32、まさかあたしの手を握ったりしてなかったよね?

 その日の夕刻、翔は自分の部屋でパソコンを見ていた。

 昨日の咲桜のK-1の試合が、ユーチューブにアップロードされているのだ。

 咲桜がスワーケムから浴びる強烈なパンチやキックを見るたび、翔は自分が撃たれているかのように顔をしかめ、胸を痛めた。

「こんなことしてたら、いつか死ぬかもしれないし、後遺症で廃人になるかもしれないじゃないか・・・絶対、やめさせなきゃ」

 やがて彼は、咲桜の試合が、もう一つだけアップされているのを見つけた。

 画面を開かずにはいられない。

 それは、咲桜のプロデビュー戦、人気絶頂のスーパー美少女戦士、三日月優との衝撃の一戦だ。三日月蹴りの天才を、三日月蹴り一発で倒すという、咲桜の鮮烈デビュー戦だ。

 だけど翔が涙を流すほど心を奪われたのは、試合前のリングアナウンサーの言葉だった。

「青コーナー、この試合がプロデビュー戦、DARKU LIGHT所属、友達をイジメから救おうとした不運の事件で女子刑務所に入り、服役中に両親を亡くし、社会復帰して悲運の妹を高校へ行かせるため世界チャンピオンを目指す、ダークヒーロー・・」

 そう咲桜は紹介されたのだ。

 翔は反対する両親を振り切り、七年ぶりに故郷に戻ってきた日のことを思い起こしていた・・・尋ねた安藤道場はなくなっていて、向かいの家の老人に咲桜のことを聞いた時のことを。

「そうか、やっぱり、あの老人の言ったとおりだ・・」

 と翔は思わず発していた。

「やはり、さくらは、おれをイジメていた山田すぐると戦って、そして七年もの間、刑務所に入ってたんだ」

 ユーチューブ画面での、試合後、

「あたし、人を、殺しましたあ」

 とリングの上で嗚咽する咲桜を守るため、 山本凛子がリングに上がり、必死に訴えた言葉も、翔の心を熱く揺さぶった。

「・・さくらは高校一年の時、一番仲が良かった男子をイジメるラグビー部の男子と、学校の屋上で決闘したのです・・」

 と凛子はマイクを使って訴えたのだ。

「イジメを止めるためです。さくらは、当時、空手日本一で、決闘など許されるものではないのでしょう。だけど相手も体重百キロのケンカ自慢の荒くれ男子です。さくらのほうが不利な闘いでした。殺される危険もあったのに、友達のために、やらなきゃいけなかった。そして事件が起きたんです。その相手の男子が、闘いの中で屋上から落ちて死んだんです。さくらも落ちかけたけど、ギリギリ助かった。そして、殺人罪という悲しすぎる運命を背負って、人生で一番輝くべき青春時代を、塀の中で暮らしたんです・・」

 翔は居ても立ってもいられなくて、アパートを飛び出し、ハスラーに乗った。

「ああ、さくら、おまえは、どうしてそんなにバカなんだ? どうしておれなんかのために、人生を棒に振ったんだよ?」

 そう叫びながら、大河の向こうの古すぎる借家を目指した。

 翔は昼過ぎに、病院にいる玲奈から連絡を受けていた。

 

  姉さん、目覚めて、もう大丈夫って言うから、帰って、家で安静にさせる

 

 と、ラインをもらっていた。

 いつもよりアクセルを踏み込み、街灯続く街の大通りを幾つも抜け、住宅街を抜け、黒銀に揺らめく大河の上の大橋を渡れば、もうすぐそこに浜岡姉妹、いや、安藤姉妹の住む古屋がある。

