとまらぬ早業でそれをやってみせた。
鋭いつま先が、防御した龍一のグローブに突き刺さった。
「うわあ、これ、おもしれえ。これ、達人技と呼べるよな?」
と興奮する咲桜に、龍一は首を横に振る。
「確かに、達人技かもしれないけどよ、ミナミナだって達人なんだ。だからさくらが目指すのはもっと上じゃなきゃダメだ。これ以上の超人技じゃなきゃ勝てねえんだ。もう少し・・あと、もうひと蹴り・・連続してやらなければ、超人技とは言えない。今、さくらがやったのは、陸上競技の三段跳びで言えば、ホップ・ステップ・ジャンプの、ホップ・ステップまでだ。最後のジャンプがないとダメなのさ。ブラジリアンキックの応用からのさらなるもう一撃・・さくらなら、できるだろう?」
「片足で連続三段蹴りってことだね? 利き足ならできそうな気がする」
咲桜は、今度は左足を軸にして、右足でゆっくりローキックを放ち、龍一がそれをかわすと、蹴った右足を反転させ、つま先を相手のレバーへ突き刺し、直後に上体を後ろにそらしながらその右足のかかとを横蹴りで顎へと蹴り上げた。
「こんな感じかい?」
「おお、すごくいいぜ。これで相手は下がるしかない。そこを逃さず、前へ跳んで、ジャンピングアッパーキックはどうだい?」
「ジャンピングアッパーキック? アッパーキックも進化させるんだね?」
「そうだよ。ジャンピングニーより遠い距離からの攻撃だから、相手のカウンターパンチも届かねえ。そして相手を、サッカーボールのように、ぶっ飛ばすんだよ。どうだ? やりてえだろう?」
龍一の挑発に咲桜は乗った・・とんでもないオモチャを手にした子供のように。
「やりてえ。ものすごくやりてえ」
「じゃあ、まずはさっきの三段蹴りを、高速でやってみな」
咲桜は右足の三段蹴りを繰り返し練習し、スピードとパワー、そして精度をアップさせていった。
それから追撃のジャンピングアッパーキックの練習だ。
龍一が大きくて丈夫な枕を顔の前に持ち、後ろへ下がる彼へと跳びながら、枕を遠くへ蹴り上げる練習だ。そのたび、リング下の凛子が枕を拾って投げ返した。繰り返すごとに破壊力は増し、蹴り飛ばされた枕は、天井や壁を突き破りそうになった。
練習後、
「こいつはもう、使い物にならねえな」
と、枕の残骸を手にした龍一が言うので、咲桜は凛子に言った。
「ごめん、りんこさん、今夜はりんこさんが、この男の枕になってあげて」
凛子は恨めしそうに咲桜を睨んで言う。
「バカ、それ、わたしの枕なんだからね」
今夜も帰宅前にシャワーを浴びた。
髪を洗う時、咲桜は初めてリンスを使った。
火照る身体もいつも以上の石鹼で泡立てた。
帰りのランニングが初めて怖かった。
借家の近くで、翔がまた待っているのではないかと、心も身体も震えた。
待っているもの怖かったが、待っていないかもしれないことも、怖くて仕方なかった。
昨日、あれだけ脅したんだ・・待っているはずないよ・・待っているもんか・・・
と自分に言い聞かせ、帰り道を走った。他のことを考えようとしたが、咲桜の胸も頭も翔ばかりが膨れあがり、破裂しそうだった。
昨夜と同じ場所に車を停め、人影が待っていた。
翔に違いなかった。
咲桜の後方の街灯からの遠い灯で、咲桜の黒い影が彼の足へと長く伸びて震えた。
やだ、あたし、何で涙が・・・
思わず溢れてしまった涙の熱さに、咲桜は戸惑った。
悲しくて泣いているのか、怒りで泣いているのか、びっくりして泣いているのか、それとも嬉しくて泣いているのか、彼女には分からなかった。
この暗がりじゃ、涙は見えないだろう・・見えるもんか・・・
と咲桜は自分に言い聞かせた。
それでも胸が痛すぎて、心臓が止まりそうだ。
ゆっくり走り、
「さくら・・」
と呼びかけられた瞬間、
「このストーカー野郎」
と裏返る声で叫び、彼の横を全力疾走した。
影と影が交錯し、見えない涙が闇に散った。
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