 明かりの漏れる家の前に車を止め、玄関をノックした。

「こんばんわあ」

 精いっぱいの声で呼んだ。

 その時咲桜は、流しで好きな歌を口ずさみながら、夕食後の洗い物をしていた。

「えっ?」

 水の音でよく聞こえなかったが、人の声がしたように感じ、咲桜は蛇口を閉じ、玄関に行ってみた。ドアの擦りガラスの向こうに、人影が見える。

 格闘技のプロの咲桜は、用心深くない。すぐにドアを開けてしまい、「あっ」と言って、マネキンのように固まった。

 翔だ。

 まぎれもない翔が、今、目の前にいる。

 たとえ夢でも長い長いキスをしてしまった咲桜には、まともに彼の顔が見られない。たとえ夢でも、初めてのキスだったのだ。

 頬が熱くなるのを止められず、今すぐ世界の果てへ逃げ去りたい。誰の視線も届かない、深い深い穴にもぐりたい。

 うつむいて、どもりながら、

「れ、れな、なら、ふ、風呂に・・銭湯に行った。いないから」

 と言って、ドアを閉めようとする。

 翔が慌ててドアの隙間から、飛び入ってきた。

「キャア」

 一瞬密着した身体を、咲桜はプロのスピードでバックステップしながら条件反射的に左拳を突いていた。それがみごとに顎にヒットし、撃った咲桜の瞳が大きく見開いた。

 翔はニコッと笑いながら、膝から前へ崩れ落ちた。

「ああ、しょう、大丈夫? ごめんね、わざとじゃないんだから」

 咲桜はすぐに助け起こして、部屋の中へ運び、玲奈の椅子に翔を座らせた。

 冷蔵庫から氷を出してビニール袋に入れ、翔の顎を冷やした。

「すごいな、プロのパンチって。速すぎて、ほとんど見えなかったよ」

 と翔は咲桜を見つめながら言う。

 咲桜はその目を見返せない。

「ほんとにごめん。でも、あたしの身体、危険を察したら、勝手に動いちゃうの・・しょうが、いきなりぶつかってくるから」

「だって、さくらが、すぐに戸を閉めようとするから」

「不法侵入と、婦女暴行未遂で、逮捕されちゃうぞ」

「さくらが相手なら、刑務所に入ってもかまわないから」

「ばか、殴るだけじゃ足りないなら、今度は蹴るぞ。逮捕される前に、あたしに殺されるぞ」

 氷袋ばかりを見ていた咲桜の目が、ちょっとだけ翔を見つめ返した。

「それだけはやめて」

 と言いながらも、翔の温かい両手が氷袋を持つ咲桜の指を包んだ。

 指先から火がついて、咲桜の身体じゅうを燃やした。

「な、何する?」

「これ、おれが持つよ。さくらの方こそ、アザだらけで、ひどい顔だよ。大丈夫なの?」

 咲桜は氷を翔に渡して、手を引っ込めた。

「ふん、どうせひどい顔だよ」

「おれがただひとり、好きな顔が、アザだらけになるのは耐えられないんだ。格闘技なんて、やめてくれないか」

 真摯に見つめ続ける翔の顔を、咲桜はようやく目を剥くように見返した。紅くこわばった、赤鬼のような顔で。

「しょう、あたしに、ケンカ売ってんの?」

「ど、どうして?」

 咲桜は何か言いたそうだったが、首を振り、やがて目をそらして、こう告げた。

「れなは、さっき銭湯に行ったばかりだから、一時間後にまた来なよ。あたし、外に出ててあげるから」

 翔の瞳の熱さは変わらなかった。

「おれ、さくらに、会いに来たんだよ」

 咲桜は唇を噛んでいた。

 だったら、何でれなとからだの関係を持ったんだよ? もう、あたしの恋は粉々に砕けて終わったんだ・・あたしの大事なれなはね、あんたに夢中なんだ・・もう、あんたの言葉なんか・・・

 そっぽを向いてぶっきらぼうに言う。

「さっきから、七年前にも言わなかったような変な言葉を吐いてるけど、しょう、ずいぶん軽い男になったみたいだね。でも、昨日、あたしが言った言葉、忘れちゃった? あたし、あんたの顔なんて、見たくないって言ったよね? あんたの言葉だって、聞きたくないんだ。あんたが何を言おうと、あんたの言葉は、あたしを傷つけるばかりだからね」

 翔がしばらく黙ったままなので、咲桜はさらに言った。

「分かったなら、ここを出て行ってくれ。しょうが出て行かないなら、あたしが出て行くから」

「分からないよ」

 と翔は怒ったように言う。

「え?」

「分からないんだ。だったら、どうして、七年前、おれをイジメていた山田すぐると決闘なんかしたんだ? そして七年も、刑務所暮らしなんかしたんだよ? ねえ、さくら、本当のことを言ってよ。ちゃんと、おれの目を見て、本当を伝えてよ」

 咲桜は恐る恐る顔をあげて翔を見た。愛してやまないとび色の瞳が咲桜を貫くように見つめている。

「あ、あの頃は、あたし・・知ってるだろ? しょうを、好きだった。だけど、しょうが、あたしを、捨てて、黙ってどこかへ行っちゃったから、百年の恋も冷めたね。刑務所では、ずっとしょうを恨んでたよ」

「さくら、嘘がつけないね。その言葉、嘘だから、そんなに涙をこぼしてるんだろ?」

 咲桜は、大粒の涙で翔の顔が見えなくなったが、ぬぐいもしなかった。

「あんた、出て行かないようだから、あたしが出て行くね」

 そう言って、玄関へ歩き出した咲桜の腕を、立ち上がった翔が駆けてぎゅっと握って引き止めた。

「ごめん、おれが出て行くよ。さくらは、安静にしてなきゃだめだ。病院でも、ずっと気を失ってたじゃないか」

 翔はポケットからハンカチを出して、咲桜の涙をそっと拭いた。

 そして、

「しばらく、安静にしているんだぞ。じゃあね」

 とやさしく言って、玄関へ歩いた。

 その背中を、咲桜はうわずった声で止めた。

「ちょっと待って」

「えっ?」

 振り返った翔に、咲桜はどもりながら問う。

「しょう、今、な、何て、言った?」

「え? 今? しばらく安静に、って」

「違う・・・病院でもって、言ったのか?」

 翔は咲桜の怖いくらい見開いた瞳を、まっすぐ見返した。

「だって、さくら、今朝、おれが目覚めても、死んだように眠ったままだったよね?」

 咲桜はいやいやをするように首を振った。

「まさか・・・まさか、しょう、今日の朝まで、あたしのベッドの近くにいなかったよね?」

「え? いた、けど・・」

 咲桜の瞳は今にも壊れそうなくらい膨れあがっていた。

「まさか、まさか・・・ねえ、違うだろう? まさか、あたしの手を握ったり、してなかったよね?」

「え? どうして知ってるの? おれ、さくらの手を握って眠っちゃったけど・・さくら、夜中に目を覚ましたの?」

 キャアアアア・・・

 と咲桜は心で悲鳴をあげていた。

 彼女の紅い頬はさらに熱く染まり、耳まで火照った。

「今すぐ出てって。そして二度と、あたしの前に現れないで」

 そうヒステリックに告げて、両手で翔の肩を突っ張るようにドンドン押した。

「え? どうして? おれ、夜中に何かしたの?」

 翔を問答無用で外へ押し出し、咲桜は鍵を閉めた。

 そして擦りガラスの向こうへ、張り詰めた声を届けた。

「れなとお幸せに」

 もうドアの向こうの影は、遥か宇宙の彼方の男だ。

 咲桜はふらつきながら部屋へ戻ると、押し入れから毛布だけ出し、古畳に寝転んだ。そして頭から毛布をかぶり、嗚咽まじりに悲痛な声を漏らした。

「あああ、あれは夢なんかじゃなかったの? あたし、妹に対して、許されない罪を犯したの? あたし、現実にしょうとキスをしたんだ。それもあんな、長い長いキスを。ああ、あたし、禁断の果実を食べたのね? そしてこの罪はもう、永遠に消えないの? もう、戻れないの? ああ、これからあたし、どんな顔でれなと接すればいい? せっかくれなと仲良くなれそうになってきたのに・・昔みたいに、笑い合って暮らせるようになりたいのに・・ああ、そして何より、もう、しょうの顔も見れないわ。あたし、もう、しょうと会っちゃいけないよね? でも、この胸の痛みは、何? このからだの熱すぎる震えは、何? ああ、あたし、しょうが好きだよう。どうしょうもなく、しょうを、愛してるよお・・」


 翔は古屋の前でしばらく立っていた。

 咲桜の言葉は聞こえなかったが、擦りガラスの向こうへ目を凝らし、心でその声を聴こうとしていた。

 彼はドアの向こうに叫びたかった。

 七年たっても膨らみ続ける恋心を叫びたかった。

 親を捨て、咲桜に会うために故郷に戻ったのだ。

 胸の中にたぎる真っ赤な血をさらけ出し、

 「愛してる・・」

 と世界じゅうに響くように叫びたかった。

 だけど、今はこの場から去るべきだ、と心の奥の何者かが警告していた。

 さくらのために、れなが帰って来る前に消えなさい・・・

 と、その誰かは訴えていた。

 それでも翔は叫びたかった。

「さくら、愛してる・・」

 と一晩中叫びたかった。

 いや、そんなんじゃ足りない。

「さくら、愛してる・・」

 と死ぬまで叫びたかった。

「愛してる・・愛してる・・さくら・・さくら・・・」

 と死んでも叫び続けたかった。

 













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